奇跡の共同戦線:背中を預け合う者たち
儀式の前日、石室の亀裂が再び広がった。
一晩で、倍の速さだった。
黒い霧が、水路全体に漂い始めていた。触れた者が、体の力が抜けると言った。長時間いると、意識が朦朧としてくる者も出た。
時間が、削られていた。
カナリアは、石室の入り口に立った。
中に入れなかった。
霧が、濃すぎた。
「このままでは、儀式の場所がなくなる」
ゼクスが、淡々と言った。
「わかってる」
「対策が、必要だ」
「わかってる」
カナリアは、亀裂を見た。
昨夜より、ずっと大きかった。黒い霧が、渦を巻くように漂っている。
——どうすれば。
考えた。
昨夜、全員の力が繋がった瞬間、亀裂が一時的に閉じた。ということは——
「霧を、押さえることができる」
カナリアは言った。
「昨夜みたいに、三種族の力を繋げれば」
「昨夜は、一瞬だけだった」
「一瞬じゃなくて、儀式が終わるまで、保ち続ける」
ゼクスが、眉をひそめた。
「それは——術者への負担が、相当なものになる」
「わかってる。でも、他に方法がない」
リナを呼んだ。
老族長は、カナリアの提案を聞いて、しばらく黙っていた。
「儀式を行いながら、同時に防衛システムを抑える。二つを並行してやるということか」
「そうです」
「難しい」
「難しくても、できますか」
リナは、カナリアを見た。
「できるかどうか聞いているのか、それともやるかどうか聞いているのか」
「やるかどうか、です」
リナは、少し目を細めた。
「セラの娘だな」
それだけ言って、頷いた。
「やる」
作戦を、立て直した。
儀式の本隊と、防衛の別動隊に分ける。
本隊は、石室の中で龍脈の再起動を行う。天人族の術者、獣牙族の命脈の使い手、海鱗族の共鳴の使い手、各十名ずつ。カナリアが中心に立って、三種族の力を束ねる。
別動隊は、石室の外で防衛システムを抑え続ける。残りの術者と共鳴の使い手が、交代で霧を押さえる。
「俺が、別動隊を指揮する」
ゼクスが言った。
「本隊じゃないんですか」
「天人族の術者の中に、俺より導法の精度が高い者がいる。本隊の指揮は、そいつに任せる」
「ゼクスさんは?」
「外で、全体を見る方が——合っている」
カナリアは、その言葉の意味を考えた。
本隊の中心に立つより、全体を俯瞰して支える方が、今の自分には合っている。
それは、自分の限界を知っている人間の言葉だった。
「わかりました」
カイルが、獣牙族の仲間たちと最終確認をしていた。
カナリアが近づくと、カイルは振り返った。
「準備できてる」
「うん」
「お前は?」
「できてる、と思う」
「思う?」
「正直に言った」
カイルは、少し笑った。
「それでいい」
カナリアは、カイルを見た。
「ありがとう。バルガ村から、ずっと一緒にいてくれて」
「礼はいい」
「でも、言いたい」
「……わかった。聞く」
「あなたがいなかったら、ここまで来られなかった。本当に、ありがとう」
カイルは、少し目を逸らした。
耳が、また赤かった。
「……俺も、同じだ」
「え?」
「お前がいなかったら、俺もここまで来られなかった。それだけだ」
マリンが、海鱗族の共鳴の使い手たちと歌の練習をしていた。
カナリアが様子を見に行くと、十名全員が、昨夜より格段に揃っていた。
「すごい」
「昨夜の感覚が、残ってる」
マリンが言った。
「一度繋がったら、二度目は早い。音楽みたいに」
「族長は?」
「本隊には入らない。別動隊を見てくれる。でも——」
マリンは、石室の方を見た。
「さっき、一人で石室に入っていった。長い時間」
「何をしてたんだろう」
「わからない。でも、出てきた時の顔が——なんか、すっきりしてた」
リナに会いに行った。
老族長は、水路の端に座っていた。目を閉じて、静かに何かを聞いているような顔をしていた。
「族長」
リナは、目を開けた。
「何をしていたんですか。石室で」
「挨拶をしていた」
「挨拶?」
「防衛システムに、だ」
カナリアは、思わず聞き返した。
「防衛システムに、挨拶?」
「あれは悪意ではない。お前が言った通り、仕事をしようとしているだけだ」
カナリアは、驚いた。
「聞いていたんですか」
「水路は、声が響く」
リナは、静かに続けた。
「悪意のないものを、ただ力で押さえ込むのは、筋が違う。だから、挨拶した。世界が回復しようとしていること、邪魔はしないでほしいこと、を伝えた」
「……届きましたか」
「わからない。でも、言わないよりいい」
その夜、全員が石室の外に集まった。
儀式は、翌朝の夜明けに始める予定だった。
最後の夜だった。
誰かが、火を焚いた。水路の中に、小さな焚き火が生まれた。
自然と、全員がその周りに集まった。
天人族の術者が、獣牙族の男の隣に座った。海鱗族の女性が、天人族の少年術者に毛布を分けた。
三日前には、想像もできない光景だった。
タオが、カナリアの隣に来た。
ゼノビアに来てからずっと、世話になっていた老人の家に預けていた。でも、今夜だけは、連れてきた。
「明日、行くの?」
「行く」
「怖い?」
「怖い」
「お母さんが、応援してるって言ってた」
カナリアは、タオを見た。
「タオのお母さんが?」
「うん。カナリアさんにお礼が言いたいって。でも、体がまだ本調子じゃないから、来られないって」
