精神世界:先祖たちの抱擁
眠ったのか、気を失ったのか、わからなかった。
気づいた時、どこにもいなかった。
部屋もない。壁もない。カイルもタオもいない。
ただ、暗かった。
どこまでも続く暗闇の中に、カナリアは一人で立っていた。足元に地面はあった。でも、何もない。光もない。音もない。
——夢?
そう思った瞬間、違うと感じた。
夢よりも、もっとはっきりしていた。空気の重さがある。自分の呼吸が聞こえる。これは夢じゃない。
——精神世界。
その言葉が、自然と浮かんだ。
ルニがいた。
足元に、小さく丸まっていた。毛並みはまだ黒く染まっていた。でも、金色の瞳だけは、暗闇の中でかすかに光っていた。
「ルニ」
しゃがんで抱き上げると、ルニは力なく身を預けてきた。
軽かった。
こんなに軽かったっけ、と思った。まるで、消えかけているみたいに。
「大丈夫。ここから出る方法を探す」
ルニは、鳴かなかった。
歩き始めた。
どこに向かえばいいかわからない。でも、立ち止まっている気にはなれなかった。
暗闇の中を歩いた。一歩、また一歩。
どれくらい歩いたかわからない。時間の感覚がない場所だった。
やがて、前方に何かが見えた。
光だった。
白くも、金色でもない。温かいオレンジ色の光。焚き火みたいな、揺れる光。
吸い寄せられるように、近づいた。
光の中心に、二人がいた。
女性と、男性。
女性は本を抱えていた。癖のある、でも丁寧な印象の人だった。柔らかく笑っていた。
男性は剣を帯びていた。背が高くて、日焼けした肌。でも、目が優しかった。
カナリアは、足を止めた。
——知らない。
会ったことはない。顔も、声も、記憶にない。
でも、胸の奥が、締め付けられるように温かくなった。
——知ってる。
矛盾していた。でも、両方が本当だった。
女性が、先に口を開いた。
「来たね」
声を聞いた瞬間、涙が出そうになった。
どうして涙が出そうになるのか、わからなかった。この声を聞いたことは、ない。
でも、知っていた。
「お母さん」
声が、掠れた。
女性が、静かに頷いた。
「ここに来てくれた。よかった」
男性が、一歩前に出た。
「カナリア」
その声も、初めて聞く声だった。でも、胸の奥に、ずっとあった声だった。
「お父さん」
今度は、声が出なかった。
唇だけが、動いた。
母が近づいてきた。
カナリアの顔を、両手で包んだ。
温かかった。
「泣いていいよ」
その一言で、崩れた。
声を上げて泣いた。暗闇の中で、光に包まれながら、子供みたいに泣いた。記憶のない親に、それでも縋るようにして泣いた。
どれくらい泣いたかわからない。
泣き終わった後、母は何も言わなかった。ただ、頭を撫で続けていた。
やがて、父が静かに言った。
「辛かったね」
「……うん」
「一人で、全部抱えようとしていた」
「それしか、できなかった」
「そうじゃない」
父は穏やかに、でもはっきりと言った。
「お前には、傍にいてくれる人がいる。それが見えなくなっていただけだ」
「でも、わたしのせいで、みんなが——」
「違う」
父の声が、少しだけ強くなった。
「お前のせいじゃない。お前が声を上げたから、誰かが救われた。お前が立ち止まらなかったから、諦めなかった人がいる」
カナリアは、唇を噛んだ。
「でも、ゼクスは言った。わたしのせいだって」
「ゼクスは、お前を動かすためにそう言った」
母が、静かに続けた。
「人の罪悪感を利用するのは、古い手だよ。あなたを傷つけることで、あなたを動かそうとしている」
「わかってた。でも、止められなかった」
「わかっていても、揺れる。それが人間だよ」
母が、カナリアの手を取った。
「ねえ、カナリア。一つだけ聞いていい?」
「うん」
「あなたは今、自分のことが好き?」
カナリアは、すぐに答えられなかった。
好き。
自分のことが、好きか。
——わからない。
「……わからない」
「正直に言えたね」
母は、微笑んだ。
「記憶がなくて、本当の自分もわからなくて、それでも誰かのために動き続けてる。すごいことだよ」
「すごくない。止まれないだけだ」
「止まれない理由は、怖いから?」
カナリアは、黙って頷いた。
「自分の中を見たら、何もないかもしれないって怖い?」
「……うん」
父が、カナリアの前にしゃがんだ。
目線を合わせて、真っ直ぐに見た。
「カナリア。お前の中には、何もないなんてことはない」
「でも、記憶が——」
「記憶じゃない」
父は首を横に振った。
「タオが泣いていたら、胸が痛かっただろう。マリンが理不尽に扱われたら、怒りを感じただろう。カイルが縛られていたら、助けたいと思っただろう」
「……うん」
「それが、お前だ」
父の声が、温かかった。
「記憶がなくても、名前がわからなくても、どこから来たのかわからなくても——誰かの痛みに反応できる心が、お前の中にある。それが、お前という人間だ」
