皇帝の福音:歪んだ正義の正体
施設を出て三日が経った。
カイルが知っている、ゼノビアの外れにある隠れ家に身を寄せた。獣牙族の旧知の家だという。主人は無口な老人で、余計なことを聞かなかった。ただ、温かいスープを出してくれた。
タオの母親は、少しずつ回復していた。魔力の消耗が激しかったが、食事と休息で顔色が戻ってきた。タオは母親の傍を離れなかった。
カナリアは、その様子を遠くから見ながら、考えていた。
——次に、何をすべきか。
施設を抜け出した。でも、何も解決していない。ゼクスはまだいる。帝国はまだある。ゼノビアの種族格差はまだある。龍脈はまだ枯れ続けている。
やるべきことは、山積みだった。
四日目の朝、予想外のことが起きた。
隠れ家の扉を、誰かが叩いた。
カイルが素早く立ち上がった。カナリアも、ルニを抱えて身構えた。
老人が、ゆっくりと扉を開けた。
外に立っていたのは、一人の兵士だった。
帝国の白銀の鎧。でも、剣を抜いていない。両手を上げていた。
「使いだ」
兵士は言った。
「ゼクス将校からの、伝言を持ってきた」
カイルが、兵士の前に立った。
「罠じゃないのか」
「将校は、一人で来いと言った。俺だけだ」
「信用できない」
「それでも、聞いてほしいと言っていた」
カナリアは、カイルに目配せした。
カイルは眉をひそめたまま、頷いた。
兵士が、折りたたんだ紙を差し出した。
受け取って、開いた。
几帳面な文字が、整然と並んでいた。
『今夜、旧市街の水路沿いの倉庫に来い。話がある。一人で来い。これは命令ではない』
最後の一行が、引っかかった。
命令ではない。
ゼクスが、そんな書き方をするとは思っていなかった。
「行くのか」
カイルが、案の定、険しい顔をした。
「行く」
「罠かもしれない」
「かもしれない」
「それでも行くのか」
カナリアは、紙を見つめた。
「ゼクスが罠を張るなら、もっと手が早い。施設を出た時、追ってこなかった。あの日から、三日間、何もしてこなかった」
「……それは確かだ」
「何かを、考えてる。話したいことがある。そう感じる」
カイルは、しばらく黙っていた。
「俺も行く」
「一人で来いって」
「お前が行くなら、俺も行く。それだけだ」
カナリアは、少し考えてから頷いた。
「倉庫の外で待っていてほしい。中には一人で入る」
「……わかった」
カイルは、不服そうだったが、それ以上は言わなかった。
夜、旧市街の水路沿いを歩いた。
石畳が濡れていた。水路の音が、静かに響いていた。人通りがなかった。
古い倉庫が見えた。扉が、わずかに開いていた。
カイルが、外の物陰に消えた。
カナリアは、一人で中に入った。
倉庫の中は、薄暗かった。
魔法の小さな光が、一つだけ灯っていた。その光の下に、ゼクスがいた。
将校服ではなかった。
旅人のような、地味な外套を着ていた。剣は帯びていない。それだけで、随分と印象が違った。
ゼクスは、カナリアが入ってきても、すぐには口を開かなかった。
しばらく、互いに無言だった。
「座れ」
やがて、ゼクスが言った。
近くにあった木箱を示していた。
カナリアは座った。ゼクスも、向かいの木箱に腰を下ろした。
初めて、同じ目線で向き合った。
ゼクスの顔を、改めて見た。
施設で見た時と、同じ顔だった。感情が読めない。でも、今夜は何かが違った。目の奥に、疲れのようなものが見えた。
「話があると言った」
「ある」
「聞きます」
ゼクスは、少し間を置いた。
それから、口を開いた。
「世界が、あと一年で終わる」
カナリアは、すぐには言葉が出なかった。
「……どういうことですか」
「龍脈の枯渇が、臨界点に近づいている」
ゼクスは、淡々と続けた。
「帝国の試算では、一年以内に龍脈が完全に停止する。そうなれば、この世界の魔力は消える。魔力が消えれば、この世界を構成している根幹が崩れる」
「崩れるって」
「霧散する。世界そのものが、消える」
カナリアは、息を呑んだ。
「それを、帝国は知っていた?」
「十年前から知っていた」
十年。
