闇の胎動:ルニに混じる黒い霧
その日の朝は、何も起きなかった。
穏やかな朝だった。宿の主人が焼いてくれたパンは温かくて、ルニが欲しそうにしているので端をちぎって渡したら、嬉しそうに食べた。カイルがそれを見て、呆れた顔をした。
「甘やかすな」
「いいじゃない、たまには」
そんな、普通のやり取りがあって。
だから余計に、その後のことが、こたえた。
午前中、カナリアは一人で市場に出かけた。
カイルは東区画の獣牙族の集まりに顔を出すと言っていた。ルニを連れて、食料の買い出しをするだけのつもりだった。
市場は今日も賑わっていた。野菜を売る声、魚を捌く音、子供たちの笑い声。
そこに、異質な空気が混じったのは、昼前のことだった。
広場の中央に、人が集まっていた。
野次馬の輪の中心に、一人の少女がいた。
海鱗族だった。十二、三歳くらいだろうか。薄い鱗のような肌が、日差しに光っている。荷物を抱えて、俯いていた。
その周りを、天人族の少年たちが囲んでいた。四人。全員、カナリアより年下に見える。
「歌ってみろよ」
「海鱗族は歌で魔力を操るんだろ。やってみせろ」
「できないのか。役立たずじゃないか」
笑い声が上がった。
少女は俯いたまま、何も言わなかった。
周囲の大人たちは、見て見ぬふりをしていた。
カナリアは、気づいた時には歩き出していた。
「やめて」
輪の中に入る。少年たちが振り返った。
「なんだ、お前」
「関係ないだろ」
「関係ある」
カナリアは少女の前に立った。
「この子は何も悪いことをしていない」
「俺たちはただ、歌を聞きたかっただけだ。それの何が悪い」
「囲んで、できないのかって言うのは、いじめだ」
少年の目が、細くなった。
「いじめ? 大げさだろ。俺たちは遊んでただけだ」
遊んでいただけ。
その言葉が、カナリアの胸の奥で何かに触れた。
——遊んでいただけ。
記憶の底で、何かがざわめいた。知らない声が、聞こえた気がした。
——大げさだよ。
——気にしすぎじゃない?
——遊びだろ、遊び。
頭の中で、誰かの声が重なった。顔は見えない。でも、その声の冷たさは、はっきりとわかった。
「大げさじゃない」
カナリアの声が、少し低くなった。
「こういうことが毎日続いたら、どうなるかわかる? 笑われ続けたら、囲まれ続けたら、できないって言われ続けたら——」
「だから何だよ」
少年が、一歩前に出た。
「お前、最近毎回毎回口を出してくるよな。旅人のくせに、この街のことを何も知らないくせに」
「知ってる知らないの話じゃない」
「うるさい」
少年の声が、急に鋭くなった。
「お前みたいな余所者が、いちいち口出しするな。迷惑なんだよ」
迷惑。
その言葉が、鋭く刺さった。
——迷惑。
また、声が聞こえた気がした。今度は、もっと近くで。
——お前がいると、迷惑なんだよ。
——黙ってろよ。
——なんで毎回出てくるんだ。
頭の中の声が、どんどん大きくなる。顔が見えない。でも、その声だけははっきりと、胸の奥に届いてくる。
呼吸が、浅くなった。
ルニが、カナリアの肩で震えた。
その振動で、我に返った。
少年たちはまだ何か言っていたけれど、声が遠かった。頭の中の声と、現実の声が混ざって、うまく聞き取れない。
——落ち着いて。
自分に言い聞かせた。
深呼吸をした。
少年たちを見た。彼らの顔に、悪意がある。でも、それ以上に、何も考えていない顔があった。深く考えて傷つけているんじゃない。ただ、それが普通だと思っている。
その「普通」が、怖かった。
「……行こう」
カナリアは少女に声をかけた。
少女が、おずおずと立ち上がった。
少年たちの間を抜けて、広場の外へ出た。
路地に入ったところで、少女が立ち止まった。
「ありがとう」
小さな声だった。
「名前は?」
「……マリン」
「マリン。大丈夫?」
マリンは少し考えてから、首を横に振った。
「大丈夫じゃない」
正直な答えだった。
「毎日、ああいうことがある。この街にいる限り、ずっと続く」
「慣れないの?」
「慣れたくない」
マリンは俯いた。
「慣れたら、おかしいと思わなくなる。おかしいと思わなくなったら、終わりな気がする」
カナリアは、その言葉を胸に刻んだ。
慣れたくない。
この少女は、まだ抗っている。
マリンと別れた後、カナリアはしばらく路地に立っていた。
ルニを見ると、毛並みが曇っていた。
今日一番、色が暗い。
そして、毛並みの中に、初めて見るものがあった。
黒い霧のようなものが、根元にうっすらと混じっている。煙のように揺らいで、触れると消えるような、でも確かにそこにある、黒い色。
「……ルニ」
ルニは鳴かなかった。
カナリアの目を見て、静かにしていた。
宿に戻ってから、カイルにルニを見せた。