カナリアは、しばらく下を向いていた。
父の言葉が、胸の中でゆっくりと広がっていった。
——誰かの痛みに反応できる心。
記憶はない。過去もわからない。本当の名前も、まだ知らない。
でも、タオが泣いていたら、胸が痛かった。それは本当だった。
マリンが囲まれていたら、前に出た。それも本当だった。
カイルが縛られていたら、助けたかった。それも、本当だった。
——それが、わたし。
「でも」
カナリアは顔を上げた。
「その心が、ルニを黒くした。暴走させた。誰かを傷つけそうになった」
「そうだね」
母が、頷いた。
「怒りも悲しみも、本物の感情だよ。それは悪くない。ただ——」
「一人で抱えすぎた」
「そう」
母が、ルニに目を向けた。
カナリアの腕の中で、黒く染まったまま丸くなっているルニ。
「ルニを見て。何を感じる?」
「……申し訳ない」
「それだけ?」
カナリアは、ルニを見つめた。
黒い毛並み。でも、金色の瞳はまだある。消えていない。
「……愛しい」
声に出したら、自分でも驚いた。
「こんなに黒くなっても、まだここにいてくれてる。まだ、金色の目で見てくれてる。それが——」
喉が詰まった。
「それが、愛しい」
母が、静かに微笑んだ。
「ルニはね、あなたの分身だよ」
「うん」
「あなたがルニを愛しいと思えるなら——あなたは、自分自身を愛しいと思える」
カナリアは、息を呑んだ。
「ルニの黒さは、あなたの弱さだ。あなたの恐れだ。あなたの傷だ。でも、その奥にある金色は、あなたの本質だ」
「本質」
「誰かのために立ち上がれる心。痛みを知っているから、他人の痛みがわかる心。それが、あなたの本質だよ」
父が、立ち上がった。
そして、カナリアの頭に手を置いた。
「一つだけ、覚えておいてほしいことがある」
「うん」
「俺たちは、お前を一人にしたことを、ずっと申し訳なく思っていた」
カナリアは、顔を上げた。
「でも、後悔はしていない」
「……どういうこと」
「お前を別の世界に送ったのは、お前に生きてほしかったからだ。この世界の闇から、守りたかったから」
父の目が、真っ直ぐだった。
「お前が今ここにいるのは、お前が生き続けてくれたからだ。どんな世界でも、諦めずにいてくれたからだ」
「……記憶もなくて、孤独で、それでも?」
「それでも」
父は迷わなかった。
「孤独だったかもしれない。でも、お前は折れなかった。それが、何より嬉しい」
涙が、また出てきた。
今度は、声を上げなかった。ただ、静かに流れた。
母が、もう一度カナリアを抱きしめた。
「行きなさい」
耳元で、囁くように言った。
「まだ、やることがある。カイルが待ってる。タオが待ってる。ルニが、あなたを必要としてる」
「でも、怖い」
「怖くていい」
「また、暴走するかもしれない」
「そしたら、またここに来なさい」
母の声が、温かかった。
「でも、次は自分で戻ってこれる。今夜わかったはずだから」
「何が?」
「あなたには、帰る場所がある、ってこと」
父が、一歩後ろに下がった。
二人の姿が、少しずつ光の中に溶け始めた。
「待って」
カナリアは手を伸ばした。
「まだ、聞きたいことが——」
「全部は話せない」
母が、微笑んだ。
「でも、また会える。あなたが自分を信じれば、いつでも」
「自分を、信じる」
「そう。ルニを愛しいと思えたでしょう。それと同じだよ」
父が、最後に言った。
「お前は孤独じゃない。ずっと、そうだった。ただ、忘れていただけだ」
光が、広がった。
暗闇が、溶けていった。
二人の姿が、見えなくなった。
でも、不思議と、悲しくなかった。
消えたんじゃない、という感覚があった。どこかに、いる。ずっと、いる。
目が、開いた。
部屋の天井が見えた。
カイルが、隣に座っていた。眠らずにいたらしく、目が充血していた。カナリアが目を開けた瞬間、安堵の息を吐いた。
「戻ってきた」
「……うん」
「どこに行ってたんだ」
「遠いところ」
カナリアは、上体を起こした。
ルニが膝の上にいた。
毛並みを見て、息を呑んだ。
黒い霧が、半分以下になっていた。まだ完全ではない。でも、金色の毛並みが、確かに戻ってきていた。
「ルニ」
ルニが、目を開けた。
金色の瞳が、真っ直ぐにカナリアを見た。
タオが、目をこすりながら起き上がった。
「お姉さん、大丈夫?」
「大丈夫」
今日は、そう言える気がした。
「お母さん、絶対助ける」
タオが、唇を引き結んだ。
「……うん」
「一人じゃない。カイルもいる。ルニもいる」
カナリアは、カイルを見た。
カイルは、何も言わずに頷いた。
窓の外が、白み始めていた。
夜明けだった。
カナリアは、ルニを抱えて立ち上がった。
足が、震えなかった。
頭の中の声は、まだかすかに残っていた。でも、昨日より、ずっと遠かった。
——お父さんとお母さんの声の方が、近い。
そう思えた。
それだけで、十分だった。




