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転校初日、学園の最弱から「封印解除」された僕の逆襲ロード  作者: しげみち みり


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後編

第15話 最強の証明


 白が収束すると、そこは講堂だった。

 さっきまで塔の心臓だった空間が、現実の木目と鉄骨の硬さに戻る。観客席の生徒たちは息を呑み、立ち上がりかけた体をどう座らせるべきか決めかねている。ステージの床に沈む円環が、ふっと明るさを増した。白金の線がゆっくりと回転を始め——六連の封印紋に走っていた“固定”の刻印が、“循環”の矢印に書き換わっていく。


「……ここが、最初の試合場」

 カイが呟くと、天井の照明が一瞬、呼吸するみたいに上下した。


 ステージ袖から、八代が現れた。

 鍵束を掌でころがしながら、いつもの無表情。けれど目の奥の温度だけは、昨日より少し暖かい。

「君は力を取り戻した。だが、それをどう使う?」


「——守るために使う。けど、俺一人じゃない」

 カイは掌を胸の高さに掲げる。

 応えるように、印が薄く瞬いた。

 次の瞬間、彼の周囲の空気に“輪”が六つ、静かに浮かぶ。半透明の白い円環が、花弁みたいに互いの縁をかすめ合い、円を成す。

 六つのうち、三つは細い糸を伸ばしてステージ脇へ——観客席の端に立つ三人のところへ結ばれた。


「……おい、勝手に来んじゃねえよ。照れるだろ」

 レンジが肩で笑い、拳を軽く握る。雷は刃を捨て、板として彼の掌と円環を接続する。


「最短の動線、出る。——通すわよ」

 リラは風紀の腕章に触れ、列制の線を輪の縁に沿わせる。白い補助線が席と席の間に生まれ、避難路の最小単位が講堂中に広がった。


『リンク確認。ビーコン同調率、良好!』

 ミナトのドローンが二機、天井リグの間にふわりと浮き、白い微光で観客席を薄く照らす。

 カイの前の輪が、ひと呼吸分だけ大きくなる。


「半径は、分けられる」


 言葉と同時に、雷と列制の光線が交差し、観客席の照明が一斉に点いた。

 拍手のかわりに、呼吸がひとつ整う気配。

 ステージの前列では、天城が白衣の袖を捲り、視線で「いける」と合図した。

 シオンは既に端末を開き、指先を迷いなく滑らせている。


 ——その時、講堂の天井が、外側から叩かれた。

 塵が落ちる。軽い音ではない。鉄骨が鳴る。

 次の瞬間、白い天板を突き破って、黒羽の渦が再来した。夜ではないのに、暗さだけが穴の形で落ちてくる。

 破鍵団の本隊。結界の新旧境界を“外側から”まとめて撫でる、無遠慮な手だ。


 シオンの声が、通信網の全層に落ちる。

『街全域で異常反応! 奴ら、基幹鍵を一斉に狙ってる! 講堂はハブ。——ここを落とせば、他がドミノだ!』


「ここで止める!」

 カイは短く答え、円環の回転に呼吸を合わせる。

 講堂の外壁が破れ、黒影の波が押し寄せた。

 人の形ではない。影の形の“人”でもない。

 鍵穴の縁から剥がれ落ちた“向き”の波。意志の代わりに符丁だけで走る暴力。


「張る!」

 リラが叫び、列制が客席の縁に沿って“見えない柵”を立てる。足の置き場所を半歩ずらすだけで、転び方が変わる。

「受ける!」

 レンジは雷板を二重に重ね、空気の刃を丸め、波の先端の“視線”を鈍らせる。

「外す!」

 ミナトのドローンが、講堂の上空へ緊急防護フィールドを投射した。膜は薄い。だが、“人基準”で角度が最適化されている。


 カイは影で“未来線”を重ねる。

 倒壊予測、共振線、風の流れ。

 ステージ吊りのリグ、天井梁の負荷、左右出口の詰まり具合。

 全部の線が一本に束ねられ、円環の縁へ吸い込まれる。

「——来い、ラディウス!」


 狼の声が、意味で応えた。

『半径、拡張許可』


 白い輪が講堂の天井を抜け、校舎の屋根を越え、街の上空に広がっていく。

 輪は強すぎない。

 包み込むだけ。

 暴走する黒影を“中空”で包んで、地表ではなく“空”で衝突を起こし、割れ目を粉に変える。


 八代は見上げながら、口の端をほんの少しだけ動かした。

「……あれが“最強の証明”だ」


 ——敵を叩き潰す力の誇示ではない。

 ——守るために、みんなで扱える向きに“丸めた”力の証明。


 白い輪はさらに増え、街の上を幾重にも重なりながら走る。

 講堂のスピーカーからは、天城の緊急アナウンスが“落ち着いた声”で流れ、避難経路が音で描かれる。

 保健室のハーブの匂いが、なぜか風に乗って薄く届く。

 生徒たちの足音は踊らず、走るべき速さで走り、止まるべき場所で止まる。


