境界線を越える手:奏の決意
翌朝、隠れ家に全員が集まった。
カナリア、カイル、タオ、タオの母親。そして——ゼクスだった。
将校服を着ていた。でも、昨夜の倉庫で見た顔と、同じ顔をしていた。入ってきた瞬間、カイルの目が鋭くなった。タオが、母親の後ろに身を寄せた。
当然だった。
この部屋にいる全員が、ゼクスに何かをされていた。
カナリアは、その空気の中に立った。
「紹介します」
カナリアは言った。
「ゼクス将校。帝国の天人族。昨夜、話をしました」
カイルが、腕を組んだ。
「知ってる。信用はしていない」
「わかってる」
「でも、お前が連れてきた」
「連れてきた」
カナリアは、ゼクスを見た。それからカイルを見た。
「信用しなくていい。でも、話だけ聞いてほしい」
カイルは、しばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「聞く。それだけだ」
ゼクスが、昨夜カナリアに話したことを、今度は全員に話した。
世界があと一年で終わること。龍脈の完全停止が近いこと。帝国が十年前から知っていたこと。
タオが、途中で声を上げた。
「なんで今まで黙ってたんだよ」
ゼクスは、タオを見た。子供に詰め寄られるとは思っていなかったのか、一瞬だけ表情が動いた。
「パニックを避けるためだ」
「それって、みんなを信用してなかったってことじゃないか」
ゼクスは、答えなかった。
タオは、続けた。
「秘密にして、一人で全部決めて、それで間違えた。それって——」
タオは、カナリアをちらりと見た。
「お姉さんと、似てる」
カナリアは、思わず苦笑した。
ゼクスの目が、かすかに揺れた。
カイルが、腕を組んだまま言った。
「帝国が協力するとして、獣牙族と海鱗族を説得できると思うか」
「できない」
ゼクスは、即座に答えた。
「俺には、無理だ」
「正直だな」
「嘘をついても意味がない」
カイルは、ゼクスをしばらく見ていた。
「……一つだけ聞く」
「なんだ」
「お前は、本当に世界を救いたいのか。それとも、帝国を守りたいだけか」
沈黙が落ちた。
ゼクスは、カイルから目を逸らさなかった。
「……最初は、帝国を守るためだった」
静かに言った。
「でも今は——わからない」
「わからない?」
「昨夜、カナリアと話して——わからなくなった」
カイルは、その答えをしばらく咀嚼した。
それから、息を吐いた。
「正直な奴だ」
腕を組んだまま、でも、少しだけ肩の力が抜けた。
タオの母親が、静かに口を開いた。
今まで、黙って聞いていた。衰弱した体で、でも、真っ直ぐな目で。
「一つだけ、言わせてください」
全員が、その声に集中した。
「徴収で、わたしは帝国を恨みました。ゼクスという人の名前も、憎みました」
ゼクスは、その言葉を受け止めていた。
「でも、タオを助けてくれたのは、カナリアさんだった。カナリアさんが声を上げてくれたから、わたしたちはここにいる」
「……はい」
「カナリアさんが、この人を連れてきた。それなら、わたしは信じてみます」
タオが、母親を見た。
「お母さん……」
「憎しみだけじゃ、世界は変わらない。カナリアさんが教えてくれた」
その言葉が、部屋の空気を変えた。
カナリアは、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
タオの母親が、あれだけの目に遭って、それでも前を向いている。
——わたしが言えることなんて、何もない。
でも、この人が前を向いてくれるなら、自分も前を向かなければならない。
「話し合いたいことがあります」
カナリアは、全員を見渡した。
「龍脈を再起動するには、三種族の力が必要だということは、わかっています。天人族の導法、獣牙族の命脈、海鱗族の共鳴。この三つが揃わなければ、術式が成立しない」
「海鱗族の説得が、一番難しい」
カイルが言った。
「外界との交流を断っている。どこにいるかも、わかるかどうか」
「心当たりがある」
カナリアは言った。
「マリンだ」
「海鱗族の少女か」
「うん。ゼノビアで会った。まだこの街にいるかもしれない」
「一人の少女が、族全体を動かせるとは思えないが」
「動かせないかもしれない。でも、入り口にはなれる」
カイルは、少し考えてから頷いた。
「獣牙族は、俺が動く」
「カイル……」
「東区画に、仲間がいる。事情を話せば、動いてくれる者もいるはずだ。全員じゃないにしても」
「ありがとう」
「礼はいい。お前が動くなら、俺も動く。それだけだ」
ゼクスが、静かに言った。
「帝国側は、俺が説得する」
「皇帝を動かせるのか」
カナリアが聞いた。
「皇帝は、わたしが知っている帝国とは、少し違う人間だ」
ゼクスは続けた。
「龍脈の件を、一番深刻に受け止めているのは、皇帝自身だ。帝国の強硬策も、皇帝が許可したものだが——本当は、別の道を望んでいた」
「別の道?」
「三種族での協力だ。でも、プライドが邪魔をした」
カナリアは、ゼクスを見た。
「あなたに、似てますね」
ゼクスは、少しだけ目を逸らした。
「……似ているかもしれない」
方針が、決まった。
カナリアとルニがマリンを探し、海鱗族への橋渡しを試みる。カイルが東区画の獣牙族に話を通す。ゼクスが帝国側を説得する。
全員が動く。全員が、自分の側から境界線を越える。
カナリアは、それぞれの顔を見渡した。
カイル。ゼクス。タオ。タオの母親。
