鉄の軍靴と、凍りついた記憶
異変に気づいたのは、カイルだった。
朝の見回りから戻ってきた彼の顔が、いつもと違った。引き締まっている、というより、固まっている。感情を、意識して押さえ込んでいる顔。
「カイル?」
「村の者を全員、集会所に集めてくれ」
低い声だった。カナリアは何も聞かずに走った。
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集会所に集まった村人たちの表情は、一様に青ざめていた。
「帝国の部隊が、この方角に向かっている。斥候が確認した」
カイルの言葉に、誰かが息を呑んだ。
「なんで今更こんな辺境に」
「魔力の徴収だ。龍脈が枯れてきているせいで、帝国は各地の集落から直接、住民の魔力を搾り取るようになってる」
老人が俯いた。子供を抱いた母親が、唇を噛んだ。
カナリアには、この世界の政治的な背景はまだよくわからない。でも、場の空気だけは、はっきりと伝わってきた。
——怖い。みんな、怖がってる。
「逃げましょう」
思わず口に出ていた。全員の視線が集まる。
「森に隠れれば、時間を稼げるんじゃ」
「無駄だ」
カイルが静かに言った。
「帝国の魔導士は、生体魔力を感知できる。森に逃げても、すぐに見つかる」
沈黙が落ちた。
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帝国の部隊が村に入ってきたのは、それから一時間も経たないうちだった。
整然とした行軍の音。鉄の軍靴が石畳を踏む、規則正しい音。
カナリアは集会所の窓から、そっと外を覗いた。
兵士たちは白銀の鎧を身に着けていた。背筋が伸びていて、無駄な動きが一切ない。彼らの耳は、丸かった。天人族だ。
そして、その先頭に立つ人物を見た瞬間、カナリアの全身が固まった。
男だった。
年齢は二十代後半くらい。銀灰色の髪を後ろに撫でつけて、白い将校服を着ている。背が高く、立ち姿に一切の隙がない。表情は、無だった。怒っているわけでも、楽しんでいるわけでもない。ただ、任務を遂行しているだけ、という顔。
——知ってる。
そう思った。
もちろん、あの男を知っているわけじゃない。でも、あの目を知っている。
人を、人として見ていない目。
値踏みするような、透明な視線。相手に感情を持つ必要がない、と心の底から思っている人間の目。
——知ってる。あの感じ、知ってる。
胸の奥で、何かが疼いた。記憶じゃない。もっと深いところにある、感情の傷跡みたいなもの。
「ゼクス将校だ」
隣でカイルが呟いた。声が、僅かに硬い。
「帝国でも、特に優秀な男。容赦がない」
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ゼクスは村人を広場に集めさせ、一列に並ばせた。
そして、淡々と告げた。
「魔力徴収に協力してもらう。抵抗する者は排除する。以上だ」
それだけだった。説明も、交渉も、謝罪も何もない。
老人が前に出た。村の長老だった。
「将校殿。我々の蓄えは、もう限界に近い。これ以上搾り取られては、冬を越せない者が出る」
「それは貴様らの問題だ」
ゼクスは長老を一瞥もせずに言った。
「帝国の存続のために必要な魔力量は、感傷で変わるものではない」
「しかし——」
「非効率な議論は時間の無駄だ」
ゼクスの指が、軽く動いた。それだけで、兵士の一人が長老の前に立ちはだかった。
長老が、口を閉じた。
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その光景を見ながら、カナリアの中で何かが揺れ始めていた。
怒り、ではない。もっと根っこのところにある、もっと古い感情。
——また、この感じ。
誰かが、声を上げられずにいる。理不尽なのに、抗えずにいる。それをただ、見ていることしかできない。
——また、この感じだ。
喉の奥が、きゅっと締まった。
胸に抱いた卵が、かすかに震えた気がした。
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徴収が始まった。
魔導士が村人の手を取り、一人ずつ魔力を吸い取っていく。処置を受けた老人が、膝をついた。子供が泣いた。母親が駆け寄ろうとして、兵士に制止された。
カイルが、拳を握っていた。
カナリアは、その横顔を見た。誇り高くて、実直で、誰よりもこの村を大切にしている青年。その彼が今、唇を噛んで、何もできずに立っている。
——カイルが、こんな顔をしてる。
その瞬間、ゼクスと目が合った。
向こうからすれば、偶然の一瞥だったかもしれない。でも、その目がカナリアを通り過ぎた感触は、はっきりとあった。
存在を認めていない目。
値踏みする価値もない、という目。
——知ってる。
疼きが、痛みに変わった。
記憶はない。でも、この感触は知っていた。誰かの視線に、透明人間みたいに貫かれた感覚。そこにいるのに、いないように扱われる、あの感覚。
卵が、また震えた。
今度は、さっきより強く。
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徴収が終わって、帝国の部隊が去っていった後、村には重い沈黙が残った。
長老が、ゆっくりと立ち上がろうとして、よろけた。カイルがすぐに支える。
「大丈夫ですか」
「……慣れてる」
長老の声が、かすれていた。
カナリアは、その光景をただ見ていた。
何もできなかった。何も言えなかった。それがひどくもどかしくて、同時に、どこか既視感があった。
——また、何もできなかった。
その思いが、胸の中に沈んでいった。
卵を抱える手に、自然と力が入った。
中から、かすかな鼓動が伝わってくる気がした。まるで、「大丈夫」と言っているみたいに。
でも今は、その温もりさえ、少し遠かった。