 けれど——まだ終わらない。

 黒影の波が薄くなり、輪が掃き払った後に、一体だけ、異質な影が残った。

 波ではない。

 “人”の形に似ていて、だが違う。

 仮面の男——過去の断片。地下で向き合った“カイ・アーク”の、別角度の影。

 彼は輪の中心に立ち、荒い呼吸ひとつせず、ただこちらを見る。


「俺が消えれば、力も消えるぞ!」

 仮面は外していない。

 だが、その声はよく知っている声だ。

 カイは、ステージの縁から一歩、前へ出た。


「——いいさ。俺の半径は、もう“みんなの中”にある」


 レンジが笑う。「言うね、相棒」

 リラは静かに頷き、列制の線をカイの足場に一枚、薄く敷く。

 ミナトのドローンが、その線に光を落とし、“最短ルート”を白でなぞる。


「合図、いつも通り」

 リラが言う。

「張る、受ける、外す」

 カイは息を整え、胸の印に指を置いた。

 白い輪が肩甲骨の間から伸び、背骨に沿って“向き”を立てる。

 影は白に変わり、光は影を撫で、一本の“槍”の形になる。

 ——暴力の槍ではない。

 ——道を開けるための杭。


 走る。

 講堂の床板が軽く鳴り、次の瞬間には天井の穴の縁に立っていた。

 輪の風が頬を撫で、髪を後ろに引く。

 仮面の男が首をわずかに傾ける。

「最後にもう一度、選ぶか?」

「もう選んだ」

 返事は短く、静かだ。


 突き刺す瞬間——二人の声が重なった。

 カイの喉から、自然に出た言葉。

 仮面の奥から、遅れて重なる声。

 「——ありがとう」


 爆風。

 だけど、耳は痛くない。

 衝撃は外に逃げ、白銀の粉が光になって散る。

 黒い羽根は黒のままではいられず、次々に白へ移る。

 光は輪に吸い込まれ、輪は街の上で静かに薄くなっていった。


 講堂へ戻る風は、さっきよりも柔らかい。

 カイは天井穴の縁からふわりと降り、列制の足場に二歩で着地する。

 レンジが拳を合わせ、ミナトが親指を立てる。

 リラは一秒だけ目を閉じ、開けた。

 観客席には、まだ座ったままの生徒、立ち上がったまま固まっている生徒、泣いて笑っている生徒。

 天城は胸に手を当て、脈を確かめてから安堵の息を吐いた。

 シオンは端末のログを保存し、わずかに口角を上げる。

 八代は鍵束を鳴らし、ステージの中央へゆっくり歩く。


「……終わったわけではない」

 八代の第一声は、無慈悲なほど現実だ。

「街の外周、基幹鍵のいくつかに軽微な傷。破鍵団は撤退しながら“位置情報”を集めている。——だが、今日の“証明”は残る」


 カイは頷き、掌を開いた。

 六つの輪は、まだ薄くそこにある。

 ひとつはリラへ、ひとつはレンジへ、ひとつはミナトへ。

 残りの三つは、空いたまま浮いている。

 講堂の後方で、白衣の袖がそっと上がる。天城。

 教師席の列で、灰色の目が静かに瞬く。八代。

 通路の影から、戦術長の目が叡智の色で光る。シオン。

 輪が、細い糸を伸ばして、それぞれの胸の前に止まる。

「強制じゃない」

 カイは言う。

「でも、半径は“分け合うほど広がる”。——手を、貸して」


 答えは、言葉より早く届いた。

 天城は白衣の上から胸に手を当て、輪を受け取る。

 八代は鍵束を左手に移し、右手を輪へ。

 シオンは迷わず、腕時計の上から輪を通す。

 六つが結ぶ。

 輪の回転が一段落ち着き、円環の白が講堂の梁を撫でる。


「“最強の証明”ってのは、こういうことだ」

 レンジが笑い、肩を組みに来る。

「一人で“最強”じゃねぇ。“最強を渡せる奴”が、最強」

 ミナトはドローンのログを覗き込みながら、いたずらっぽくウィンクする。

「理科的にも証明できると思うぜ? 共有時の損失、俺が限りなくゼロに近づけっから」

 リラは咳払いをひとつ。

「風紀的にも承認。責任の分配と動線の可視化、今日の運用を基準に規定を整備する」

 カイは笑って頷く。

 内側で、白い狼——ラディウスが尻尾を一度だけ振った。

 “よくやった”。

 言葉はないのに、はっきり伝わる。


 ふと、講堂の入口で小さな影が動いた。

 下級生が手を挙げる。

「センパイ……“カイの半径、ここまで”って、ほんとに、ここまでですか?」

 会場の空気が少し和む。

 カイはその子の前に膝をつき、輪のひとつをほんの少し傾けて見せた。

「“今は”ここまで。でも、明日はもう一歩伸びる。伸ばす」

 子どもは目を丸くして、それから笑った。

「じゃ、明日は、ここまで!」

 小さな指が、輪の外側をちょんと触る。輪は静かに、記憶の中の声を反響させた。

 ——“カイの半径、ここまで!”


