三種族の秘儀:失われたパズル
海鱗族の族長に会えたのは、マリンと出会ってから三日後だった。
場所は、ゼノビアの地下水路だった。
街の地下に、古い水路が網の目のように張り巡らされている。観光客も、帝国の兵士も、滅多に立ち入らない場所。そこに、海鱗族の一部が住んでいるとマリンが教えてくれた。
「地上に居場所がないから」
マリンは、淡々と言った。
「ここなら、誰にも邪魔されない」
カナリアは、その言葉の重さを黙って受け取った。
水路の奥に進むほど、空気が変わった。
湿った石の匂い。水の音。そして——歌声が、聞こえてきた。
言葉のない、旋律だけの歌。でも、その音が、空気を柔らかく変えていた。水路の壁が、わずかに光を帯びているように見えた。
「海鱗族の魔力だ」
カイルが、小声で言った。
「歌で、空間そのものを変える」
「綺麗」
「危険でもある。感情を込めれば、聞いた者の心に直接働きかける」
カナリアは、歌声に耳を澄ませた。
今は穏やかな旋律だった。でも、確かに、胸の奥が温かくなる感覚があった。
水路が広くなった場所に、人が集まっていた。
十数名の海鱗族。大人も、子供も、老人もいた。全員が、カナリアたちを見ていた。警戒の目だった。でも、敵意とは少し違う。値踏みする目だった。
中央に、老女が座っていた。
小柄だった。でも、その目が鋭かった。年齢を感じさせない、澄んだ琥珀色の瞳。
「族長だ」
マリンが小声で言った。
「リナ・シェール。海鱗族の長老の中でも、一番頑固な人」
「頑固って言うな」
老女が、マリンを見た。
マリンが、身をすくめた。
「聞こえてたの?」
「いつも聞こえてる」
リナ・シェールは、カナリアを見た。
「マリンから話は聞いた」
「ありがとうございます、会っていただいて」
「礼を言うのは早い。話を聞くとは言ったが、動くとは言っていない」
「わかっています」
リナは、ゼクスを見た。
「天人族も来ているのか」
「はい」
「なぜ、こいつを連れてきた」
カナリアは、答えた。
「三種族が必要だから。帝国抜きでは、龍脈の再起動はできない」
「信用できない」
「そうですね」
カナリアの答えに、リナが少し目を細めた。
「否定しないのか」
「信用できないのは、本当のことだから」
ゼクスが、一歩前に出た。
リナは、その動きを目で追った。
「帝国を代表して、謝罪する」
ゼクスが言った。
その場が、静まり返った。
カナリアも、カイルも、息を呑んだ。
ゼクスが、頭を下げた。
「海鱗族に対して、帝国が行ってきたことは、間違いだった」
短かった。でも、はっきりしていた。
リナは、しばらくゼクスを見ていた。
「言葉だけなら、誰でも言える」
「そうだ」
「行動で示すつもりがあるか」
「ある」
「何ができる」
「徴収した者を全員返す。帝国の施設に収容している海鱗族も含めて」
リナの目が、動いた。
「……本当か」
「約束する」
水路に、静寂が落ちた。
歌声が、止まっていた。
リナは、長い間、何も言わなかった。
やがて、口を開いた。
「一つだけ、確かめたいことがある」
「なんですか」
リナは、カナリアを見た。
「龍脈の再起動に、本当に三種族の力が必要か。それとも、帝国が我々を利用するための方便か」
カナリアは、答えた。
「両親の遺した記録に、書いてありました。古代図書館で読みました」
「セラとリュウの娘か、あなたは」
カナリアは、少し驚いた。
「ご存じなんですか」
「知っている。セラは海鱗族の共鳴を研究していた。何度も、我々のところへ来た」
リナの目が、遠くなった。
「良い人だった。我々を、対等に扱ってくれた唯一の研究者だった」
カナリアは、胸が温かくなった。
お母さんは、ここにも来ていた。
ここでも、境界線を越えようとしていた。
「セラの娘なら」
リナが続けた。
「話だけは、聞いてやる。それ以上は、まだ約束できない」
「十分です」
リナが、水路の奥に目を向けた。
「古い記録を、見せよう」
立ち上がって、水路の奥へ歩き出した。
全員が、後に続いた。
水路の最奥に、小さな部屋があった。
岩を掘って作られた部屋。壁一面に、文字が刻まれていた。
カナリアは、その文字を見た瞬間、息を止めた。
古代図書館で見た文字と、同じ書体だった。
「これは」
「我々が代々守ってきた記録だ」
リナが、壁に手を触れた。
「龍脈がまだ満ちていた頃の、三種族の記録」
壁に刻まれた文字を、リナが読み上げた。
その内容が、頭の中で形になっていった。
かつて、三種族は別々の場所に暮らしながらも、一年に一度、龍脈の要所に集まっていた。天人族が精密な制御を担い、獣牙族が大地に命脈を根付かせ、海鱗族が三つの力を一つに束ねる共鳴を奏でた。
それが、龍脈の定期的な再生儀式だった。
「いつから、やめたんですか」
カナリアが聞いた。
「帝国が力を持ち始めた頃だ」
リナは答えた。
「天人族が、儀式の主導権を握ろうとした。我々は拒んだ。獣牙族も拒んだ。それ以来、儀式は行われなくなった」
「何年前ですか」
「百年以上前だ」
カイルが、低く言った。
「百年以上、龍脈を放置してきたのか」
「放置、ではない」
リナは、カイルを見た。
「我々は、細々と続けていた。でも、三種族が揃わなければ、本来の効果は出ない。海鱗族だけの共鳴では、焼け石に水だった」
「だから、枯渇が進んだ」
