奏の憤り:理不尽な排斥
図書館で手紙を読んだ翌日から、カナリアの中で何かが変わった。
うまく言葉にはできない。でも、ゼノビアの街を歩く足取りが、少し違った。昨日までは、理不尽な光景を見るたびに胸が重くなるだけだった。今日は、その重さの中に、何か芯のようなものが通っている気がした。
両親が信じていたものを、自分も信じたい。
それだけだった。
変化が現れたのは、午前中のことだった。
市場の外れで、人だかりができていた。
覗いてみると、中心に海鱗族の老人がいた。行商人らしく、小さな荷台に色とりどりの薬草や貝殻を並べていた。その前に、天人族の男が三人、立ちはだかっていた。
「この区画での行商は禁止だ」
「そのような規則は——」
「先月から施行された。知らなかったとは言わせない」
老人は困惑した顔で荷台を見た。今日一日分の商いが、そこにある。
「荷物を置いていけ。没収する」
「待ってください」
カナリアは前に出た。
男たちが振り返る。またお前か、という顔をした一人が、露骨に眉をひそめた。
「その規則、どこに書いてありますか」
「……何?」
「先月から施行されたなら、告知があったはずです。どこに掲示されていましたか」
男たちが顔を見合わせた。
「そんなものいちいち——」
「ないんですね」
カナリアは静かに言った。
「規則があるなら、全員が知れる形で示すべきです。知らせずに没収するのは、規則じゃなくて、ただの言いがかりだと思います」
沈黙が落ちた。
周囲の人たちが、様子を窺っていた。天人族も、獣牙族も、みんな遠巻きに見ている。
男の一人が、一歩前に出た。
「お前、いい加減にしろよ。毎回毎回——」
「毎回って、ことは」
カナリアは引かなかった。
「こういうことが、毎回起きてるってことですよね」
男の顔が、赤くなった。
結局、男たちは荷物を没収せずに去った。
老人がカナリアに頭を下げた。
「ありがとう、お嬢さん」
「いえ。でも、明日も同じことが起きるかもしれません」
「わかっています」
老人は静かに笑った。
「でも、今日は助かった。それで十分です」
その言葉が、胸に刺さった。
今日だけでいい。今日、助かれば。
その諦観が、この街の人たちの日常なのだと、改めて思い知った。
午後、カイルと共に獣牙族の居住区を歩いていた時、子供の泣き声が聞こえた。
路地を入ると、先日のタオがいた。
地面に座り込んで、膝を抱えている。顔に、泥がついていた。
「タオ」
カナリアがしゃがむと、タオは顔を上げた。目が赤い。
「どうしたの」
「……学校」
タオは掠れた声で言った。
「学校で、天人族の子に言われた。獣牙族は、この街にいるべきじゃないって」
カナリアは、すぐには言葉が出なかった。
「先生は?」
「聞こえてたけど、何も言わなかった」
見て見ぬふりをした。
その事実が、じわりと胸に広がった。
「わたし、何か悪いことしたのかな」
タオが小さく言った。
「獣牙族に生まれたのって、悪いことなのかな」
カナリアは、タオの顔を正面から見た。
泥だらけで、目を腫らした子供。でも、その目の奥に、まだ答えを求めている光があった。
「違う」
はっきり言った。
「タオは何も悪くない。生まれた種族は、誰かに決められるものじゃない。それで誰かを傷つけていいわけがない」
「でも、みんなそう言う」
「みんながそう言うから、正しいわけじゃない」
タオは、じっとカナリアを見た。
「……本当に?」
「本当に」
カナリアは迷わず答えた。
タオが、唇を噛んだ。それから、こくりと頷いた。泣くのを、堪えている顔だった。
タオを家まで送った帰り道、カイルが静かに言った。
「お前、最近止まれなくなってるな」
「……うん」
「止まれない理由は、わかってるか」
カナリアは少し考えてから、答えた。
「わかってる気がする」
「言えるか」
「……タオみたいな子を見ると、昔の自分みたいだって思う」
口に出してから、少し驚いた。自分でも、はっきり言葉にしたのは初めてだった。
「記憶はない。でも、あの子の顔を見ると、胸が痛い。それって、多分——」
「同じ痛みを知ってるから」
カイルが言葉を継いだ。
「そうだと思う」
カナリアは頷いた。