 八代が咳払いをし、全体へ向き直る。

「本戦の続行は一時中断。……臨時アナウンス。街外周の安全確認が完了次第、“管理者決闘”フェーズ2へ移行する」

 シオンが腕時計のベゼルを合わせ、短く補足する。

「破鍵団は“開けるための情報”を取りに来る。こちらは“閉じるための道”を先に敷く。今日は、そのための下地が整った」


 天城が近づき、カイの手首の脈を測る。

「拍は早いけど規則正しい。——ねえ、カイ。今、名を呼んでもいい。けど、呼ばなくてもいい」

 カイは、白銀に変わった羽根——“名の器”に指を沿わせ、胸の印を軽く押す。

「呼ぶよ。……でも、それは勝ち名乗りじゃない。道の名前だ」


 講堂の天井は、もう穴を閉じかけている。

 そこへ残るわずかな空白へ、白い輪が一つ、最後の拍で昇っていった。

 黒羽はもう戻らない。

 仮面の男の欠片は、光になって散った。

 けれど、彼の残した“可能性”は消えない。

 内側の余白の席に、静かに座っている。


 合図は三つ。張る、受ける、外す。

 四つ目は、呼ぶ。

 五つ目は、応える。

 六つ目は、編む。

 そして、最後に——選ぶ。


 カイはステージ中央へ立ち、ゆっくりと息を吸い、観客席を見渡した。

 友の顔。先生の目。知らない誰かの涙。

 全部が半径の内側にある。

「——“半径ラディウス”。」

 名を、約束の声で呼ぶ。

 胸の印が光り、円環が一度だけ強く脈動した。

 それは勝ち名乗りではない。

 “道の開通”のサイン。

 封印は心臓として拍を刻み、拍は講堂から校舎へ、校舎から街へ、街から空へ、薄く、しかし確実に広がっていく。


 白い狼の気配が、内側で満足そうに目を細めた。

 八代は鍵束を握り直し、静かに呟く。

「——証明、完了だ」


 講堂に、ようやく本当の拍手が起きた。

 雷のようでも、波のようでもない。

 “半径”の中心にいる誰かだけに届くのではなく、輪の外側の誰にでも同じ温度で届く拍手。

 天井の照明が一つ、二つ、規則正しく消えていく。

 舞台袖の黒幕が揺れ、次の幕の準備の気配が走る。


 シオンが通信を閉じ、短く言う。

「集合——放課後、屋上。次の“道”を引く」

「風紀、許可する」

 リラが即答し、レンジが笑い、ミナトのドローンが満足げに一回転した。


 円環はまだ、薄く光っている。

 その光は、もう“誰かひとり”のものではない。

 分け合える最強。

 ——それが、今日ここで示した“最強の証明”だった。


第16話 静寂のあと


 数時間後。

 街の結界は安定を取り戻し、校門の上を流れる薄白い膜は、夕陽を受けてやわらかい橙に染まっていた。救護班の車両が校庭に並び、臨時の導線テープが風に揺れる。体育館前には折りたたみベッドが臨時に敷き詰められ、保健委員と医務スタッフが黙々と包帯や冷却パックを配っている。

 さっきまで“最強の証明”が轟いていた世界は、いまは——妙に音がよく響く。包帯テープの“びりっ”という音、紙コップに落ちる白湯の音、遠くのサッカーゴールが風に鳴る音。静けさは、音を消すのではなく、丁寧に拾い上げて並べていく。


