暴走:闇に飲まれる魂
四日目の朝、ゼクスは来なかった。
代わりに、兵士が一人、部屋に入ってきた。無言で、一枚の紙を置いていった。
拾って見た。
カイルの名前が書いてあった。その横に、移送先の地名。帝国の魔力採掘施設。
——移送。
言葉の意味が、じわりと広がった。
採掘施設に送られた者が、どうなるか。ゼノビアに来てから、何度も耳にしていた。魔力を限界まで搾り取られて、廃人同然になって戻ってくる者がいる、と。戻ってこない者もいる、と。
紙を、床に置いた。
手が、震えていた。
昼前に、別の兵士が来た。
今度は何も置いていかなかった。ただ、一言だけ言った。
「マリンの家族の徴収が、今朝始まった」
それだけ言って、出ていった。
カナリアは、部屋の隅に座っていた。
ルニが膝の上にいた。毛並みの黒い霧が、昨日より広がっていた。もう根元だけじゃない。毛先の方まで、じわじわと滲んでいた。
——落ち着け。
自分に言い聞かせた。
——これは罠だ。揺さぶるための情報だ。全部が本当とは限らない。
でも、全部が嘘とも限らない。
カイルが、施設に送られるかもしれない。マリンの家族が、魔力を搾り取られているかもしれない。
——わたしが動かないから、こうなってる。
その考えが、頭に浮かんだ瞬間、打ち消した。
——違う。わたしのせいじゃない。ゼクスがそう思わせようとしているだけだ。
でも。
——でも、動けば、何かが変わるかもしれない。
夕方になっても、ゼクスは来なかった。
兵士が三度目に来たのは、日が暮れてからだった。
今度は、紙ではなかった。
扉が開いて、誰かが中に押し込まれた。
床に倒れ込んだその人物を見て、カナリアは立ち上がった。
「タオ」
タオだった。
顔に、青痣があった。服が破れていた。目が、焦点を失っていた。
「タオ、タオ、しっかりして」
駆け寄って、肩を抱いた。タオは、しばらく何も言わなかった。
やがて、掠れた声で言った。
「……お母さんが」
「お母さんがどうしたの」
「連れて行かれた。徴収って言って、連れて行かれた。どこに行ったかわからない」
タオの目から、涙がこぼれた。
「止めようとしたら、殴られた。何もできなかった」
カナリアの中で、何かが、音を立てた。
——また、だ。
また、誰かが傷ついている。また、誰かが泣いている。また、理不尽が、何食わぬ顔で誰かを踏みにじっている。
——また、わたしは何もできていない。
頭の中で、声が始まった。
——お前のせいだ。
違う、と打ち消した。
——お前が動かないから。
違う。
——お前がいなければ、こうならなかった。
——お前がいると、みんな不幸になる。
——お前は、何の役にも立たない。
声が、どんどん大きくなった。顔の見えない誰かたちの声。現実の声なのか、記憶の声なのか、もうわからない。全部が混ざって、頭の中を満たしていく。
タオが何か言っていた。でも、聞こえなかった。
気づいた時、立ち上がっていた。
扉に向かっていた。
「待って」
タオの声が、遠くで聞こえた。
「どこ行くの」
「終わりにする」
自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。
「ゼクスのところに行く。言う通りにすれば、みんなを解放するって言った。だから——」
「ダメだよ」
タオが、カナリアの服の裾を掴んだ。
「ダメ。そんなのダメだよ」
「でも、タオのお母さんが——」
「それでもダメ」
タオは、痣のある顔で、まっすぐカナリアを見た。
「お姉さんが言ったじゃないか。間違ってることは間違ってるって。ゼクスのやり方は、間違ってる。それに従ったら、お姉さんも間違いになる」
カナリアは、タオを見た。
泣きながら、それでも手を離さない子供。
何かが、胸の奥で揺れた。
でも、声は止まらなかった。
——お前のせいだ。
——お前が動けば、タオのお母さんも助かる。
——お前が我慢すればいいだけだ。
——お前なんて、どうせ。
どうせ、何。
——どうせ、誰にも必要とされていない。
その一言が、ひどく静かに、胸の中心に落ちた。
ルニが、翼を広げた。
黒い霧が、一気に広がった。
毛並み全体が、暗い色に染まっていく。金色だった瞳が、濁っていく。
「ルニ」
声をかけた。でも、ルニの体が震えている。カナリアの内側の揺れを、そのまま反映するように。
——止めないと。
わかっていた。でも、止め方がわからなかった。
声が止まらない。ルニの色が戻らない。タオがまだ服を掴んでいる。全部が同時に、押し寄せてくる。
限界だった。
カナリアの体から、魔力が溢れた。
制御できない。意図していない。ただ、内側に溜まっていたものが、一気に外に出ようとしている。
でも、その色が、白銀ではなかった。
黒かった。
ルニから溢れた霧と、カナリアから溢れた魔力が混ざって、部屋の中に暗い渦を作った。壁が軋んだ。床が震えた。
