境界線の目覚め:記憶を失った少女
目を開けた瞬間、知らない空があった。
青い。やけに、青い。
雲一つない空が、視界いっぱいに広がっている。鳥の声がする。風が草を揺らす音がする。どこか遠くで、水が流れている。
「……ここ、どこ」
声が、かすれた。
体を起こそうとして、全身が軋む。痛い。でも、どこかが折れているわけじゃない。ただ、ひどく消耗している感じ。まるで、長い長い夢から引きずり出されたみたいに。
ゆっくりと上体を起こす。
広い草原だった。背の高い草が風に揺れて、穂先が金色に輝いている。遠くには見たことのない形の山並みがそびえていて、その稜線は柔らかく霞んでいた。
——ここは、どこ。
そう思った瞬間、もっと根本的な疑問が浮かんだ。
——わたし、誰。
胸の奥を探る。名前、顔、家族。何かがあるはずなのに、指先がするりと抜けるみたいに、何も掴めない。
記憶がない。
パニックになりかけた。でも、不思議なことに、体はそれを拒んだ。心臓は落ち着いている。呼吸は整っている。まるで、「怖くても大丈夫」だと、どこかが知っているみたいに。
——落ち着いて。今わかることを整理する。
自分に言い聞かせながら、体を確認する。手は二本。足も二本。怪我はない。着ているのは、見慣れない草原には全くそぐわない、紺色のブレザーと、チェック柄のスカート。
学生服だ。
それだけは、わかった。自分が学生だということ。でも、どこの学校なのか。友達は。家族は。昨日、何をしていたのか。
何も出てこない。
ただ一つだけ、胸の奥にわずかに残っているものがあった。感情の欠片みたいなもの。うまく言葉にできないけれど、強いて言うなら——
——孤独。
その一言だけが、自分という人間の輪郭を、かろうじて縁取っていた。
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しばらく草の上に座って、周囲を観察した。
見渡す限り、草原が続いている。人の気配はない。建物も、道路も、電線も何もない。ただ、遠くの山裾に、小さな煙がいくつか立ち上っているのが見えた。
人がいる。
それだけで、体が動いた。
立ち上がって、煙の方角へ歩き始める。草が足に絡みつく。ローファーが土に沈む。それでも歩いた。立ち止まったら、何かが崩れてしまいそうな気がしたから。
二十分ほど歩いたころ、草原の向こうに、木造の建物が見えてきた。
村だ。
丸太を組んだ家が十数軒、寄り添うように建っている。広場には井戸があって、洗濯物が風に揺れている。どこかの家から、料理の匂いがした。
——入っていい?
躊躇した瞬間、声がした。
「おい、そこの」
低くて、落ち着いた声だった。
振り返る。
村の入り口、大きな木の陰から、一人の青年が出てきた。歳は、自分と同じくらいか、少し上くらい。日焼けした肌に、茶色の髪。そして——耳が、獣のように尖っている。
驚いて、思わず後ずさった。
「待て待て、逃げなくていい」
青年は両手を上げた。敵意はない、という意思表示みたいに。
「怪しい者じゃない。俺はカイル。この村の者だ」
真っ直ぐな目だった。嘘をついているようには、見えない。
「……わたしは」
名乗ろうとして、止まった。
「……名前が、ない」
正確には、わからない。でも、それを説明する言葉が出てこなかった。カイルは少し目を細めて、それから小さく息を吐いた。
「記憶がないのか」
頷く。
「そうか」
それだけ言って、カイルは村の方を示した。
「とりあえず中へ。倒れそうな顔してる」
言われて初めて、自分の足が小刻みに震えていることに気がついた。
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村の長老が言うには、自分は草原の真ん中に倒れていたらしい。今朝、水汲みに出た子供が見つけて、騒ぎになったのだという。
長老は皺だらけの顔で、真剣な目をしていた。
「名前は、どうする」
「……わからないです」
「なら、呼び名をつけよう」
長老は少し考えてから、静かに言った。
「カナリア。どうだ」
その言葉が、胸のどこかに触れた気がした。
「——カナリア」
繰り返すと、カイルが横でぼそっと言った。
「悪くない」
その瞬間だけ、孤独の感触が、少しだけ薄れた。
ほんの少しだけ。でも確かに、薄れた。
私たち姉弟で小説を書いています、畠山ゆなと申します。
機械音痴な姉と二人三脚で共作している作品です。
通勤時間や寝る前のひとときに、少しでも心が軽くなったり、ワクワクしていただけたら嬉しいです。
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