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虚空のレクイエム ―絶望の魔法世界で、少女は機械の記憶を歌う―  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
三種の不協和音と、鏡合わせの影

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闇の胎動:ルニに混じる黒い霧



 その日の朝は、何も起きなかった。


 穏やかな朝だった。宿の主人が焼いてくれたパンは温かくて、ルニが欲しそうにしているので端をちぎって渡したら、嬉しそうに食べた。カイルがそれを見て、呆れた顔をした。


「甘やかすな」


「いいじゃない、たまには」


 そんな、普通のやり取りがあって。


 だから余計に、その後のことが、こたえた。




 午前中、カナリアは一人で市場に出かけた。


 カイルは東区画の獣牙族の集まりに顔を出すと言っていた。ルニを連れて、食料の買い出しをするだけのつもりだった。


 市場は今日も賑わっていた。野菜を売る声、魚を捌く音、子供たちの笑い声。


 そこに、異質な空気が混じったのは、昼前のことだった。




 広場の中央に、人が集まっていた。


 野次馬の輪の中心に、一人の少女がいた。


 海鱗族だった。十二、三歳くらいだろうか。薄い鱗のような肌が、日差しに光っている。荷物を抱えて、俯いていた。


 その周りを、天人族の少年たちが囲んでいた。四人。全員、カナリアより年下に見える。


「歌ってみろよ」


「海鱗族は歌で魔力を操るんだろ。やってみせろ」


「できないのか。役立たずじゃないか」


 笑い声が上がった。


 少女は俯いたまま、何も言わなかった。


 周囲の大人たちは、見て見ぬふりをしていた。




 カナリアは、気づいた時には歩き出していた。


「やめて」


 輪の中に入る。少年たちが振り返った。


「なんだ、お前」


「関係ないだろ」


「関係ある」


 カナリアは少女の前に立った。


「この子は何も悪いことをしていない」


「俺たちはただ、歌を聞きたかっただけだ。それの何が悪い」


「囲んで、できないのかって言うのは、いじめだ」


 少年の目が、細くなった。


「いじめ? 大げさだろ。俺たちは遊んでただけだ」


 遊んでいただけ。


 その言葉が、カナリアの胸の奥で何かに触れた。


 ——遊んでいただけ。


 記憶の底で、何かがざわめいた。知らない声が、聞こえた気がした。


 ——大げさだよ。


 ——気にしすぎじゃない?