「——もう無茶しすぎ」

 医務テントの片隅で、白石リラが肘に巻かれた包帯をちらりと見下ろし、笑った。

「規律違反、山ほどよ。報告書、何枚いると思ってるの?」


「風紀委員の監督責任でお願いします」

 カイは無意識にいつもの返し方をしたあと、少しだけ申し訳なさそうに眉を寄せた。

 リラは呆れた風に首を振りながらも、包帯の端をきゅっと押さえ、結び目を綺麗に折り込んでくれる。

「……次は、先に“張る・受ける・外す”の計画を出して。私の判子がいる」


「判子、持ってるの?」

「風紀委員は何でも持ってるの」

 言いながら、彼女は胸ポケットから、本当に小さなシャチハタを出して見せた。赤い。

 カイは思わず笑ってしまう。笑いの拍は、さっきよりもずっと、普通の速さだ。


「ほい、“最後の一本”。争奪戦を文字通り勝ち抜いてきた」

 ベッドの隣にどっかり腰を下ろしたレンジが、焼きそばパンを高く掲げた。包装は温もりを微かに残している。

「購買、早すぎる復旧。経営者が化け物」


「ありがとう」

 受け取った瞬間に、腹の底がやさしく鳴った。

 粉の匂い。ソースの甘辛。学校の昼休みと、戦場の余韻が、一つの紙袋に同居しているのが可笑しい。

 レンジは白湯をすすり、空をあおぐ。

「なぁ、最弱。……いや、元・最弱。今日の“輪”、あれ、ズルだよな。ずっと見てたけど、何度も鳥肌立った」


『記録したかったんだけどなぁ……』

 床に座り込んだミナトは、ばらばらになったドローンの羽根を並べ、端末にケーブルを挿している。

「データ自体は“白”の成分が強すぎて、センサーが飽和。形状のログは掠れるように飛んだ。でも、温度だけは測れた。“人間の体温”と同じだったよ」


「そうか……それなら、成功だ」

 カイは頷き、焼きそばパンにかぶりつく。

 熱すぎず、ぬるすぎず。人が安心する温度。

 白い輪のぬくもりは、確かにそんな感じだった。


 医務テントの幕が揺れ、天城先生が入ってくる。白衣の袖はまくり上げられ、額に汗が滲んでいるのに、表情は落ち着いていた。

「はい、脈」

 言われるより先に手首を差し出す。天城は親指で脈をとり、一拍、二拍——目を細める。


「真名は思い出した?」

 問いは柔らかい。けれど、鋭さも含んでいる。

 カイは短く頷いた。

「はい」


「教えて」

 天城の声は、保健室のハーブの匂いと同じ色をしている。

 カイは、胸の印に軽く指先を添えた。

「——カイ・レン。“限りを守る”」


 天城はわずかに目を細め、それから頬を緩めた。

「素敵ね。意味の選び方が、あなたらしい。……“限り”は、諦めじゃない。“輪郭”よ。輪郭があるから、守れる。輪郭を共有できるから、分け合える」


 レンジがひょいと顔をのぞかせる。

「つまり俺の雷も、輪郭を持ったから丸められる、って話?」

「そう」

 リラが横顔で微笑む。「あなたのやり方、好きよ。刃を立てない雷。規律の中で一番の“悪童”が、いちばん模範的」

「照れるわ」

 レンジは耳まで赤い。

 ミナトが咳払いをして、ドローンの電源を入れ直した。

「外周の点検、あとでまた行くよ。結界の“新旧統合ログ”、シオン先輩から借りれた。ヒューリスティック噛ませて、破鍵団の“潮目”を可視化する」


 その名前に誘われたように、テントの外から背の高い影が近づいてくる。

 真壁シオンは黒のジャケットの襟を指で整え、端末をかざした。

「統合ログ、アップリンク完了。街の基幹鍵の“呼吸”は安定。……ただ、波形にわずかに“癖”が残っている。破鍵団は退いたが、向こうも“学習”した。次はもっと巧妙に来る」

 カイはパンをもう一口齧り、グッと嚥下してから答えた。

「その前に、俺たちが“道”を引く。先に」


「それが“最強の証明”の続き、というわけだ」

 シオンは薄く笑い、しかしすぐに笑みを消した。

「——八代先生が呼んでいた。講堂のチェック。『彼の選んだ循環、教師の目で検分する』と」


 医務テントから講堂へ移動する途中、校舎の廊下には、見慣れた景色と見慣れない景色が一緒に並んでいた。

 落し物の告知。文化祭の貼り紙の上に“臨時安全指針”のプリント。

 破れた天井板はもう仮補修され、配線はカバーの下で新しい道を通る。

 歩く生徒たちは、疲れた顔で、でも、どこか誇らしげだ。


 講堂の床には、まだ白い円環が薄く残っていた。

 八代はステージの中央、円環の心臓に立ち、鍵束を片手で転がしている。

「君の“循環”。……現場の感想は——“よく通る”。だが、講師の感想は、少し違う」

「違う?」

「“よく通りすぎる”。君がいなければ、過分に流れてしまう箇所がある。だから——“流量制御”を、君以外でも担えるように」


「分かってます」

 カイは即答し、円環の縁に膝をついた。白い輪の“骨”を指先でなぞり、空気に薄いマーカーを引く。

「半径は分けられる。循環は、委ねられる。……リラ、動線の“緩衝帯”を二段増やしてもらえる?」

「承認。授業中の混雑を避けるため、休み時間ごとに“柵”の位置を微調整する」

「レンジ、雷板を常設じゃなく、巡回式に。過剰遮蔽は、疲労蓄積につながる」

「任せろ。雷は“眠る電荷”にしてポールに預けとく」

「ミナト、擬似結界のログ、共有。——後で“温度杭”を置こう。体温と同じ温度のピンで、輪の中心を校内に散らす」

「いいね。みんな触って“わかる”やつ」


 八代は目を細め、鍵束の一本を抜いて、カイの前に置いた。

 鍵の頭には円環の刻印。

「教師の感想、もうひとつ。“授業として面白い”。……守ることを、教えられる」


「先生」

 カイが顔を上げる。八代は鍵束をもう一度鳴らし、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「礼は不要だ。——私は監督者でもあり、見届ける者でもある」


 そのあと少しだけ、誰も喋らない時間が流れた。

 円環の線は呼吸し、梁の影は静かに伸び、講堂の天井は先ほどの穴を“なかったこと”に近づけようとしている。

 静寂は、怖くない。

 怖くないのだ、と身体が知りはじめている。


 *


 夜。

 屋上。

 風は昼より冷たく、街の灯は昼より遠い。

 フェンスの影が床に円を描き、そこへ白い輪が重なる。

 ラディウスが姿を現した。狼の輪郭は、もはや“外”ではない。光と影の縫い目に座るように、そこにいる。


「契約者」

 声は音ではなく、意味で届く。いつもどおり。

「君はもう封印を必要としない。だが、封印はまだ、生徒たちの心に残っている」


「うん」

 カイはフェンスにもたれ、街の灯を数えるみたいに視線を滑らせる。

「鍵穴の形に怯える視線。暴走に触れた体の震え。……あれは“封印を教えるための封印”じゃ、ほどけない」


「だから、どうする?」


「残る」

 答えは、用意していたわけじゃないのに、すぐに出た。

「教師でもなく、英雄でもなく、“転校生”として」

 ラディウスが、少しだけ首を傾げた。

「転校生は、いつか出ていく者という意味もある」


「だから、いい。『いつかいなくなるかもしれない誰か』が、毎日そこにいる——それだけで、安心する人もいる。……“いつか”を怖がる心に、今のうちから『道』を引きたい」