その言葉が、重かった。
「なぜ、言わなかったんですか。三種族に、知らせなかったんですか」
「言えば、パニックになる」
ゼクスの声は、相変わらず感情がなかった。
「各地で暴動が起きる。種族間の争いが激化する。残り少ない魔力を奪い合って、余計に消耗する。帝国はそう判断した」
「だから、黙って魔力を徴収した」
「龍脈を再起動させるには、膨大な魔力が必要だ。各地から集めれば、間に合うかもしれないと考えた」
「間に合ってないじゃないですか」
「……ああ」
ゼクスは、初めて、目を伏せた。
「間に合っていない」
カナリアは、ゼクスを見た。
将校服を脱いだゼクスは、ただの人間だった。疲れた顔をした、一人の人間。
「あなたは、世界を救おうとしていた」
口に出してみた。
「歪んだやり方で、でも、本当は世界を救おうとしていた」
ゼクスは、答えなかった。
「バルガ村の人たちの魔力を搾り取ったのも、ゼノビアで種族を追い詰めたのも、わたしを罠にかけたのも——全部、それのためだった」
「正当化するつもりはない」
ゼクスが、静かに言った。
「やったことは、やったことだ。間違っていたかもしれない。でも、他に方法が見えなかった」
「一つだけ、聞いていいですか」
「何だ」
「怖くなかったですか」
ゼクスが、目を上げた。
「世界が終わると知って、十年間、一人で抱えて——怖くなかったですか」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
ゼクスは、水路の音に耳を向けるような顔で、少し考えた。
「……怖い、という感情は」
言いかけて、止まった。
「俺は昔、感情で大きな判断を誤った。それ以来、感情を排除して動くと決めた」
「何があったんですか」
「関係ない」
「関係あります」
カナリアは、引かなかった。
「あなたが今夜ここに来たのは、わたしに話したいことがあったからじゃないですか。命令じゃないって、自分で書いた」
ゼクスは、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「昔、俺の判断で、守るべき者を死なせた」
カナリアは、何も言わなかった。
「感情的な選択だった。正しいと信じてやったことが、最悪の結果を招いた。それ以来、感情を信じることをやめた」
「……その人は、誰だったんですか」
「弟だ」
一言だった。
でも、その一言の重さが、倉庫の中に満ちた。
「弟を守れなかった。だから、感情を捨てた」
ゼクスは、前を向いたまま言った。
「感情があるから、誤る。感情があるから、判断が曇る。そう決めた」
「でも、弟さんのために感情を捨てたなら——それ自体が、感情からきてるじゃないですか」
ゼクスが、僅かに目を細めた。
「……屁理屈だ」
「屁理屈じゃない」
カナリアは、静かに続けた。
「あなたは弟さんを愛していた。だから、同じ過ちを繰り返さないように、感情を封じた。その根っこにあるのは、愛情じゃないですか」
ゼクスは、答えなかった。
でも、目が、揺れた。
施設で一瞬だけ見えた揺れと、同じ揺れ方だった。
「わたしも、怖かった」
カナリアは言った。
「自分の中を見るのが、怖かった。記憶がない、本当の自分がわからない、何もないかもしれないって、怖かった」
「……お前と俺は、違う」
「違う部分もある。でも、似てる部分もある」
「何が似ている」
「大切なものを守れなかった痛みを、別の何かで塞ごうとしてること」
ゼクスは、返事をしなかった。
でも、視線が、少しだけ下を向いた。
「話を戻します」
カナリアは、ゼクスを見た。
「世界があと一年で終わる。帝国の方法では、間に合わない。そのことを、なぜわたしに話したんですか」
ゼクスは、少し間を置いてから答えた。
「お前の力を、見た」
「施設で?」
「それだけじゃない。バルガ村から、ずっと調べていた」
ゼクスは続けた。
「セラとリュウの娘。三種族の魔力を統合できる詞の継承者。龍脈を再起動できる、唯一の存在」
「……知っていたんですね。最初から」
