古の防衛システム「世界の掃除屋」
術式の準備が、少しずつ整い始めた頃だった。
マリンがリナ族長から聞き出した龍脈の結節点は、ゼノビアの地下深く、古代の石室の中にあった。水路よりさらに下、岩盤に掘られた空間。そこに、龍脈の流れが集まっていた。
ゼクスが帝国の術者を動かし始めた。カイルが東区画の獣牙族を取りまとめた。リナが、海鱗族の中から共鳴の使い手を選び始めていた。
全員が、動いていた。
だから——異変に気づくのが、少し遅れた。
最初に気づいたのは、ルニだった。
夜中の三時頃、ルニが突然、目を覚ました。
羽を広げて、部屋の中を落ち着きなく動き回った。カナリアが目を覚ました時、ルニは窓の外を見て、低く鳴き続けていた。
「どうしたの」
ルニは答えない。ただ、鳴き続けた。
その声が、いつもと違った。
白銀の声ではなかった。もっと低い、警告するような声。
翌朝、結節点の石室に下りた時、異変は明らかだった。
石室の壁に、昨日まではなかった亀裂が入っていた。
細い亀裂だった。でも、そこから、黒い霧のようなものが漏れていた。
——ルニの毛並みに混じっていた、あの黒。
カナリアは、思わず後退した。
「これは」
ゼクスが、亀裂に近づいた。
「触るな」
カナリアが止めた。
ゼクスは足を止めた。
「なぜだ」
「わからない。でも、近づいてはいけない気がする」
ルニが、カナリアの肩で羽を広げた。警告するように、低く鳴いた。
リナに連絡した。
老族長は、石室に下りてきて、亀裂を見た瞬間、顔色が変わった。
「まずい」
その一言が、場の空気を凍らせた。
「族長、これは何ですか」
「古い記録にある。でも、まさか——こんなに早く」
リナは、亀裂から目を離さずに言った。
「龍脈が限界に近づいた時、世界の防衛システムが起動すると、記録に書いてある」
「防衛システム?」
「古代文明が作ったものだ。世界に余剰な魔力が溜まりすぎた時——あるいは、龍脈が壊れかけた時、世界そのものを初期化しようとする機構」
カナリアは、その言葉の重さを受け取った。
「初期化、というのは」
「文字通りだ」
リナは振り返った。
「すべてを、白紙に戻す。魔力も、生命も、地形も。この世界にあるものを全部、消して——作り直す」
沈黙が、石室に満ちた。
水路の音だけが、遠くで響いていた。
「それが、起動しかけている?」
カイルが、低い声で聞いた。
「起動の前兆だ。本格的に動き出せば——止める方法はない」
「止める方法はない?」
「古代文明は、それを想定していなかった。一度起動したら、完了するまで止まらないように設計されている」
「だから、龍脈の再起動が必要だったのか」
「そうだ。龍脈が正常に流れていれば、防衛システムは起動しない。世界が健全だと判断するから」
カナリアは、亀裂を見た。
「これは、いつ完全に起動しますか」
リナは、少し考えてから答えた。
「早ければ、二週間。遅くても、一ヶ月」
一年という時間が、急に消えた。
二週間。
カナリアは、その数字を頭の中で処理した。
「術式の準備は、どこまで進んでいますか」
ゼクスが答えた。
「帝国の術者、十二名が動ける状態にある。導法の同期まで、もう数日必要だ」
カイルが続けた。
「獣牙族の命脈の使い手、十五名が揃っている。訓練は、明日から始められる」
全員がリナを見た。
「海鱗族は——」
リナは、口を引き結んだ。
「十名、動けると言っている。でも、心を揃えるには、まだ時間が足りない」
「どれくらいかかりますか」
「最低でも一週間は、共鳴の練習が必要だ」
「一週間と、準備の数日。ギリギリだ」
ゼクスが言った。
「ギリギリでも、間に合えばいい」
カナリアは言った。
その夜から、石室への監視を始めた。
亀裂の広がりを、毎日記録した。一日目より、二日目の方が広かった。二日目より、三日目の方が黒い霧が濃かった。
じわじわと、確実に進んでいた。
三日目の夜、カナリアは石室で一人、亀裂を見ていた。
カイルたちは、準備のために地上に上がっていた。
ルニと二人で、亀裂の前に座った。
「世界の掃除屋か」
呟いた。
亀裂から漏れる黒い霧が、揺れた。
怖くなかった、と言えば嘘になる。でも、不思議と、ただ怖いだけではなかった。
——これは、悪意じゃない。
そう感じた。
世界が壊れかけているから、作り直そうとしている。防衛する、という意味では、ルニと同じだ。
ただ、やり方が、根本的すぎる。
「消えたくない」