「そうだ」
ゼクスが、静かに言った。
「帝国の記録にも、同様の記述がある。儀式が途絶えた頃から、龍脈の減少が加速した」
カイルが、ゼクスを横目で見た。
「それを知っていて、儀式を再開しなかったのか」
「プライドが、邪魔をした」
ゼクスは、短く答えた。
「帝国が頭を下げて、海鱗族や獣牙族に頼む。それができなかった。百年以上、できなかった」
カイルは、何も言わなかった。
でも、その目が、少しだけ変わった。
リナが、壁の奥の文字を示した。
「儀式には、三つの条件がある」
カナリアは、真剣に聞いた。
「一つ目。天人族の導法。龍脈の流れを精密に制御し、暴走を防ぐ」
ゼクスが頷いた。
「それは、帝国の術者が担える」
「二つ目。獣牙族の命脈。大地に生命力を注ぎ込み、龍脈を安定させる」
カイルが、腕を組んだ。
「東区画の仲間に、動ける者がいる。命脈の使い手は、そう多くないが——いる」
「三つ目」
リナは、一拍置いた。
「海鱗族の共鳴。三つの力を一つに束ね、龍脈全体に響かせる。これが、最も難しい」
「難しい理由は?」
「共鳴は、歌い手の心が揃わなければ成立しない。一人でも、迷いがあれば、全体が乱れる」
カナリアは、その言葉を受け取った。
心が揃う。
「族長。一つだけ聞いていいですか」
「なんだ」
「今の海鱗族に、心を揃えられる状態ですか」
リナは、カナリアを見た。
「どういう意味だ」
「長年、傷つけられてきた。外界を信じていない。そんな状態で、天人族や獣牙族と心を合わせることは——難しいんじゃないかと思って」
リナは、しばらく沈黙した。
「……正直な娘だ」
やがて、低く言った。
「難しい。本当のことを言えば、今の我々には、共鳴を完全に奏でる準備ができていない」
「何が足りないんですか」
「信頼だ」
リナは、まっすぐに答えた。
「百年以上積み重なった不信を、言葉一つで消すことはできない」
沈黙が、水路に満ちた。
水の音だけが、続いていた。
カナリアは、考えた。
信頼。
言葉では作れない。時間もない。でも、なければ始まらない。
「時間をください」
カナリアは言った。
「今すぐ答えを出してほしいとは言いません。でも、諦めてほしくもない」
「何をする気だ」
「わからない」
正直に答えた。
「でも、何かできることがあると思う。信頼は、時間だけじゃなくて——行動でも作れると思うから」
リナは、カナリアを見た。
その目が、少しだけ柔らかくなった。
「セラに、似ているな」
「……そうですか」
「同じ目をしている。諦めを知らない目だ」
帰り道、水路を歩きながら、カイルが静かに言った。
「難しいな」
「うん」
「信頼を作るのに、時間がかかる。でも、時間がない」
「わかってる」
「答えは出たか」
「出てない」
カナリアは、歩きながら考えた。
信頼を、行動で作る。
何ができるだろう。
言葉ではない。約束でもない。
——実際に、何かをする。
その考えが、頭の中でゆっくりと形になっていった。
ゼクスが、後ろから言った。
「一つ、提案がある」
全員が振り返った。
「帝国の施設に、今も海鱗族が収容されている。先に、彼らを返す」
「約束したことじゃないですか」
「約束だが——今すぐやる。交渉の結果を待たずに、先にやる」
カナリアは、ゼクスを見た。
「それは、あなたの一存でできるんですか」
「俺の権限でできる範囲がある。皇帝への報告は後になるが——まず、動く」
カイルが、ゼクスを見た。
「なんで、先にやる」
「信頼は行動で作ると、カナリアが言った」
ゼクスは、淡々と言った。
「それが正しいなら、俺も行動する。言葉より先に」
カイルは、しばらくゼクスを見ていた。
それから、短く言った。
「……悪くない」
ゼクスは、何も言わなかった。
でも、その表情が、かすかに変わった。
怒りでも、嘲りでもない。
何か、初めて感じる表情だった。
マリンが、カナリアの隣に来た。
「族長、動くと思う?」
「わからない」
「でも、諦めてない顔してる」
「諦めてない」
マリンは、少し考えてから言った。
「族長がセラの名前を出したのは、初めて見た」
「え?」
「セラのことは、ほとんど話さない人なんだ。大切にしまってる記憶だから」
カナリアは、胸が締まった。
「それを、話してくれた」
「うん」
マリンは、水路の天井を見上げた。
「あなたのことを、気に入ったんだと思う。族長なりの、気に入り方で」
水路を抜けて、地上に出た。
夜の空気が、冷たかった。
星が、多かった。
カナリアは空を見上げながら、今日わかったことを整理した。
三つの条件が、揃っていない。信頼が、足りない。時間が、ない。
でも、今日、確かに一歩進んだ。
リナが話してくれた。ゼクスが頭を下げた。カイルが動いてくれた。マリンが橋渡しをしてくれた。
全員が、少しずつ境界線を越えていた。
ルニが、カナリアの肩で鳴いた。
白銀の声だった。
カナリアは、ルニを見た。
毛並みが、星明かりに輝いていた。
黒い霧は、もうなかった。
完全な白銀だった。
「ルニ」
呼ぶと、ルニが頬に擦り寄った。
温かかった。
「まだ、ピースが足りない」
カナリアは、小声で言った。
「でも、集まってきてる」
ルニが、また鳴いた。
その声が、夜の空に溶けていった。
パズルの欠片が、少しずつ、正しい場所に向かって動いていた。