 狼は微笑んだように見えた。

「それが、君の選択だな」


 カイは頷く。風が頬を切る。

「俺の半径は、まだ広がり続けるから。——ひとりでじゃなく、みんなで」


「名」

 狼は一拍置いて言う。

「君は“カイ・レン”。“限りを守る”。その名を約束の声で呼べたなら、道は自然に増える」


「……ラディウス」

 呼べば、胸の印が静かに笑った。

 遠く、公園の街灯が一つ、規則正しく明滅し、また静まる。

 ラディウスが空を見上げる。

「上空の輪は、薄くなっていく。だが、消えはしない。温度杭を置けば、子どもでも触って“わかる”。——君の温度は、そこに残る」


「人間の体温」

「そう。守る力の単位は、度でも、ジュールでもない。“安心”だ」


 笑いが喉に滲んだ。

 夜の屋上で笑うのは、いつぶりだろう。

 自分の笑い声が、夜に似合うのだと、初めて思った。


 フェンスの影が風で揺れ、円環の白がそれに合わせてわずかに広がる。

 リラからメッセージ。《報告書、雛形できた。あなたの“半径”を行政用語に翻訳する地獄》

 思わず吹き出す。返す。《ありがとう。半径=可動安全半径(暫定)。訳:守りたい場所に合わせて伸び縮みする》

 レンジから写真。《焼きそばパン、第二便、確保》

 ミナトからスタンプ。《熱杭プロトタイプ、明日持ってく》

 シオンからは淡々とした文面。《破鍵団、外周で沈黙。……静けさは、次の手前。備える》


 最後に、天城から。《脈、落ち着いてる。眠れる?》

 カイは空を見上げ、狼の横顔を眺めた。

「眠れるかな」

「眠れ」

 ラディウスは短く言う。「眠るのも、守るうち」


「そうだな」

 風が少し強くなる。遠くで犬が吠え、どこかのベランダで洗濯物がはためく音がした。

 静寂は、音のないことではない。

 音が“怖がる方向”を忘れていくこと。

 その中で、眠りに落ちること。


 狼は輪の縁を回り、ふと立ち止まって振り返った。

「契約者。君が“転校生”であることを選んだなら——次に転がり込んでくる“転校生”の席も、空けておけ」


「次?」

「世界は、君の物語のために存在しているわけではないからな」

 ラディウスの目が笑った。

「君が編んだ循環には、別の物語も乗れる。……それが“分け合う”ということだ」


「——了解」

 カイは笑って、胸の印を軽く叩く。

「席は多いほうが、賑やかでいい」


 狼は影にほどけ、白い輪だけが床に小さく残った。

 その輪はゆっくりと薄くなり、夜の色へ溶けていく。

 屋上の扉が金属音を立て、風が一拍だけ強く吹く。

 遠く、講堂の梁が微かに鳴った。心臓の鼓動みたいに。


 *


 翌日の朝。

 放送で、臨時の全校集会が告げられた。

 講堂に集まる生徒たちのざわめきは、いつもより軽い。

 ステージには、円環の線がもう“薄い背景”として常設され、梁には新しい安全ハーネスが一本、目立たない角度で張られている。

 八代はいつもの灰色の目で前を見て、短く挨拶した。


「臨時の告知が二つ。——一つ、学園結界“七曜”の循環モードは、学内の合意のもと正式に運用される。責任は分配し、判断は可視化する」

「二つ、期末演武“管理者決闘”フェーズ2は、来週に延期。代わりに“循環運用実地訓練”を行う。風紀委員、技術班、生徒会は共同でプランを提出せよ」


 ざわめきが広がり、天城が保健委員の隊列に何かを囁く。

 シオンは腕時計をいじり、レンジは後ろを振り返って親指を立てる。

 リラがカイの袖を引いた。

「……あなた」

「ん?」

「“転校生”のスピーチ、頼まれてる。——“半径の説明”」

「マジで?」

「行政用語への翻訳、引き受けたの私だから」

 彼女は小さく笑い、「逃げないで」と囁いた。


 ステージ中央。

 円環の縁に立つと、不思議と緊張は薄らいだ。

 昨夜の風。焼きそばパンの温度。保健室のハーブ。雷の板の乾いた手触り。列制の線のすべり。——全部が、ここにつながっている。


「篠崎カイです」

 声は、驚くほど普通だった。

「俺の“半径”は、分け合えます。昨日、みんなと証明しました。だから——“最強”は、一人じゃない。みんなで持てる」


 ざわめきが一度だけふくらみ、すぐに収束する。

 言葉は続く。

「怖いものは、なくなりません。怖さは合図だから。だけど、怖いときに“どこへ行けばいいか”、“どの順で動けばいいか”を、俺たちは決めて、輪にして、ここに置きます。張って、受けて、外して、呼んで、応えて、編んで、選ぶ。——それを、授業にします」