「後で、会いに行く」
「うん」
タオは、焚き火を見た。
「わたし、大きくなったら——カナリアさんみたいになりたい」
「わたしみたいに?」
「怖くても、動ける人。間違えても、諦めない人」
カナリアは、胸が締め付けられた。
「タオは、もうそうなってると思う」
「え?」
「施設で、わたしが暴走しかけた時、逃げなかった。怖かったのに、手を離さなかった」
タオは、きょとんとした顔をした。
「それは——お姉さんが、いつも逃げなかったから」
ゼクスが、焚き火の少し離れた場所に立っていた。
輪の中には入らなかった。でも、離れてもいなかった。
カナリアは、ゼクスの隣に行った。
「輪の中に入らないんですか」
「俺が入っていい場所ではない」
「誰もそんなこと言っていない」
「俺が、そう思っている」
カナリアは、ゼクスを見た。
「一つだけ聞いていいですか」
「なんだ」
「弟さんは、どんな人でしたか」
ゼクスの肩が、かすかに動いた。
しばらく、答えなかった。
やがて、静かに言った。
「……明るい奴だった」
「明るい?」
「俺とは、真逆だった。誰とでも話せて、すぐに友達を作って、笑ってばかりいた」
カナリアは、黙って聞いた。
「あいつが死んだのは——俺が感情的な判断をしたせいだと、ずっと思っていた」
「でも?」
「でも、今夜——ここを見ていて、思った」
ゼクスは、焚き火の輪を見た。
「あいつは、こういう場所が好きだった。みんなで集まって、火を囲んで。俺は、そういうのが苦手だったから、端で見ていた。あいつは、いつも俺を輪の中に引っ張り込もうとした」
「……引っ張り込まれましたか」
「たまに」
その「たまに」という言葉が、温かかった。
「弟さんが今ここにいたら、何て言うと思いますか」
カナリアが聞いた。
ゼクスは、しばらく考えた。
「……輪の中に入れ、と言うだろう」
「じゃあ、入ればいいじゃないですか」
ゼクスは、カナリアを見た。
「簡単に言う」
「簡単じゃないことは知ってる。でも、弟さんがそう言うなら——それが答えじゃないですか」
ゼクスは、焚き火の輪を見た。
長い沈黙があった。
やがて、ゆっくりと、一歩踏み出した。
焚き火の輪に、近づいた。
カイルが、ゼクスに気づいた。
目が、鋭くなりかけた。でも、一瞬だけで、元に戻った。
カイルは、自分の隣の地面を、手のひらで軽く叩いた。
座れ、という意味だった。
ゼクスは、少し目を見開いた。
それから、カイルの隣に座った。
誰も、何も言わなかった。
でも、誰も立ち去りもしなかった。
マリンが、歌い始めた。
今夜は、旋律に言葉があった。
古い言葉だった。カナリアには意味がわからなかった。でも、その音の流れが、温かかった。
一人、また一人と、歌に加わった。
海鱗族だけじゃなかった。
獣牙族の男が、低い声で歌に合わせた。音程は外れていた。でも、誰も気にしなかった。
天人族の少年術者が、小さく口ずさんだ。
やがて、輪全体が、同じ音の中にいた。
カナリアは、その音の中に立っていた。
ルニが、肩の上で目を閉じていた。白銀の毛並みが、焚き火の光に揺れていた。
——これが。
三種族が、一つになっている。言葉もなく、命令もなく、ただ同じ音の中で、同じ場所にいる。
——これが、お父さんとお母さんが守りたかったものだ。
胸の奥が、満ちていった。
悲しくはなかった。
でも、目が、熱くなった。
歌が終わった後、しばらく誰も喋らなかった。
焚き火の音だけが、水路に響いていた。
リナが、口を開いた。
「明日、やり遂げよう」
短かった。
でも、それだけで十分だった。
全員が、頷いた。
その夜、カナリアはなかなか眠れなかった。
でも、怖くて眠れないのとは、少し違った。
頭が、冴えていた。
明日のことを考えていた。三種族の力を束ねる瞬間のことを。ルニが中心に立つ瞬間のことを。亀裂が完全に閉じる瞬間のことを。
うまくいくかどうか、わからない。
でも、今夜、焚き火の輪を見て——うまくいく気がした。
根拠はなかった。
でも、根拠がなくても、そう思えた。
夜明け前、カイルが起きていた。
「眠れないのか」
「眠れない」
「俺も」
二人で、水路の音を聞いた。
しばらくして、カイルが言った。
「バルガ村から、遠くに来たな」
「うん」
「最初にお前を見つけた時——こんなことになるとは思わなかった」
「どう思ってた?」
「記憶のない旅人が、草原に倒れていた。それだけだった」
「今は?」
カイルは、少し考えた。
「……一緒に、世界を変えようとしている仲間だ」
カナリアは、その言葉を胸に受け取った。
「ありがとう」
「また礼を言う」
「言いたいから、言う」
カイルは、苦笑した。
「……どういたしまして」
初めて、その言葉を返してくれた。
夜明けが、近づいていた。
水路の奥から、かすかな光が見えた。
石室の方向だった。
黒い霧の中に、光がある。
消えていなかった。
カナリアは、立ち上がった。
ルニが、目を覚ました。
「行こう」
ルニが鳴いた。
白銀の声が、水路に響いた。
その音が、眠っていた全員を起こした。
誰も文句を言わなかった。
全員が、立ち上がった。
背中を預け合う者たちが、夜明けに向かって、歩き始めた。




