帝国の罠:再来する「恐怖」
朝から、街の空気がおかしかった。
いつもより人が少ない。市場の声が、どこか抑えられている。獣牙族の居住区を歩いていた獣牙族の男たちが、急いで建物の中に消えていった。
カイルが、立ち止まった。
「帝国の兵だ」
低い声だった。
大通りの向こうから、白銀の鎧が見えた。一人、二人ではない。整然と並んだ隊列が、街の中心へ向かって進んでいた。
そして、その先頭に。
銀灰色の髪が、朝の光に光っていた。
ゼクスだった。
バルガ村で見た時と、何も変わっていない。白い将校服。無駄のない立ち姿。感情を持たない目。
でも、一つだけ違うことがあった。
その目が、真っ直ぐにカナリアを向いていた。
偶然ではなかった。迷いのない視線だった。最初からここにいることを知っていた、という目だった。
「見つけた」
ゼクスが、静かに言った。
たった二文字が、背筋を凍らせた。
逃げる間もなかった。
兵士たちが、瞬く間に周囲を囲んだ。カイルが前に出ようとした瞬間、魔導士の拘束術が走った。青白い光がカイルの全身に絡みついて、その場に縫い止めた。
「カイル」
「大丈夫だ」
カイルは歯を食いしばりながら言った。でも、体が動かない。
ルニが翼を広げた。カナリアを守ろうとしている。でも、ゼクスが指を一本立てると、別の魔導士がルニに向かって術を放った。
「ルニ、ダメ」
咄嗟に腕の中に抱え込む。ルニを守った代わりに、カナリア自身が術を受けた。
腕に、力が入らなくなった。
帝国の施設に連れて行かれた。
ゼノビアの中心部、天人族の居住区の奥にある、白い石造りの建物。表向きは行政施設らしい。でも、中に入ると空気が変わった。
窓がない。外の音が聞こえない。
廊下を歩かされながら、カナリアは状況を整理しようとした。カイルは別の場所に連れて行かれた。ルニは腕の中にいる。術の影響で体が重いけれど、意識ははっきりしている。
——落ち着いて。今できることを考える。
自分に言い聞かせた。
でも、足が、かすかに震えていた。
通された部屋は、広かった。
窓のない白い壁。中央に椅子が一脚。それだけの部屋。
ゼクスが向かいに立った。兵士たちは扉の外に出た。部屋には、二人だけになった。
ゼクスは、しばらくカナリアを無言で見ていた。
値踏みする目ではなかった。今日の目は、違う。何かを、分析している目だった。
「バルガ村で白銀の炎を出した少女」
やがて、口を開いた。
「あの力の正体を調べた。龍脈の継承者——セラとリュウの娘」
カナリアは、何も言わなかった。
「記憶がないと聞いている。だが、力は確かに持っている」
「……何が目的ですか」
「協力してもらう」
ゼクスは静かに言った。
「龍脈の再起動には、お前の力が必要だ。帝国に従えば、悪いようにはしない」
「従わなければ?」
「その必要はない」
ゼクスの目が、細くなった。
「従うように、なってもらうだけだ」
その言葉の意味が、すぐにわかった。
翌日から、始まった。
最初は、情報だった。
帝国の兵士が部屋に来て、淡々と告げた。
「ゼノビア東区画の獣牙族、三十七名が帝国の管理下に置かれた」
カナリアは黙っていた。
「そのうちの一名は、カイルという青年だ」
胸が締まった。でも、表情を動かさなかった。
「彼の処遇は、お前の態度次第だ」
次の日は、別のことを言った。
「マリンという海鱗族の少女を知っているか」
カナリアは答えなかった。
「彼女の家族が、帝国の徴収対象になった。全員の魔力を搾り取れば、冬を越せないかもしれない」
沈黙。
「お前が協力すれば、対象から外す」
三日目は、もっと直接的だった。
ゼクスが自ら部屋に入ってきた。椅子に座って、書類を広げた。
「お前がこの一週間でゼノビアに関わった者のリストだ」
書類には、名前が並んでいた。タオ。市場の老人。海鱗族の母子。マリン。
「全員、帝国の管理下に置くことができる」
カナリアは書類を見た。
「お前が余計なことをするから、こうなった」
ゼクスの声は、感情がなかった。