 どこかの席から、拍手がひとつ。

 すぐに止む。

 反応がほしいわけではない。ただ、届けばいい。輪は勝手に広がるから。

「ルールは、縛るためじゃない。動けるようにするための輪郭です。……風紀委員が怖い顔で見てる今も」

 会場に笑いが走り、リラが肘で脇腹を小突いた。

「以上です。——よろしくお願いします」


 拍手は、昨日よりも少しだけ大きかった。

 八代は頷き、天城は白衣を揺らし、シオンは端末に“OK”のチェックをつけた。

 レンジが「よっ」と声を上げ、ミナトはドローンを小さく回転させる。

 講堂の梁が、心臓の拍に合わせて、ほんの少しだけ鳴った。


 *


 ホームルーム。

 黒板には「巡回係」「点検班」「温度杭設置」とチョークで走り書きされ、矢印で組み合わせが線で結ばれている。

 班分けのざわつきの中、クラスの後ろの方で、聞いたことのない小さな声がした。

「……転校生さん」

 振り向くと、昨日の下級生が、廊下から顔だけ出していた。

「“半径”、今日の放課後も“ここまで”って言っていいですか」

 カイは笑って頷く。

「言おう。……じゃあ、今日は、ここまで」

 指で、昨日より一センチだけ、大きく円を描く。

 子どもは嬉しそうに頷き、駆けていった。


「転校生」

 八代の声が扉の向こうからした。

「職員室へ。……報告書の“余白”、君にしか書けない欄がある」


「はい」

 立ち上がって扉へ向かうと、リラが背中を指でちょん、と突いた。

「——逃げないでよ、書類からも」


「それが一番の試練だな」

 返しながら、胸の印に指を当てる。

 そこは、もう熱すぎない。

 人間の体温。

 “道の温度”。


 廊下の窓から入る風は、昨日よりもほんの少しだけ暖かい。

 遠く、街のどこかで黒い羽根が白銀の粉になって、まだ空気の中に微量に漂っている気がした。

 封印は再起動し、心臓は動き出した。

 世界はすぐには変わらない。

 けれど、“変えられる道”は、もう引かれている。


 ラディウスの気配が、内側で尻尾を一度だけ振った。

——行け。

 短い意味が届く。

 カイは頷いて、職員室へ歩き出した。


 “転校生”として。

 英雄でも教師でもない肩書きで。

 今日の“静寂のあと”を、静けさのまま終わらせないために。


 合図は三つ。張る、受ける、外す。

 四つ目は、呼ぶ。

 五つ目は、応える。

 六つ目は、編む。

 そして、最後に——選ぶ。


 その全部を、授業に変える。

 半径は、今日もまた、ひとセンチだけ、広がった。


第17話 再会と別れ


 春の風は、冬の名残りをくるみながら、制服の裾を迷わせるように揺らしていく。桜の花弁は今年もきちんと遅刻して、始業式の拍手に追いつけずに、校舎の陰からふわりと顔を出した。

 霧ヶ丘異能中等部は復興を終え、瓦と配線と決意の並べ直しを済ませた新学期を迎えていた。講堂の梁は、もう心臓の拍には鳴かない。ただ、拍に合わせて“鳴らさない”と決めた木のように、静かにそこにある。


 チョークが黒板で浅く鳴る。

 篠崎カイは、窓際の席でノートを取りながら、いつものように片耳を外へ貸していた。校庭から吹き上がる風の温度、廊下を走る新入生の足音、誰かの笑いがフェンスで跳ね返って角を丸くして戻ってくる音。——全部、半径の中に入ってくる。


「見て!」

 右隣で、工藤ミナトが勝ち誇った顔をして、小型の筐体を机に置いた。

「半径計算機“R-6”。君の未来線を可視化できるんだ。温度杭と同調、擬似結界の薄膜ともリンク。——数式だって、今日はグラフィカルに踊る時代だぜ」


「ネーミングセンス、どうにかしろよ」

 カイは笑いを堪えきれず、咳払いに紛らせる。筐体の天面には、確かに“R-6”と刻印があった。周囲の新入生が興味津々に身を乗り出し、「すげー」「触っていいの?」と囁く。


「雷対応も追加してくれ!」

 背後から、鷹羽レンジが乱入。片手に購買のコッペパン(今日も、焼きそば)を持ったまま、もう片方で筐体をつつく。

「雷の板、位相反転で“静かな泡”に落とすとき、ログが飛ぶんだ。そこ、メモリ二枚噛ませたら“見える”だろ」


「この学校、メモリが足りないのは人のほうだよ」

 ミナトは言いながらも、にやりと笑い、「やる」と短く答えた。


「静かに」

 教壇に立った風紀委員長——白石リラが、いつもの落ち着いた声で新入生に向き直る。

「風紀委員会より。——力は誇りではなく、責任です。規律は縛るための線ではありません。動けるようにするための“輪郭”です。今日からあなたたちは自分の半径を持ちます。張って、受けて、外して。呼んで、応えて、編んで、選ぶ。その順序を忘れないで」


 新入生の中に、頷く顔がいくつもある。誰かは目を伏せ、誰かは顔を上げる。

 カイはその輪郭を見守りながら、胸の中で小さく頷いた——大丈夫だ、伝わっている。言葉は輪になる。輪は手から手へ渡る。


 *


 その日の放課後は、春の晴れ間がよく似合う実技——“循環運用実地訓練”だった。

 講堂の円環は背景の一部として薄く灯り、温度杭は廊下の角、階段の踊り場、屋外通路の風の屈折点にそっと置かれている。杭は握れば人肌、離せば空気と同じ。触る子は皆、少し笑う。「あったかい」。


 リラは全体の動線を指示し、レンジは雷板の巡回を担当、ミナトはR-6を片手に温度杭の同調率を見て歩く。

 カイは“転校生”の立場で、半歩後ろを歩きながら、輪が過不足なく回っているかを確認する。指示を出しすぎない。必要なときだけ、指の先で未来線を撫で、失敗の角を丸める。

 と、その時——


「——あ」

 体育館通用口の影から、短い悲鳴。新入生のひとりが、配布されたばかりの“記憶補助タグ”を落とし、タグの“重ね張り”が誤って作動したのだ。タグの薄い光が指に絡み、足元の影が“ちょっとだけ深くなる”。