 ——遊びだろ、遊び。


 頭の中で、誰かの声が重なった。顔は見えない。でも、その声の冷たさは、はっきりとわかった。




「大げさじゃない」


 カナリアの声が、少し低くなった。


「こういうことが毎日続いたら、どうなるかわかる? 笑われ続けたら、囲まれ続けたら、できないって言われ続けたら——」


「だから何だよ」


 少年が、一歩前に出た。


「お前、最近毎回毎回口を出してくるよな。旅人のくせに、この街のことを何も知らないくせに」


「知ってる知らないの話じゃない」


「うるさい」


 少年の声が、急に鋭くなった。


「お前みたいな余所者が、いちいち口出しするな。迷惑なんだよ」


 迷惑。


 その言葉が、鋭く刺さった。


 ——迷惑。


 また、声が聞こえた気がした。今度は、もっと近くで。


 ——お前がいると、迷惑なんだよ。


 ——黙ってろよ。


 ——なんで毎回出てくるんだ。


 頭の中の声が、どんどん大きくなる。顔が見えない。でも、その声だけははっきりと、胸の奥に届いてくる。


 呼吸が、浅くなった。




 ルニが、カナリアの肩で震えた。


 その振動で、我に返った。


 少年たちはまだ何か言っていたけれど、声が遠かった。頭の中の声と、現実の声が混ざって、うまく聞き取れない。


 ——落ち着いて。


 自分に言い聞かせた。


 深呼吸をした。


 少年たちを見た。彼らの顔に、悪意がある。でも、それ以上に、何も考えていない顔があった。深く考えて傷つけているんじゃない。ただ、それが普通だと思っている。


 その「普通」が、怖かった。


「……行こう」


 カナリアは少女に声をかけた。


 少女が、おずおずと立ち上がった。


 少年たちの間を抜けて、広場の外へ出た。




 路地に入ったところで、少女が立ち止まった。


「ありがとう」


 小さな声だった。


「名前は?」


「……マリン」


「マリン。大丈夫?」


 マリンは少し考えてから、首を横に振った。


「大丈夫じゃない」


 正直な答えだった。


「毎日、ああいうことがある。この街にいる限り、ずっと続く」


「慣れないの?」


「慣れたくない」


 マリンは俯いた。


「慣れたら、おかしいと思わなくなる。おかしいと思わなくなったら、終わりな気がする」


 カナリアは、その言葉を胸に刻んだ。


 慣れたくない。


 この少女は、まだ抗っている。




 マリンと別れた後、カナリアはしばらく路地に立っていた。


 ルニを見ると、毛並みが曇っていた。


 今日一番、色が暗い。


 そして、毛並みの中に、初めて見るものがあった。


 黒い霧のようなものが、根元にうっすらと混じっている。煙のように揺らいで、触れると消えるような、でも確かにそこにある、黒い色。


「……ルニ」


 ルニは鳴かなかった。


 カナリアの目を見て、静かにしていた。




 宿に戻ってから、カイルにルニを見せた。


 カイルは眉をひそめた。


「黒い霧か」


「これって、まずい?」


「守護生物に黒が混じるのは、主の魔力が負の感情に引きずられているサインだ」


 カイルは続けた。


「怒りや憎しみが積み重なると、魔力の質が変わる。ルニはそれを反映している」


「暴走、するの?」


「すぐにはしない。でも、このまま積み重なれば——」


 カイルは言葉を切った。


 続きは、言わなくてもわかった。




 夜、カナリアはルニと二人で窓際に座っていた。


 カイルは早めに眠っていた。


 街の灯りを見ながら、今日のことを思い返した。


 少年たちの言葉。頭の中で響いた声。マリンの「慣れたくない」という言葉。


 ——わたしは、怒っていた。


 認めた。


 あの少年たちに。この街の「普通」に。見て見ぬふりをする大人たちに。何も変わらない現実に。


 怒りは正しいと思う。でも、その怒りがルニを蝕んでいるとしたら。


 ——どうすればいい。


 答えが出なかった。




 ルニが、カナリアの手に頭を乗せた。


 黒い霧が、その動きで少し揺れた。


「ごめん、ルニ」


 ルニは首を横に振るように動かした。


「謝らないでって言ってるの?」


 また、小さく鳴いた。


「でも、わたしのせいだ。わたしが怒るから、ルニが——」


 ルニが、今度は強く鳴いた。


 それは明らかに、違う、という声だった。


 カナリアは、ルニを見た。


 金色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。


 ——怒ることは、悪いことじゃない。


 ルニの目が、そう言っている気がした。


 ——でも、一人で抱えすぎてる。




 その夜遅く、窓の外から声が聞こえた。


 複数の足音と、怒鳴り声。


 覗くと、通りの向こうで揉め事が起きていた。天人族の男たちが、海鱗族の老人を取り囲んでいた。昼間のこととは別の、新しい理不尽。


 カナリアは立ち上がりかけた。


 その瞬間、ルニが翼でカナリアの手を押さえた。


「……ルニ?」


 ルニは動かなかった。


 押さえたまま、じっとしていた。


 カナリアは、窓の外を見た。揉め事は、通りにいた獣牙族の男性が間に入って、収まりつつあった。自分が出なくても、誰かが動いた。


 ——一人じゃなくていい。


 ルニが翼を引っ込めた。


 カナリアは、ゆっくりと椅子に座り直した。




 全部を自分でやらなくていい。


 頭ではわかっている。カイルにも言われた。でも、体が止まらなかった。


 ——なぜ止まれないんだろう。


 考えた。


 誰かが困っていると、動かずにいられない。それは正しいことだと思う。でも、その奥に、何か別のものが混じっている気がした。


 止まったら、自分の内側を見てしまう。自分の傷を、直視してしまう。


 ——だから、動き続けてる。


 カイルに言われた言葉が、今更のように胸に落ちた。


 何かから逃げるために、動いていないか。


 ——逃げてた。


 認めるのは、怖かった。でも、認めなければ、ルニの黒い霧は濃くなり続ける。




「ルニ」


 呼ぶと、ルニが顔を上げた。


「わたし、怖いんだと思う。自分の中を見るのが」


 ルニは静かに聞いていた。


「記憶がない。本当の自分がわからない。それを直視したら、何もない自分が出てきそうで」


 口に出すと、涙が出そうになった。


「でも、このままじゃ、お前を壊してしまう」


 ルニが立ち上がった。


 カナリアの胸に、ゆっくりと歩いてきた。そして、そこに丸くなった。


 心臓の真上に、温もりがあった。


 ——ここにいる。


 その重さが、そう言っていた。


 ——お前の中に、何もないなんてことはない。わたしがいる。




 涙が、一粒こぼれた。


 次の瞬間、堰を切ったように、止まらなくなった。


 声を殺して泣いた。カイルを起こさないように。でも、ルニだけには、全部見せた。


 どれくらい泣いたかわからない。


 泣き終わった後、不思議と、胸が軽かった。


 ルニを見ると、黒い霧が、少しだけ薄くなっていた。


 完全には消えていない。でも、確かに、薄くなっていた。




 窓の外は、静かだった。


 街の灯りが、遠くで揺れている。


 カナリアは、ルニを抱えたまま呟いた。


「明日も、多分、腹が立つことがある」


 ルニが鳴いた。


「怒るのをやめるつもりはない」


 また鳴いた。


「でも、一人で全部抱えるのは、やめる」


 今度は、少し長く鳴いた。


 それが、返事に聞こえた。




 眠りにつく前、カナリアは一つだけ、心に決めた。


 怒りを捨てなくていい。でも、怒りに飲まれてはいけない。


 お母さんの手紙に書いてあった。怒りや憎しみからは、本当の詞は生まれない、と。


 ——まだ、わからない。


 でも、今夜少しだけ、わかった気がした。


 ルニの温もりを感じながら、カナリアは目を閉じた。


 黒い霧は、まだそこにあった。


 でも、その奥に、金色の光が、かすかに見えた気がした。


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