ルニの変容:心の鏡
ゼノビアに来て、三日が経った。
カナリアは毎朝、カイルと共に都市を歩き回っていた。古代図書館の場所を探すためだ。両親のことを知るには、まずそこへ行く必要があると、長老から聞いていた。
でも、それと同時に——もう一つ、気になっていることがあった。
ルニのことだ。
最初に気づいたのは、ゼノビアに着いた翌朝だった。
起き上がって、ルニを見たら、毛並みの色が少し変わっていた。
白銀だったはずが、根元のあたりがわずかに曇っている。光の加減かと思った。でも、次の日も、その次の日も、同じだった。むしろ、少しずつ範囲が広がっている気がした。
「ルニ、大丈夫?」
問いかけると、ルニはいつも通り鳴いた。元気そうに見える。食欲もある。でも、毛並みの曇りだけが、日に日に濃くなっていった。
四日目の朝、カイルがそれに気づいた。
「ルニの色、変わってないか」
「……うん」
「いつから」
「ゼノビアに来てから」
カイルは少し考える顔をした。
「守護生物は、主の心とリンクしている。体の変化は、主の内側の変化を映す」
「つまり」
「お前の心が、何かに影響を受けてるってことだ」
カナリアは、ルニを見た。
曇った毛並みが、朝の光の中でくすんで見えた。
——わたしの、心。
心当たりは、あった。
ゼノビアの街を歩くたびに、見てしまう。獣牙族が端に追いやられる光景を。海鱗族が目を伏せる瞬間を。天人族が当然の顔で誰かを見下す場面を。
そのたびに、胸の奥で何かが揺れる。
怒り、というより、もっとじっとりとした感情。やるせなさ、とでも言えばいいのか。どうにもできない、という無力感。
声を上げたいのに、上げても何も変わらない気がする。変えたいのに、変えられる気がしない。
——わたしに、何ができるんだろう。
その問いが、ここ数日、ずっと頭の中をぐるぐるしていた。
五日目の夕方、事件が起きた。
市場で買い物をしていた時だった。
海鱗族の女性が、天人族の商人と揉めていた。
「品物を返せ」
「支払いは済んでいます」
「済んでいない。お前たちの貨幣は、ここでは通用しない」
「そんな話は聞いていません」
「だから海鱗族は——」
商人が言いかけた瞬間、カナリアは動いていた。
「待ってください」
割り込む。商人が振り返って、舌打ちをした。
「またお前か。旅人は引っ込んでろ」
「この方の貨幣は、昨日まで普通に使えていました。急に使えなくなるのは、おかしくないですか」
「規則が変わった。それだけだ」
「いつ変わったんですか。どこに告知がありましたか」
商人の顔が、赤くなった。
「……お前、うるさいな」
「事実を聞いているだけです」
にらみ合いが続いた。周囲の人たちが、遠巻きに見ている。誰も助けに来ない。でも、誰も立ち去りもしない。
商人は最終的に、舌打ちをしてその場を去った。
海鱗族の女性が、カナリアを見た。
綺麗な目だった。琥珀色の瞳。でも、その奥に、疑うような光があった。
「……なぜ、助けた」
「おかしいと思ったから」
「私たちのことを知らないだろう」
「知らなくても、おかしいことはおかしいです」
女性はしばらくカナリアを見ていた。それから、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
それだけ言って、歩き去った。
振り返りはしなかった。でも、去り際の背中が、少しだけ違う気がした。さっきより、肩が下がっていた。
宿に戻ってから、カナリアはルニを膝に乗せた。
毛並みを撫でながら、今日のことを思い返した。
商人を言い負かした、という達成感はなかった。むしろ、じっとりとした疲れが残っていた。あの女性の「なぜ助けた」という言葉が、頭に引っかかっていた。
——なぜって、なぜだろう。
当たり前のことをしただけだと思っていた。でも、この街では、それが当たり前じゃない。
——わたしは、何がしたいんだろう。
ルニが、カナリアの手に頭を乗せた。
見ると、毛並みの曇りが、また少し濃くなっていた。
「ルニ」
カナリアは、ルニと目を合わせた。
金色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。
「わたし、最近どんな顔してる?」
ルニは鳴かなかった。ただ、じっと見ていた。
その目を見ていたら、なんとなく、わかった気がした。
——暗い顔、してるんだろうな。
毎日、理不尽を見ている。毎日、何かに抗っている。毎日、それでも変わらない現実を突きつけられている。
疲れていた。
認めたくなかったけれど、疲れていた。
——わたしが疲れると、ルニも曇るんだ。
ルニは分身だ。カナリアの心が形になった存在。だから、カナリアの内側が揺らぐと、ルニの体にそれが出る。
——ごめんね、ルニ。
心の中で言うと、ルニが頬に擦り寄ってきた。
その夜、カイルが珍しく、自分の話をした。
焚き火——といっても、宿の小さな暖炉だったけれど——を眺めながら、ぽつりと言った。
「俺も、最初にゼノビアに来た時、こんな感じだった」
「こんな感じ?」
「毎日腹が立って、毎日やるせなくて、毎日何もできない自分が嫌だった」
カナリアは黙って聞いた。
「ルナの毛並みも、変わったよ。お前のルニみたいに」
カイルの肩で、ルナが耳をぴくりと動かした。
「どうやって、立ち直ったの」
「立ち直った、ってわけじゃない」
カイルは少し考えてから、続けた。
「ただ、全部を一人で変えようとするのをやめた。それだけだ」
「……全部を、一人で」
「お前、毎日誰かのために動いてるだろ。止まれないみたいに」
図星だった。
「それ、自分のためじゃなくて、何かから逃げるためにやってないか」
カナリアは、すぐには答えられなかった。
何かから逃げている。
その言葉が、夜の間ずっと頭に残った。
眠れないまま天井を見つめて、考えた。
——わたしは、何から逃げてる?
誰かを助けることで、何かを忘れようとしている?
動き続けることで、立ち止まらないようにしている?
立ち止まったら、何が見えてくるんだろう。
——自分が、怖い。
その答えが浮かんだ瞬間、胸の奥がきゅっと締まった。
自分の内側を見ることが、怖い。何も覚えていない自分。どこから来たのかわからない自分。本当は誰なのかも、まだわかっていない自分。
それを直視するのが、怖かった。
夜明け前、ルニが目を覚ました。
カナリアの胸の上に乗ってきて、金色の瞳でじっと見つめた。
「……起こしてごめん」
ルニは鳴かなかった。ただ、翼を少し広げて、カナリアの胸に体を預けてきた。
温かかった。
その温もりに、何かが緩んだ。
「ルニは、わたしの全部を見てるんだよね」
呟くと、ルニがかすかに鳴いた。
「暗い部分も、弱い部分も、全部」
また、鳴いた。
「それでも、ここにいてくれるの?」
今度は鳴かなかった。ただ、もう少し深く、体を預けてきた。
——いるよ、って言ってる。
そう感じた瞬間、目の奥が熱くなった。
泣かなかった。でも、ずっと張り詰めていた何かが、少しだけ緩んだ。
翌朝、ルニの毛並みを見た。
完全には戻っていなかった。でも、昨日より、少しだけ白かった。
カイルがそれに気づいて、何も言わずに頷いた。
カナリアも、何も言わなかった。
でも、今日は昨日より、少し軽い足取りで宿を出ることができた。