カナリアは、亀裂に向かって言った。
「この世界の人たちも、消えたくない。タオも、カイルも、マリンも、リナ族長も——ゼクスも」
亀裂は、答えなかった。
当然だった。
「でも、あなたは仕事をしようとしているだけだ。世界を守るために、設計されたことをしようとしているだけだ」
ルニが、低く鳴いた。
「わかってる。でも、止めなきゃいけない」
四日目の朝、ゼクスが石室に下りてきた。
一人だった。
亀裂を見て、顎に手を当てた。
「広がっているな」
「うん。昨日より、一センチほど」
「センチ?」
「……長さの単位。気にしないで」
ゼクスは、亀裂の横の壁に手を触れた。
「魔力の流れが変わっている。龍脈の結節点が、システムに侵食されかけている」
「侵食されたら、どうなりますか」
「術式が使えなくなる。結節点が機能しなければ、三種族が揃っても、龍脈に魔力を流せない」
「つまり、時間との勝負」
「そうだ」
ゼクスは、壁から手を離した。
「一つ、聞いていいか」
「なんですか」
「お前は、怖くないのか」
カナリアは、ゼクスを見た。
珍しい質問だった。
「怖い。でも、それがどうかしましたか」
「お前が怖いと言うのを、初めて聞いた」
「言ってなかったかもしれないけど、毎回怖い」
ゼクスは、少し間を置いた。
「俺も、怖い」
その言葉が、石室に静かに落ちた。
カナリアは、ゼクスを見た。
感情のない顔。でも、その目の奥に、確かに何かがあった。
「何が怖いんですか」
「間に合わないことだ」
「それだけ?」
ゼクスは、しばらく黙った。
「……弟に、間に合わなかった。また同じことが起きるのが、怖い」
カナリアは、何も言わなかった。
「あの時も、もう少し早ければと思った。論理的に動いていれば、間に合ったと思った。だから——」
「感情を捨てた」
「ああ」
「でも、今は怖いと言った」
「……言った」
ゼクスの目が、かすかに揺れた。
「お前のそばにいると、感情を捨てたつもりが——出てくる」
カナリアは、少し考えてから言った。
「それは、いいことだと思います」
「なぜだ」
「怖いと感じるから、間に合わせようとする。感情がなければ、ただの計算になる。計算は、間に合わせようとは思わない」
ゼクスは、何も言わなかった。
「弟さんに間に合わなかったのは、感情があったからじゃないと思う。でも——今は、間に合わせようとしている。それは、感情があるからだと思います」
長い沈黙が落ちた。
亀裂から、黒い霧が揺れた。
ゼクスは、その霧を見ながら、静かに言った。
「……そうかもしれない」
一言だった。
でも、その一言が、百年分の壁を、少しだけ溶かした気がした。
五日目、異変が加速した。
亀裂が、一日で三倍に広がった。
黒い霧が、石室全体に薄く漂い始めた。
その霧に触れた者が、体の力が抜けると言い始めた。
「魔力を吸っている」
ゼクスが、険しい顔で言った。
「システムが、周囲の魔力を取り込んで、起動エネルギーを蓄積している」
「術式の準備に、影響が出るか?」
「出る。このまま霧が濃くなれば、術者たちの魔力が弱まる。儀式ができなくなる」
「どれくらい時間が残っていますか」
「この速度なら——一週間で、石室が使えなくなる」
全員が、石室の外に集まった。
カナリア、カイル、ゼクス、マリン、リナ。
全員の顔に、緊張があった。
「状況を整理する」
カナリアが言った。
「儀式に必要な時間は、最低でも五日。でも、石室が使えるのは、あと七日。余裕は、二日しかない」
「海鱗族の共鳴が、まだ揃っていない」
リナが、静かに言った。
「心を揃えるには、もう少し時間が必要だ」
「どれくらい」
「三日、あれば——」
「三日では、準備に五日かけたら、一日しか余裕がない」
カイルが、腕を組んだ。
「ミスが許されない綱渡りだ」
「それでもやるしかない」
カナリアは言った。
「他に方法がない」
その時、マリンが口を開いた。
「一つ、試してもいいですか」
全員が、マリンを見た。
「共鳴の練習を、毎日続けても——心が揃わないのは、信頼がないからだって族長が言った」
「そうだ」
「でも、信頼って——時間だけじゃなくて、体験で作れる、って聞いた」
マリンは、カナリアを見た。
「カナリアが言ってた。行動で作れるって」
「うん」
「だから——一緒に、何かをやってほしい」
「何を?」
「石室の亀裂を、一緒に見てほしい。天人族も、獣牙族も、海鱗族も——全員で、同じものを見て、同じ恐怖を感じれば」