「ああ」
「だから、罠にかけた」
「力ずくで従わせようとした。でも——」
ゼクスは、初めて、言葉に詰まった。
「お前は、従わなかった」
「帝国のやり方では、無理だということが、わかった」
ゼクスは、静かに続けた。
「龍脈の再起動には、三種族の力が必要だ。天人族だけでは足りない。獣牙族と海鱗族の協力がなければ、術式が成立しない」
「わかってたんじゃないですか、最初から」
「……わかっていた」
「でも、認めたくなかった」
ゼクスは答えなかった。でも、その沈黙が答えだった。
「帝国が支配してきた種族に、頭を下げることは——できなかった」
カナリアは、その言葉の重さを受け取った。
プライドじゃない。罪悪感だ、と思った。頭を下げれば、今まで自分がしてきたことを、認めることになる。それが、できなかった。
「わたしに、何を求めていますか」
カナリアは、真っ直ぐに聞いた。
「三種族を、繋いでほしい」
「帝国は?」
「協力する」
「追い詰めてきた種族に、今更協力するって言えますか」
「言えない」
ゼクスは、はっきり言った。
「俺には、言えない。お前に、頼む」
カナリアは、しばらく考えた。
信用できるかどうか、まだわからない。ゼクスが本当のことを言っているかどうかも、確かめる術がない。
でも、一つだけ確かなことがあった。
——この人は、今夜初めて、本当のことを話した。
将校服を脱いで。剣を外して。命令ではない、と書いて。
それだけで、十分ではないかもしれない。でも、十分すぎるくらいでもあった。
「一つだけ、条件があります」
カナリアは言った。
「なんだ」
「徴収した人たちを、全員返してほしい。タオのお母さんも、バルガ村の人たちも、帝国の施設にいる全員を」
ゼクスは、すぐには答えなかった。
「……それは、帝国の決定が必要だ。俺一人では——」
「できないなら、話は終わりです」
カナリアは、立ち上がりかけた。
「待て」
ゼクスの声が、止めた。
「……やる。約束する」
「約束を破ったら」
「破らない」
ゼクスの目が、真っ直ぐだった。
初めて、その目に感情があった。
誓いの色だった。
倉庫を出た。
水路の音が、変わらず響いていた。
カイルが、物陰から出てきた。
「どうだった」
カナリアは、夜空を見上げた。
星が多かった。
「世界が、あと一年で終わるかもしれない」
カイルが、息を呑んだ。
「ゼクスは、知っていた。十年前から。一人で抱えて、間違ったやり方で足掻いてた」
「……そいつが、協力すると言ったのか」
「言った」
カイルは、しばらく黙っていた。
「信用できるのか」
「できないかもしれない」
「それでも?」
カナリアは、カイルを見た。
「他に道がない。でも、それだけじゃない」
「じゃあ、何だ」
「あの人の目が、今夜初めて、人間の目をしてた」
カイルは、空を見上げた。
長い沈黙の後、息を吐いた。
「……お前が言うなら、信じる」
「ありがとう」
「礼はいい。ただ——」
カイルは、カナリアを見た。
「一年しかないんだろ。急ぐぞ」
カナリアは、頷いた。
ルニが、肩の上で鳴いた。
白銀の声が、夜の水路に響いた。
その夜、隠れ家に戻ってから、カナリアは窓の外を見た。
一年。
長いようで、短い。
三種族を繋ぐ。龍脈を再起動する。ゼクスと協力する。
やるべきことは、まだ山積みだった。
でも、今夜一つだけ、わかったことがあった。
——歪んだ正義も、正義だった。
やり方は間違っていた。でも、ゼクスは絶望の中で、足掻き続けていた。弟を失った痛みを抱えたまま、世界を守ろうとしていた。
それを、否定することは、カナリアにはできなかった。
ルニが、膝に乗ってきた。
毛並みを見ると、黒い霧がほとんど消えていた。
白銀の毛並みが、月明かりに光っていた。
金色の瞳が、カナリアを見ていた。
「行こう、ルニ」
カナリアは言った。
「まだ、終わってない。ここからが、本番だ」
ルニが、力強く鳴いた。
その声が、夜の隠れ家に響いた。
白銀の音が、夜明けを呼んでいるみたいだった。