カイルは眉をひそめた。
「黒い霧か」
「これって、まずい?」
「守護生物に黒が混じるのは、主の魔力が負の感情に引きずられているサインだ」
カイルは続けた。
「怒りや憎しみが積み重なると、魔力の質が変わる。ルニはそれを反映している」
「暴走、するの?」
「すぐにはしない。でも、このまま積み重なれば——」
カイルは言葉を切った。
続きは、言わなくてもわかった。
夜、カナリアはルニと二人で窓際に座っていた。
カイルは早めに眠っていた。
街の灯りを見ながら、今日のことを思い返した。
少年たちの言葉。頭の中で響いた声。マリンの「慣れたくない」という言葉。
——わたしは、怒っていた。
認めた。
あの少年たちに。この街の「普通」に。見て見ぬふりをする大人たちに。何も変わらない現実に。
怒りは正しいと思う。でも、その怒りがルニを蝕んでいるとしたら。
——どうすればいい。
答えが出なかった。
ルニが、カナリアの手に頭を乗せた。
黒い霧が、その動きで少し揺れた。
「ごめん、ルニ」
ルニは首を横に振るように動かした。
「謝らないでって言ってるの?」
また、小さく鳴いた。
「でも、わたしのせいだ。わたしが怒るから、ルニが——」
ルニが、今度は強く鳴いた。
それは明らかに、違う、という声だった。
カナリアは、ルニを見た。
金色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。
——怒ることは、悪いことじゃない。
ルニの目が、そう言っている気がした。
——でも、一人で抱えすぎてる。
その夜遅く、窓の外から声が聞こえた。
複数の足音と、怒鳴り声。
覗くと、通りの向こうで揉め事が起きていた。天人族の男たちが、海鱗族の老人を取り囲んでいた。昼間のこととは別の、新しい理不尽。
カナリアは立ち上がりかけた。
その瞬間、ルニが翼でカナリアの手を押さえた。
「……ルニ?」
ルニは動かなかった。
押さえたまま、じっとしていた。
カナリアは、窓の外を見た。揉め事は、通りにいた獣牙族の男性が間に入って、収まりつつあった。自分が出なくても、誰かが動いた。
——一人じゃなくていい。
ルニが翼を引っ込めた。
カナリアは、ゆっくりと椅子に座り直した。
全部を自分でやらなくていい。
頭ではわかっている。カイルにも言われた。でも、体が止まらなかった。
——なぜ止まれないんだろう。
考えた。
誰かが困っていると、動かずにいられない。それは正しいことだと思う。でも、その奥に、何か別のものが混じっている気がした。
止まったら、自分の内側を見てしまう。自分の傷を、直視してしまう。
——だから、動き続けてる。
カイルに言われた言葉が、今更のように胸に落ちた。
何かから逃げるために、動いていないか。
——逃げてた。
認めるのは、怖かった。でも、認めなければ、ルニの黒い霧は濃くなり続ける。
「ルニ」
呼ぶと、ルニが顔を上げた。
「わたし、怖いんだと思う。自分の中を見るのが」
ルニは静かに聞いていた。
「記憶がない。本当の自分がわからない。それを直視したら、何もない自分が出てきそうで」
口に出すと、涙が出そうになった。
「でも、このままじゃ、お前を壊してしまう」
ルニが立ち上がった。
カナリアの胸に、ゆっくりと歩いてきた。そして、そこに丸くなった。
心臓の真上に、温もりがあった。
——ここにいる。
その重さが、そう言っていた。
——お前の中に、何もないなんてことはない。わたしがいる。
涙が、一粒こぼれた。
次の瞬間、堰を切ったように、止まらなくなった。
声を殺して泣いた。カイルを起こさないように。でも、ルニだけには、全部見せた。
どれくらい泣いたかわからない。
泣き終わった後、不思議と、胸が軽かった。
ルニを見ると、黒い霧が、少しだけ薄くなっていた。
完全には消えていない。でも、確かに、薄くなっていた。
窓の外は、静かだった。
街の灯りが、遠くで揺れている。
カナリアは、ルニを抱えたまま呟いた。
「明日も、多分、腹が立つことがある」
ルニが鳴いた。
「怒るのをやめるつもりはない」
また鳴いた。
「でも、一人で全部抱えるのは、やめる」
今度は、少し長く鳴いた。
それが、返事に聞こえた。
眠りにつく前、カナリアは一つだけ、心に決めた。
怒りを捨てなくていい。でも、怒りに飲まれてはいけない。
お母さんの手紙に書いてあった。怒りや憎しみからは、本当の詞は生まれない、と。
——まだ、わからない。
でも、今夜少しだけ、わかった気がした。
ルニの温もりを感じながら、カナリアは目を閉じた。
黒い霧は、まだそこにあった。
でも、その奥に、金色の光が、かすかに見えた気がした。