 暴走、と呼ぶほどではない。けれど、初めて触る子には十分すぎる恐怖だ。


「張る」

 リラの声が先に届き、列制の線が床に薄い柵を立てる。

「受ける」

 レンジは雷板の角を落として、空気の刃を丸める。

「外す」

 ミナトはR-6の画面を二度叩き、タグの重ね張りの“余白”に指で印をつける。

 カイは新入生の前に膝をつき、目線を合わせた。

「大丈夫。怖さは合図だ。……ここ“まで”」

 指で小さな輪を描き、半径の“今日の限り”を示す。

 子どもは息を吸い、吐き、頷いた。タグの光が薄くなり、影は“ちょっとだけ深い”の手前で止まる。

 拍手は起きない。起こさない。——うまくいった時の音は、静けさの回復だ。


 訓練はそのあとも滞りなく進み、日が傾く頃には温度杭の頭に薄い夕陽が一つ一つ乗って、小さな灯台みたいに見えた。

 その灯りの下で、新入生たちは最後の説明を聞く。「半径は、分け合える」「“怖い”は悪者じゃない」。


 解散の空気がほどけ、各班が片付けに散っていった時、カイはふっと見上げた。——屋上の風が、呼ぶ。


 *


 屋上。夕陽。

 フェンスの影は桜の花弁と一緒に床で遊び、白い輪はもうほとんど見えないくらい薄くて、それでも“そこにある”。

 八代が、ゆっくりと現れた。鍵束は今日は持っていない。手ぶらの八代は、ほんの少しだけ教師に見える。


「神祇庁からの報告だ」

 彼は前置きもなく言った。

「破鍵団の残党は捕縛済み。外周の“古い層”に棲んでいた影も、温度杭の網で、ほぼ消えた。——ただ一人、“君の断片”の痕跡だけは、記録に残らなかった」


 西日が、彼の灰色の目を薄金に染める。

 カイは頷いた。

「……それでいい。彼も俺の中で、ちゃんと眠ってる」


「そうか」

 八代は空を見上げる。

「君はもう生徒の域を超えた。だが——卒業はまだだ」

 一拍置いて、ほとんど聞き取れない声量で続ける。

「——おめでとう」


 風が吹いた。

 校庭の旗がふっと丸くなり、教室棟の陰から、黒でも白でもない灰色の羽根が一枚、舞い上がった。

 青でも、銀でもない。光を飲むのでも、跳ね返すのでもない。——はいという名の中の、静かな色。


 カイは手を伸ばし、そっと掴む。

 指に乗せた感触は、人の体温。

 変わらない体温。

 でも、変わった意味。


「ありがとう。これで、本当に終わりだ」

 言葉は誰に向けてでもなく、ここにいる全てへ。

 八代は何も言わない。言わないまま、何かを言ったように見えた。

 しばらく並んで空を見て、二人は同時に踵を返す。階段の途中で別れ際、八代はいつもの声で背中へ投げた。

「報告書。——今日中」

「了解」

 カイは苦笑し、足を速めた。書類は、いつだって最強の敵だ。


 *


 夜。

 カイは机に向かい、報告書の“余白欄”にペンを滑らせていた。

 半径の記録。温度杭の分布。輪の回転のむら。新入生の目の高さ。

 ひとつひとつ、“授業”の形に言葉を編む。

 ふと、窓の外で風が鳴った。

 小さな足音が、記憶の廊下を走る。

 ——“カイの半径、ここまで!”