夕方、一つの噂を耳にした。
明日、海鱗族の一家が東区画から退去させられるという。
居住の許可が突然取り消されたらしい。理由は「手続きの不備」。でも、同じ不備が天人族にあっても、取り消されたことはないと、獣牙族の宿の主人が憤慨していた。
「十年以上、この街に住んでる一家だよ。子供もいる。なのに、急に」
カナリアは、宿の主人の話を聞きながら、拳を握った。
「その一家は今、どこに」
「東区画の南端。でも、明日の朝には出ていけって言われてるらしい」
カイルが、カナリアの顔を見た。
「行くのか」
「行かないといけない気がする」
「立場が危うくなるぞ。お前はまだ、この街での立ち位置が定まってない」
「わかってる」
「それでも?」
カナリアは、少し考えた。
手紙の言葉が、頭をよぎった。
——あなたが誰かのために立ち上がる時、初めて本当の詞になります。
「行く」
カイルは、一拍置いてから頷いた。
「わかった。俺も行く」
南端の一角に着くと、すでに人が集まっていた。
海鱗族の一家が、荷物をまとめて外に出されていた。母親と、小さな子供が二人。父親は仕事で不在らしかった。
天人族の役人が二人、書類を手に立っている。
「規定通りの手続きです。異議があれば、帝国の窓口へ」
母親が、震える声で言った。
「窓口へ行きました。でも、取り合ってもらえなかった」
「それはこちらの管轄ではありません」
子供が、母親の服を掴んでいた。何が起きているかわからない顔で、ただ怖くて、母親に縋っている。
カナリアは前に出た。
「少し、話を聞かせてください」
役人が振り返った。また旅人か、という顔をした。
「手続きの不備とは、具体的にどの部分ですか」
「書類の——」
「同じ不備が、天人族の居住者にあった場合も、取り消しになりますか」
役人が口を閉じた。
「それは——」
「答えられないなら、不備ではなく、種族を理由にした排除だということになりますよね」
周囲が静まり返った。
役人の顔が、こわばった。
「……貴様、何者だ」
「ただの旅人です」
カナリアは真っ直ぐ見返した。
「でも、間違ってることは間違ってると言います」
沈黙が続いた。
役人たちが何か小声で話し合っている。周囲の住民たちが、遠巻きに見ている。
その時だった。
群衆の中から、声が上がった。
「旅人の言う通りだ」
獣牙族の中年男性だった。
「十年以上、この街にいる一家だ。手続きの不備なんて、聞いたことがない」
別の声が続いた。
「急すぎる。おかしい」
一つ、また一つと、声が重なった。天人族の声も、混じっていた。
役人たちが、明らかに動揺していた。
結局、その日の退去は取り消された。
正式な異議申し立てが認められる形で、手続きが保留になった。
永続的な解決ではない。明日また、別の形で同じことが起きるかもしれない。でも、今日は止められた。
海鱗族の母親が、カナリアの手を取った。
「ありがとう」
琥珀色の瞳が、潤んでいた。
「あなたは、なぜ見知らぬ私たちのために」
「見知らぬ人でも、おかしいことはおかしいから」
母親は、少し驚いた顔をした。それから、静かに笑った。
「あなたみたいな人が、この街にいてくれてよかった」
帰り道、カナリアは無言だった。
カイルも、何も言わなかった。
宿に戻って、ルニを抱えた。毛並みを撫でると、ルニが目を細めた。
今日だけで、何度怒りを感じただろう。何度、やるせなさで胸が詰まっただろう。
でも同時に、何度も確かめた気がした。
——間違ってることは、間違ってる。
それだけは、ぶれなかった。
夜、窓の外を見ながら、カナリアはぽつりと言った。
「お母さんたちも、こうやって動いてたのかな」
「多分な」
カイルが答えた。
「で、どうだった。今日」
「疲れた」
正直に言うと、カイルが小さく笑った。
「そうだろうな」
「でも、やめたいとは思わなかった」
ルニが、胸の中で鳴いた。
カナリアは窓の外の星を見上げた。
明日も、同じような一日かもしれない。変えられることより、変えられないことの方が多いかもしれない。
それでも。
——一人でいい。今日、一人が救われたなら。
カイルの言葉が、今日は自分の言葉みたいに感じた。




