魂の叫び:最初のコード
帝国の部隊が去って、三日が経った。
村は表面上、元の日常に戻っていた。朝になれば竈に火が入り、子供たちが走り回る。でも、どこかが違った。笑い声が、少し小さい。夜の焚き火を囲む時間が、少し短い。
魔力を搾り取られた村人たちの回復が、遅かった。
長老は床に伏せたままだった。
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異変が起きたのは、四日目の夜明け前だった。
カナリアは物音で目を覚ました。
遠くで、何かが燃えている。オレンジ色の光が、窓の外で揺れていた。
外に飛び出した瞬間、煙の匂いが鼻を突いた。
村の外れ、森との境界にある見張り台が、炎に包まれていた。そしてその前に——帝国の兵士たちが、いた。
三日前より、数が多い。
そして先頭には、あの銀灰色の髪が見えた。
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「追加徴収だ」
ゼクスの声は、夜明けの空気の中でよく通った。
「前回の量では不足した。今回は倍を回収する」
村人たちがざわめいた。
「無茶だ」「死人が出る」「子供まで搾り取るつもりか」
声が上がる。でも、誰も前には出られない。
カイルが、カナリアの隣で一歩踏み出した。
「将校。三日前の徴収で、長老は床に伏せている。これ以上は——」
「排除しろ」
間髪入れずに、ゼクスが言った。
「え」
カナリアが声を上げるより先に、兵士二人がカイルに向かった。
カイルは獣牙族だ。体力はある。でも、魔導士の拘束術は、純粋な体力では抗えない。青白い光がカイルの両腕に巻きついて、その場に膝をつかせた。
「カイル!」
駆け寄ろうとして、別の兵士に行く手を阻まれた。
「離して」
「騒ぐな」
冷たい声だった。カナリアを見ていない目。そこにいるのに、いないように扱う目。
——また、この目だ。
胸の奥で、古い痛みが疼いた。
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ゼクスがカイルの前に立った。
見下ろす目が、無だった。怒りも、嘲りも、何もない。ただ、障害物を確認しているだけの目。
「獣牙族は感情的だな」
独り言みたいな口調だった。
「非効率だ。感情で動く者は、常に判断を誤る」
「黙れ」
カイルが低く言った。拘束されたまま、それでも目を逸らさない。
「この村の者は、あんたたちに何もしていない。それでも奪うのか」
「奪う、ではない」
ゼクスは静かに訂正した。
「必要なものを、必要な量だけ回収している。感傷的な言葉で本質を歪めるな」
「必要? 誰にとっての——」
「帝国にとってだ」
ゼクスの声が、一度だけ低くなった。
「個の感情より、全体の存続が優先される。それが理解できないなら、貴様に語る言葉はない」
カイルが唇を噛んだ。
その顔を見た瞬間、カナリアの中で何かが、音を立てて動いた。
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——やめて。
声にならない言葉が、喉の奥で詰まった。
——やめてよ。
カイルが、こんな顔をしている。誇り高くて、真っ直ぐで、三日前に「まあいい」と笑ってくれた人が、今、地面に膝をついて歯を食いしばっている。
——やめてくれよ。
記憶の底で、何かが揺れた。
知らない誰かの声が、聞こえた気がした。笑い声だった。複数の、冷たい笑い声。そして誰かが俯いている。誰かが、何も言えずにいる。
——それ、わたしだ。
確信があった。記憶はない。顔も、名前も、場所も何もわからない。でも、あの俯いている誰かは、間違いなく自分だった。
誰かに助けてほしかった。
誰かに、「やめろ」と言ってほしかった。
でも、誰も言わなかった。
——だから。
カナリアは、一歩踏み出した。
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足が震えていた。
兵士が行く手を阻もうとした。でも、体が止まらなかった。
「やめてください」
声が出た。自分でも驚くくらい、はっきりした声が。
ゼクスが振り返った。
その目が、カナリアを見た。値踏みする目。透明人間を見る目。
「……何者だ」
「関係ないです」
カナリアは言った。足が震えている。でも、声は震えなかった。
「でも、これは間違ってる。どんな理由があっても、人をこんな風に扱うのは、間違ってる」
ゼクスの表情が、初めて動いた。
嘲るような、かすかな変化。
「感情論だ」
「そうかもしれない」
「非効率だ」
「そうかもしれない」
カナリアは繰り返した。
「でも、間違ってる。それだけははっきりわかる」
沈黙が落ちた。
ゼクスは三秒ほどカナリアを見て、それから目を逸らした。興味を失った、という動作だった。
「排除しろ」
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兵士が動いた。
その瞬間だった。
胸の中で、何かが弾けた。
熱い。すごく、熱い。でも痛くない。むしろ、逆だ。ずっと冷えていた何かが、ようやく溶け始めたみたいな感覚。
抱いていた卵が、強く光った。
白い光が、腕の中で爆ぜた。
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「——え」
誰かが声を上げた。
卵に、ひびが入っていた。細かい光の線が、表面を走っている。一本、また一本と増えていって、やがて卵全体が光に包まれた。
カナリアは、息を止めた。
殻が、割れた。
中から出てきたのは、小さな生き物だった。
白銀の毛並み。鳥の翼と、小さな獣の体を合わせたような姿。目が開いた瞬間、その瞳が——金色だった。
生き物はカナリアを見て、小さく鳴いた。
その声が、胸の真ん中に響いた。
——会いたかった。
そう思った瞬間、体の奥から、何かが溢れ出した。
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光だった。
白銀の光が、カナリアの体から溢れて、夜明けの空に向かって伸びていった。
熱くなかった。痛くもなかった。ただ、ずっと胸の奥に閉じ込めていたものが、一気に解放されていくような感覚。
腕の中の生き物が、翼を広げた。
そして——光が、火になった。
白銀の炎が、柱になって天に向かった。夜明けの空を、昼間より明るく照らした。帝国の兵士たちが、後退した。魔導士が、拘束術を解いた。
カイルが、自由になった手で目を覆った。
「なんだ、これ」
呟く声が、遠くに聞こえた。
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炎が収まった後、カナリアはその場に立っていた。
膝が笑っている。手が震えている。でも、倒れなかった。
腕の中の生き物が、頬に額を擦り付けてきた。温かかった。
「……ルニ」
自然に、名前が出た。
この子の名前は、ルニだ。理由はわからない。でも、そう呼ぶ以外に考えられなかった。
ルニは小さく鳴いた。
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ゼクスが、初めて、表情を変えた。
無ではなかった。嘲りでもなかった。
——警戒。
彼は静かに、部隊に撤退を命じた。
去り際、一度だけ振り返った。その目が、今度ははっきりとカナリアを見た。透明人間を見る目ではなかった。
何かを、見定めようとしている目だった。
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夜明けの光の中、カイルがカナリアの前に立った。
ルニを見て、それからカナリアを見て、しばらく何も言わなかった。
やがて、口を開いた。
「……すごいな」
それだけだった。
でも、その一言が、じんわりと胸に広がった。
ルニが、また鳴いた。
カナリアは初めて、この世界で、声を上げて泣いた。