「お前が黙っていれば、彼らは普通に生きていた。お前が動くから、帝国は彼らを把握した。お前のせいだ」
——お前のせいだ。
その言葉が、頭の中で反響した。
記憶の底で、何かが揺れた。
——お前がいるから、ややこしくなるんだ。
——お前さえ黙っていれば。
——お前のせいで、みんなが迷惑してる。
声が、重なった。顔の見えない、冷たい声。
——知ってる。この言葉、知ってる。
呼吸が浅くなった。
ゼクスの声が、遠くなった。現実と記憶の境界が、溶けそうになった。
ルニが、腕の中で震えた。
その振動で、現実に引き戻された。
ゼクスを見た。書類を持ったまま、こちらを観察している目。感情がない目。でも、今は確かに、何かを計算している目だった。
——これは、罠だ。
頭が、急速に冷えた。
心を揺さぶって、判断を鈍らせるための罠。自分のせいだと思わせて、従わせるための言葉。
——わかってる。
でも、わかっていても、揺れた。
タオの顔が浮かんだ。マリンの声が聞こえた気がした。カイルの、歯を食いしばった顔が見えた気がした。
「……一つ、聞いてもいいですか」
カナリアは、口を開いた。
ゼクスが目を上げた。
「あなたは、本当にそれが正しいと思っているんですか」
「正しい、とは」
「人を道具みたいに扱うこと。誰かを傷つけることで、別の誰かを動かすこと」
ゼクスは、少し考えた。
「正しいかどうかは関係ない」
「じゃあ、何が基準なんですか」
「効率だ」
やはり感情のない声だった。
「感傷は判断を鈍らせる。必要なことを、必要なだけやる。それだけだ」
「その『必要なこと』の中に、人の痛みは入っていないんですか」
「入れる必要がない」
カナリアは、ゼクスを見た。
冷徹な顔。無駄のない言葉。感情を排除した目。
でも——。
——本当に、何も感じていないんだろうか。
バルガ村で見た時から、ずっと引っかかっていることがあった。
ゼクスは残酷だ。でも、楽しんでいる顔をしたことが、一度もない。怒った顔も、嘲った顔も。ただ、ひたすら無だった。
——なぜ、無でいられる。
その問いは、今は答えが出なかった。
「答えは、まだ出ません」
カナリアは言った。
「協力するかどうか、今すぐは決められない」
「時間は、そう多くない」
「わかっています」
ゼクスは、立ち上がった。
「明日、また来る」
扉の方へ歩きながら、一度だけ振り返った。
「お前は感情で動く。だから弱い」
それだけ言って、出ていった。
一人になって、カナリアは膝を抱えた。
ルニが、そっと隣に来た。
毛並みの黒い霧が、昨日より濃くなっていた。
——わかってる。
心の中で言った。
今日、何度も揺れた。何度も、声に飲まれそうになった。お前のせいだ、という言葉に、何度も胸を刺された。
でも。
「ルニ」
呼ぶと、ルニが顔を上げた。
「わたし、まだ大丈夫」
ルニの金色の瞳が、じっとこちらを見ていた。
「怖い。正直、すごく怖い」
声が震えた。
「でも、あいつの言葉に従ったら、それこそ終わりな気がする」
夜、カナリアは天井を見上げながら、考えた。
カイルのこと。タオのこと。マリンのこと。
彼らを守りたい。でも、そのために自分を売ったら、両親が命をかけて守ろうとしたものを、自分が壊すことになる。
——どうすればいい。
答えは、出なかった。
でも、一つだけはっきりしていることがあった。
ゼクスは言った。感情は判断を鈍らせる、と。
でも、カナリアは思った。
——感情があるから、守りたいものがわかる。
守りたいものがあるから、立ち上がれる。
それを弱さと呼ぶなら、弱くていい。
ルニが、カナリアの胸の上に乗ってきた。
黒い霧が揺れた。金色の光が、その奥に見えた。
消えていない。
まだ、消えていない。
カナリアは目を閉じた。
明日、ゼクスがまた来る。
その時、何を言うべきか。まだわからない。
でも、今夜は眠る。
眠れないかもしれないけれど、それでも、目を閉じる。
——明日も、わたしはわたしでいる。
その一点だけを、胸に抱いて。