三日前には、想像もできない組み合わせだった。
でも、今ここにいる。
「一つだけ、聞いていいですか」
カナリアは、全員に向かって言った。
「みんなは、なぜ動こうとしてくれているんですか」
少し、間があった。
カイルが、最初に答えた。
「お前が動くから」
「わたしのため?」
「違う。お前が動く理由が、正しいと思うから」
タオが続いた。
「世界が終わるなんて、嫌だ。お母さんと、もっと生きたい」
タオの母親が、静かに微笑んだ。
「それで十分だよ、タオ」
ゼクスは、しばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「……弟に、報いたい」
一言だった。
でも、その一言が、部屋の空気を震わせた。
カナリアは、ルニを見た。
白銀の毛並みが、朝の光に輝いていた。黒い霧は、もうほとんど見えなかった。
金色の瞳が、真っ直ぐに自分を見ていた。
——行こう。
その目が、言っていた。
「うん」
カナリアは、頷いた。
その日の午後、カナリアはゼノビアの街に出た。
一人ではなかった。ルニが肩にいた。それで十分だった。
マリンを探した。
海鱗族が集まりそうな場所を、一つ一つ当たった。水路沿いの市場。東区画の外れ。旧市街の井戸の周り。
見つかったのは、夕方になってからだった。
旧市街の水路沿い、石段の上にマリンは座っていた。
水面を見つめていた。膝を抱えていた。
カナリアが近づくと、気配で気づいたのか、振り返った。
「……また、あなた」
「また、わたし」
マリンは、少し目を細めた。
「何の用?」
「話がしたい」
「わたしに、話すことなんてない」
「ある」
カナリアは、マリンの隣に座った。
マリンは、追い払わなかった。
水路の音を聞きながら、カナリアは話した。
世界があと一年で終わること。龍脈の再起動に、海鱗族の共鳴が必要なこと。
マリンは、黙って聞いていた。途中で遮らなかった。
話し終えた後、しばらく沈黙が続いた。
やがて、マリンが口を開いた。
「なんで、わたしに言うの」
「入り口になってほしいから」
「入り口?」
「海鱗族に、話を繋いでほしい。あなたが最初じゃなくていい。でも、最初の一歩になってほしい」
マリンは、水面を見つめた。
「海鱗族は、外界を信じていない。裏切られ続けてきたから」
「知っています」
「信じてほしいと言っても、無理だと思う」
「無理かもしれない」
「それでも、頼むの?」
「頼む」
カナリアは、真っ直ぐに言った。
「無理かもしれなくても、やらなければ、一年後に全部終わる。それだけは嫌だ」
マリンは、しばらく黙っていた。
水路の音だけが、続いていた。
やがて、マリンが顔を上げた。
「一つだけ、聞いていい?」
「うん」
「あなたは、怖くないの?」
「怖い」
カナリアは、迷わず答えた。
「毎日、怖い。うまくいかないかもしれない。誰かを傷つけるかもしれない。また、暴走するかもしれない」
「それでも動けるの?」
「動ける理由がある」
「何?」
カナリアは、ルニを見た。
ルニが、静かにマリンを見ていた。
「一人じゃないから」
マリンは、ルニを見た。
しばらく、ルニの金色の瞳と見つめ合っていた。
ルニが、そっとマリンの膝に頭を乗せた。
マリンの目が、揺れた。
「……ルニって言うの?」
「うん」
「可愛い」
「でしょ」
小さな笑いが、二人の間に生まれた。
マリンが、立ち上がった。
「約束はできない」
「うん」
「でも、聞くだけなら、してあげる」
「それで十分」
「族長に会わせてあげる。話すかどうかは、族長が決める」
「ありがとう」
マリンは、少し照れた顔をした。
「お礼はまだ早い。族長は頑固だから」
「頑固でも、話を聞いてくれるなら」
「……まあ、聞くだけは聞く人だから」
夕暮れの水路沿いを、二人並んで歩いた。
マリンが、ぽつりと言った。
「あなたって、変わってるよね」
「そう?」
「海鱗族のことを、一番わかってない人のはずなのに、一番親身になってる」
「わかってないから、先入観がないのかもしれない」
「……それって、強みじゃない」
「そうかな」
「そうだよ」
マリンは、前を向いたまま続けた。
「わたしたちは、長く傷ついてきたから、壁を作り続けてる。でも、あなたには最初から壁がない」
「壁の作り方を、知らないだけかもしれない」
「それでいいと思う」
隠れ家に戻ると、カイルが先に帰っていた。
「獣牙族の長老に話を通した。全員じゃないが、動いてくれる者が十数名いる」
「本当に?」
「ああ。長老は最初、渋い顔をしていた。でも、世界が終わるという話を聞いて、考えが変わった」
カイルは、マリンを見た。
「海鱗族か」
「族長に会わせてもらえることになった」
「上出来だ」
カナリアは、小さく笑った。
ゼクスからは、まだ連絡がなかった。でも、焦らなかった。
あの人は、動いている。そう感じた。
夜、カナリアは窓の外を見た。
一年という時間が、急に短く感じた。
でも、今日一日で、昨日には見えていなかった道が、少しだけ見えてきた。
マリンが動いた。カイルが動いた。タオの母親が信じてくれた。ゼクスが、弟のために動こうとしている。
全員が、それぞれの境界線を越えようとしていた。
——わたしも、越えなければ。
カナリアは、ルニを抱えた。
「明日も、行こう」
ルニが鳴いた。
白銀の声が、夜の部屋に響いた。
その音が、夜明けより少し早く、カナリアの胸を温めた。




