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その2

「ちょっと、花雄、お父さんったらね」


トースターで焦がしたおかげで一瞬香ばしかったパンは、口の中で唾液にまみれると、酸っぱいような不快な味になる。


これをコーヒーで一気に流し込んでいるときだ。母が耐えられずに父の今朝の行状を訴えたいらしい。


「あん?」

「お父さんったらね、あれほど言われてるのに、ベランダで煙草を吸ったのよ」


―――またか。


と思ったものの、母の逆鱗にふれてはまずい。


「またかよ」と仕方なく、さも飽きれたように言っておく。


花雄ら家族が暮らす団地状マンションはなんとベランダでの喫煙も禁止されている。


蛍族をも許さないという厳しい決まりが制定されたきっかけは実は花雄の父だった。


ヒステリックな母の前で煙草を吸うなど、そんな暴挙をする勇気も威厳も甲斐性もないから、花雄の父は当然蛍族のうちの一人だった。


ただ、勤めているうちはよかった。単身赴任の花雄の父は2週間に1度しか帰ってこないから蛍の出現も2週間に一度程度で済んだ。


しかし定年になって蛍は毎日出現するようになった。煙はうちの中には流れてこないからしばらくは平穏だった。


しかし煙は毎日上のほうへ立ち上っていたのだった。団地状マンションだからだいたい上下の階の間取りは一緒である。


つまり用途も似ているというわけで、父の部屋(花雄の家は、花雄が小学生の頃から夫婦別室である)の上は上の階の家族の父が使っていた。


そしてその家の父は禁煙成功者だった。禁煙に成功した者は、非喫煙者以上に喫煙に対して眉を吊り上げる。


毎日流れてくる煙に対して、まず上の階のものから花雄の家に直接苦情が申し立てられた。


世間体第一の母はまずここで父に激しい一斉攻撃を行った。


毎日、今以上に爆撃が行われた。迫撃弾、機関銃。父の姿を見るたびに母は激しい攻撃を加えた。


彼女にとっては禁煙をする気すら起きない父が腹立たしいのだ。


が、結局その苦情は上の階の住人によってマンションの理事会にまで持ち込まれ……


かくして花雄のマンションは蛍族を全面的に締め出したのだ。


蛍は、しばらくは台所の換気扇の下を棲家としていたが、それすらも


「食べ物を扱うところで、あのニオイっ!たまらないわ!」


と追い出され、今はパチンコ屋と公園まで出るはめになっている。


しかし、ときどき、中学生がトイレで隠れて煙草を吸うように、ベランダで吸っているのを見つかって、こうやって朝一番から一斉射撃を受けているのだ。


花雄は、煙草を吸わないから、母の言い分はもっともだと思うが、夫婦だったらもっと優しいやり方がある、と思うのだ。


例えば。上の階の人に


「うちの人は煙草をやめられませんで。申し訳ないのですが1日に時間を決めて●回だけ目をつぶっていただけませんか」と交渉するとか。


花雄は実際にそれを提案した。しかし、家庭の外交官たる母は


「いやよ。なんでそんな情けないことをあの人のために言いにいかなきゃいけないのよ。


あの人が自分でいきゃいいのに、それもしないんだから、まったく!」


と外交を放棄する。


畢竟、母には家庭よりも夫よりも世間体のほうが大事なのだ。


それはずっと前から気付いていた。花雄に対してもそうだ。


花雄が住む団地状マンションは、近くに毎年東大に現役で何人も入るという古い県立高校がある関係で、頭のいい子供がたくさん住んでいた。


新築マンションに移住してくる住人はだいたいその価格から、似たような年齢の子供を持つ家庭が多かった。


毎年毎年、その古い高校の合格のニュースがどこかしらの家庭からも入ってきていた。


そしていよいよ花雄の年が来た。


花雄の成績は中学入学時は学年トップ10に入る素晴らしいものだった。


しかし、クラスメートが塾に通いだすにつれてその順位を下げていった。


今の花雄の偏差値は、その古い高校のちょうどボーダーラインくらいだった。


花雄は本当は、不合格の危険を冒してまでその古い高校を受けたくなかった。


花雄の地区は高校入試の激戦区で平均2.0倍、つまり2人に1人は不合格の憂き目にあい、せっかくの青春を私立の男子校や女子高に散らしていた。


それに花雄にはちょっと好きな子がいた。その子は古い県立高校の1ランク下の新設校を受けるという。


花雄は本当はそっちを受験したかったがそんな理由はまさか母にはいえない。


母はそんな花雄を怠慢だ、となじった。勉強したくないから1ランク下の学校を受けるんだろう、やれば出来るのになぜやらない、と。


男のくせに情けない、と。


ふだんは、男女平等とか言ってるくせに、こんなときは『男』だからどうこうと言う。


その理不尽さに気付いていない母を花雄は軽蔑した。


だいたい、花雄は見抜いていたのだ。


母が熱心にその古い高校を勧めるのは、花雄のためではない。


もしも花雄がその高校に進まなかったら、うちだけが「その高校に進めなかった家」になる。


プライドが高く、世間体を重んじる母はそれを恐れているのだ。


母には勝てず、結局花雄はその古い県立高校を受験させられ、そして落ちた。


落ちた花雄に慰めの言葉もほとんどなく、3つ違いの弟が古い高校に合格するまで、


「あーあ。肩身が狭い」などとちくちくと厭味を言われた。


世間体を重んじる母にとって、


おそらく結婚とか家庭、ひいては子供までも世間体をとりつくろうためのアクセサリーだったのではないか、いや絶対そうだ、と花雄は思う。


それにしても、もっと「合う男」と結婚すればこうやって毎日のようにヒステリックに怒る必要もないだろうに。


一度花雄は父のどこが気に入らないのかを聞いてみた。


(花雄とて、前にも述べたように決して父が好きなわけではないが)


すると「全部」という答えだった。


「『好きな人のどこが好き』と聞かれても答えられないって冬○○(ブームになったあの韓ドラである)でも


言ってたけど、お父さんの場合は逆。どこが嫌いか、わからないぐらい嫌いっ」


と吐き捨てるように言った。


そんなに嫌いな夫とどうして結婚したのか。


ゆきつくところは結局世間体と金である。


母が結婚したのは遅い。30歳で結婚というのは母の時代ではかなり遅いほうだろう。


おそらく、『一応』恋愛結婚in社内だという二人だが、30歳近い母を父は押し付けられたのではないか、と花雄は思っている。


母のほうも背水の陣だっただろうから、よく確認もせずに「結婚」の2文字に飛びついたのだろう。


「あの当時は、みんな結婚しないと変人扱いだったの!」


と言う母だが、母の友人は結構独身も多い。


しかし今でもこれほど世間体を気にする母だから、30の独身老嬢というのは耐えられない悪評だったに違いない。


そして、今もそんな風に父を毎朝のように罵倒しながらも、別れられないのは金銭問題である。


「そんなに毎日キーキーするなら別れればいいのに」と花雄は言ってみた。


すると母は悔しそうに、専業主婦の年金は単独だと暮らせないほど少ないということと、


買ったマンションも昔は父名義が標準だったから、


これを名義変更するには多額の(実際に聞くとたいしたことのない金だが)金が新たに必要になることなどを説明して、


「老後が暮らせなくなるから」というのである。




そういう花雄もこんな家にはいたくない。しかしフリーターの身分では独立もできない。


世間体がきっかけでつくられ、金だけで結びついている家族、それが花雄の家なのである。


父と母が結婚さえしなければ、この修羅場は生まれなかったし、


生産性が低い、我ながらダメ人間だと思っている花雄だって生まれなかったのだ。

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