マリンは、少し恥ずかしそうに続けた。
「心が揃うかもしれない、と思って」
リナが、マリンを見た。
「子供らしい考えだ」
「違いますか」
リナは、しばらく黙った。
「……違わないかもしれない」
老族長は、ゼクスを見た。
「天人族の術者たちを、石室に連れてこられるか」
「できる」
「獣牙族は」
カイルが頷いた。
「呼べる」
リナは、目を閉じた。
何かを、考えていた。
やがて、目を開けた。
「やってみよう」
翌日の夜、石室に全員が集まった。
天人族の術者、獣牙族の命脈の使い手、海鱗族の共鳴の使い手。
総勢四十名近くが、石室に入りきれずに、水路にまで溢れた。
全員が、亀裂を見た。
黒い霧が、石室を漂っていた。その霧に触れると、体の力が抜ける感覚がある。世界が終わりに近づいているという実感が、言葉なしに伝わってくる。
誰も、喋らなかった。
天人族の術者が、獣牙族の男の隣に立っていた。普段なら、あり得ない光景だった。でも、今夜は誰も気にしていなかった。
その沈黙の中で、マリンが歌い始めた。
言葉のない旋律だった。
でも、その歌には、今夜の感情がそのまま込められていた。
怖い。でも、諦めたくない。消えたくない。この世界を、守りたい。
歌が、石室に満ちた。
一人の海鱗族が、マリンに合わせて歌い始めた。次の一人が加わった。また一人が加わった。
十名の海鱗族が、同じ旋律を歌っていた。
心が、揃っていた。
カナリアは、その音を受け取った。
胸の奥で、何かが共鳴した。
ルニが、翼を広げた。白銀の羽が、黒い霧の中で光った。
カイルが、地面に手をついた。命脈が、石室の床を温めた。
ゼクスが、目を閉じて、導法を展開した。精密な魔力の流れが、空気を整えた。
全部が、ルニを経由して、繋がった。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ。
でも、確かに繋がった。
亀裂が、止まった。
広がりが、止まった。
黒い霧が、薄くなった。
一秒、二秒、三秒。
そして——亀裂が、少しだけ、閉じた。
誰かが、息を呑んだ。
石室が、静まり返った。
「今のは」
カイルが言った。
「繋がった」
カナリアは答えた。
「全員の力が、一瞬だけ繋がった。それで、亀裂が閉じた」
「一瞬だけか」
「一瞬だけ。でも——一瞬でもできた」
リナが、亀裂を見ていた。
「今の感覚を、覚えているか」
共鳴の使い手たちに聞いた。
全員が、頷いた。
「ならば」
リナは、振り返った。
「やれる」
その言葉が、石室に響いた。
天人族の術者が、顔を見合わせた。獣牙族の男たちが、立ち上がった。海鱗族の歌い手たちが、静かに頷いた。
カナリアは、全員の顔を見渡した。
天人族、獣牙族、海鱗族。
百年以上、分断されてきた三種族が、同じ場所に立っていた。同じものを見て、同じことを感じて、同じ方向を向いていた。
——これだ。
図の中心の記号。三つの円が重なる場所。
場所ではなかった。
瞬間だった。
全員の心が、同じ方向を向く、その瞬間。
「あと数日で、儀式を始められる」
ゼクスが言った。
「石室が持つか」
「今夜の一瞬で、亀裂の進行が遅くなった。もう少し、時間が稼げるはずだ」
「じゃあ——」
「間に合う」
カナリアは言った。
根拠はなかった。
でも、今夜、全員が同じ方向を向いた。
それだけで、十分な根拠だった。
石室を出た後、マリンがカナリアの隣に来た。
「どうだった?」
「最高だった」
「本当に?」
「うん。マリンの歌が、一番最初に繋いでくれた」
マリンは、少し照れた顔をした。
「たまたまだよ」
「たまたまでもいい。始めてくれた人が、一番大事だから」
カイルが、ゼクスの隣を歩いていた。
珍しい光景だった。
カナリアが後ろから見ていると、カイルが何か言った。ゼクスが、短く返した。何を話しているかは聞こえなかった。
でも、二人の間の空気が、最初よりずっと薄くなっていた。
壁が、少しだけ、溶けていた。
水路を抜けて、地上に出た。
夜の空気が、冷たかった。
カナリアは、空を見上げた。
星が多かった。
——あと数日。
世界の掃除屋は、まだ動いていた。亀裂は、また広がるかもしれない。全部が、うまくいくとは限らない。
でも、今夜、確かに繋がった。
それは、消えない。
「ルニ」
呼ぶと、ルニが鳴いた。
白銀の声が、夜の空に響いた。
その音が、星に届くくらい、高く、澄んでいた。