タオが、後ずさった。
「お姉さん」
その声が、遠かった。
暗い渦の中心に立ちながら、カナリアは自分が自分でなくなっていく感覚を覚えた。
——このまま、消えてしまえば。
その考えが、一瞬だけ、頭をよぎった。
消えてしまえば、誰も傷つけない。自分のせいで、誰かが泣くこともない。
——消えれば。
その瞬間、ルニが鳴いた。
黒く染まった喉から、それでも、金色の声が出た。
小さかった。かすれていた。でも、確かに聞こえた。
カナリアの胸に、その音が刺さった。
——ルニが、鳴いている。
暗い渦の中で、ルニがこちらを見ていた。黒く濁った瞳の奥に、かすかな金色が残っていた。
消えていない。
まだ、消えていない。
——ルニが、いる。
渦が、少し揺らいだ。
タオが、震えながらも、一歩前に出た。
「お姉さん」
また、呼んだ。
「怖い。正直、めちゃくちゃ怖い」
タオの声が、震えていた。
「でも、逃げない。お姉さんが、逃げなかったから」
カナリアは、タオを見た。
泣きながら、それでも立っている子供。
——この子は。
——この子は、わたしを見ている。
消えてしまえばいい、なんて思いが、嘘のように感じた。
渦が、揺らぎ続けた。
でも、収まらなかった。
カナリアの中の声は、まだ続いていた。黒い魔力は、まだ溢れていた。一人では、止められなかった。
扉が、吹き飛んだ。
廊下から、兵士たちが飛び込んでくる声がした。
でも、その前に、別の足音が聞こえた。
走ってくる足音。
「カナリア」
聞き覚えのある声だった。
ぼやけた視界に、茶色の髪が見えた。
カイルだった。
拘束術を、どうやって解いたのかわからない。体のあちこちに術の焼け跡がある。それでも走ってきた。
カイルは、暗い渦の中に、躊躇わずに入ってきた。
そして、カナリアの肩を掴んだ。
「カナリア。俺がいる」
それだけ言った。
説明も、慰めも、何もなかった。ただ、いる、という事実だけ。
その手の温かさが、暗い渦を揺るがした。
「カイル、離れて。危ない」
「離れない」
「でも——」
「離れないって言ってる」
カイルの手が、肩をしっかりと掴んでいた。
黒い魔力が、揺れた。
渦が、少しずつ小さくなった。
完全には収まらなかった。でも、中心に、僅かな静けさが生まれた。
ルニが、その静けさに向かって、かすれた声でもう一度鳴いた。
カイルの手が、温かい。
タオの視線が、温かい。
ルニの声が、温かい。
——わたしは、ここにいる。
その感覚が、じわりと戻ってきた。
消えてしまいたい、なんて思いが、遠くなった。
渦が、静かに収まっていった。
黒い魔力が、霧散した。
カナリアは、その場に膝をついた。
体から、力が抜けていた。両手が震えていた。頭の中の声は、まだ残っていた。でも、さっきより小さかった。
ルニが、よろよろと近づいてきた。毛並みはまだ黒く染まっていた。でも、金色の瞳が、少しだけ戻っていた。
「……ルニ」
手を伸ばすと、ルニが頬に擦り寄った。
カイルが、隣にしゃがんだ。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、静かに口を開いた。
「全部、聞こえてたわけじゃない。でも、お前が限界だったのはわかった」
「……うん」
「一人で抱えすぎだ」
「わかってる」
「わかってるのに、やめられないんだろ」
カナリアは、何も言えなかった。
「俺も、そうだったから」
カイルは、前を向いたまま言った。
「全部自分でなんとかしようとして、限界を超えて、ルナが真っ黒になったことがある」
「……カイルも?」
「一度だけ。でも、忘れない」
カイルは、カナリアを見た。
「その時、俺を止めたのは、ルナの声だった」
タオが、そろそろと近づいてきた。
カナリアの前に座って、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「お母さんのこと、諦めてない」
「タオ……」
「でも、お姉さんに無理させたくない。お姉さんが壊れたら、わたし、もっと嫌だ」
子供の言葉だった。でも、真っ直ぐだった。
カナリアは、タオの頭に手を乗せた。
「……ありがとう」
その夜は、三人で部屋にいた。
タオはいつの間にか眠っていた。カイルは扉の前に座って、目を覚ましていた。
カナリアは、ルニを抱えたまま壁に凭れていた。
頭の中の声は、まだあった。完全には消えていない。
黒い霧も、まだルニの毛並みに残っていた。
でも、今夜は一人じゃなかった。
——まだ、終わっていない。
カナリアは目を閉じた。
暗闇の中に落ちる感覚は、まだそこにあった。
でも、その暗闇の底に、かすかな光が見えた気がした。
まだ小さい。でも、確かにある。
——あの光のところまで、行かなければ。
その思いだけを胸に、カナリアは夜を越えた。