 懐かしい声が、今は罰ではなく約束の声として胸に触れる。


「……会いに来たの?」

 問いに答えるように、窓のガラスが一瞬だけ白く曇った。指で描いたような丸が消え、夜の街灯が同じ丸を描き返す。

 カイはペンを置き、目を閉じ、そして開いた。

 机の端に、灰色の羽根がもう一枚、置かれている。

 拾い上げると、羽根の縁に細い文字が浮かんだ。

 ——“いつか”。

 それだけ。

 それだけで、十分だ。


 *


 翌日。

 校門の前で、一台のバスが停まっている。

 刷り上がったばかりの招集ポスターには「地域結界課・ジュニア研修」とある。上級生の何人かが乗り込み、引率の大人が名簿にチェックを入れていた。

 真壁シオンは黒いジャケットの裾を整え、振り返る。

「行ってくる。向こうで“道”の敷き方を教えてくる。君らのやり方を、“外”へ移植する」

「無茶はほどほどに」

 リラが言い、レンジが笑い、ミナトが「新しいセンサー、渡したやつ忘れないで」と手を振る。

 シオンは短く頷き、腕時計のベゼルを回し、バスのステップを上がった。

 別れは、告げずに済ませるのが彼の流儀だ。

 でも、バスの窓から一瞬だけ視線が戻り、唇が「任せた」と動いた。

 ——任された。だから、やる。


 講堂の裏手では、保健室の窓が開き、ハーブの匂いが春の風に混じる。

 天城は窓辺で湯気の立つカップを両手で包み、通りがかったカイに顎で合図を送った。

「眠れてる?」

「昨日は、よく」

「良い報告。……なら、これも良い報告。——“転入者”が来るわ。午後から。あなたの席、ひとつ後ろの列」


「転入生?」

 言葉は自然に、少しだけ高くなる。

「うん。名前は——」

 天城が告げた名は、聞き覚えのない音なのに、耳の奥のどこかに懐かしさを灯した。

 “いつか”の文字が、羽根の縁で微かに震えた気がした。


 *


 午後のHR。

 教室の前に立つ、一人の少年。

 きちんと畳まれた制服、緊張のために肩へ乗りすぎた力、だけど目だけは驚くほどまっすぐで、逃げ場を探していない。

「転入してきました。——水城ユウトです」

 名を告げる声は、まだこの教室の空気に馴染んでいない。けれど、馴染もうとしている。

 カイは、ほんの少しだけ前に椅子を引いた。

「後ろ、空いてるよ」

 少年は一瞬だけ迷い、そして頷いて席につく。

 視線が交わる。

 “再会”という言葉の正確さは、こういう瞬間のためにあるのだと思った。初対面で、もう知っている。知らないまま、知っている。


「君、何か呼び方ある?」

 ミナトがひそひそ声で問い、レンジは「ユウト、雷平気?」と雑に訊ね、リラは「授業中に私語」と小声で釘を刺す。その全部が、校則の外縁に“余白”を作る。

 ユウトは少しだけ笑って、「平気だと思う」と答えた。


 五限の終わり、廊下の温度杭で立ち止まったユウトが、指で印をそっと触れた。

 「あったかい」

 それだけ言って、ほっと息を吐く。

 カイは少し後ろから見守り、そして心の中で——“ようこそ”とだけ呟いた。


 *


 放課後、屋上。

 夕陽が昨日より少しだけ長く留まり、風は昨日より少しだけ柔らかい。

 ラディウスは姿を見せない。見せなくても、いる。

 フェンスの影が丸くなり、床に落ちた影は輪郭を甘くしている。


「——終わった、のか」

 ひとりごとに、風が“うん”と答える。

 終わりは、始まりの形をしている。

 別れは、再会の準備だ。

 カイはポケットから灰色の羽根を取り出し、そっと空へ放った。

 羽根は風に乗り、フェンスの上で一度だけ踊り、校庭の方向へ滑っていく。

 ユウトが、あの温度杭に触れた指で、この羽根の温度にもいつか触れるのだろう。

 それなら、もう大丈夫だ。


 胸の印に人差し指を当てる。

 拍は静かに、でも確実に刻まれる。

 ——カイ・レン。“限りを守る”。

 名は、罰ではない。約束の発音。

 半径は、分け合うほど広がる。

 広がりすぎた時には、誰かの手が“緩衝帯”になってくれる。


 階段の向こうから足音。

 リラが「報告書は?」と眉を上げ、レンジが「二本目の焼きそばパンいる?」と紙袋を振り、ミナトが「R-6の固有名詞、変えたくなったら今のうち」と言う。

「変えない。——ダサいままで走るの、好きだ」

 自分でも意外な返事が出て、三人が同時に吹き出した。


「行こう」

 カイは立ち上がる。

「張る、受ける、外す。呼ぶ、応える、編む。——そして、選ぶ」

「はいはい」

 リラが頷き、レンジが拳を突き出し、ミナトのドローンが“了解”の旋回を一度。

 屋上のドアノブが軽く鳴り、春の風が廊下へ滑り込む。

 その風の中に、誰かの「ここまで!」という小さな声が紛れた気がした。

 昨日より一センチ、今日より一センチ。半径は伸びる。

 再会と別れは、同じ円の反対側。


 ——ありがとう。

 ——こちらこそ。


 灰色の羽根は、もう見えない。

 けれど、温度は残っている。

 人間の体温。

 “道の温度”。


 静寂のあとに生まれた、その温度を胸に、彼らは階段を降りていった。

 転校生として。

 英雄でも、教師でもない肩書きで。

 明日の“再会”と、次の“別れ”に、ちゃんと間に合うために。


第18話 半径の果て

 卒業式の日は、朝から風のかたちが良かった。

 冷たさと温かさが半分ずつで、どちらに倒れてもおかしくない均衡のまま、校門の旗を「ここまで」と丸くさせては、すぐにほどく。昨日までの制服も今日の胸章も、同じ布の上で別の役目を引き受けている。

 講堂の光は冬より白く、春より少し硬い。

 壇上に並ぶ卒業生たちは、黒と白と、時々涙の色。それらの間を、梁の影がゆっくり移動していく。

 篠崎カイの胸には、六連の小さなピンバッジが付いていた。円環を六つ連ねた、あの“循環”の印。温度は——人の体温。指で触れれば、少し安心する温度。

 校長の言葉は、遠くから届く波だ。

 「——卒業、おめでとう。ここで過ごした日々が、君たちの“輪郭”となり、これからの選択を支えてくれることを願う」

 語尾のひとつひとつが、講堂の壁で“やまびこ”の練習をしてから耳に入ってくる。拍手の指示のないところで、誰かがペンを落とし、その音がなぜかとてもよく響いた。

 頭の中の、もっと近い場所で、別の声が重なる。

 “——半径を、広げ続けろ”

 ラディウスの声は、祝辞よりも短く、そしてよく通る。

 カイは目を閉じ、ほんの少しだけ笑った。

 半径の果ては、地図にはない。輪郭は現場にしか現れない。だから、今日という地図の端を、たしかに踏みしめる。

 式が終わり、校歌の余韻を引き取る拍手が波となって引く。

 花道を進む在校生たちの間を、卒業生の列が二列で往く。

 天城先生の白衣は今日だけ薄い灰のジャケットに変わっていて、胸ポケットからカモミールの香りが少しだけ漏れていた。

 八代は相変わらず灰色の目で、しかし目の奥だけは春の温度を宿していた。鍵束は持っていない。持たなくても、鍵の位置がわかる人の目をしていた。

 真壁シオンは壇の脇で何か確認して、短く顎を引いた。手首のベゼルは、きっちりと“次”の目盛りに合っている。

 花道の終端で、一歩、影が寄る。

 白石リラが、風紀委員長の腕章を外した姿で立っていた。髪はすっきり結われ、目はいつも通りに鋭くて、いつもより柔らかい。

「転校生、次はどこへ行くの?」

 訊ねる声は平板なのに、少しだけ震えていた。

「さあ……どこかで、誰かの半径に入れたらいいな」

 それは本心だった。行き先は“役職”ではなく“温度”が決める。必要とされる範囲、すでにある輪に足りない“緩衝帯”、倒れやすい梁の下。

 リラは眉を寄せて、すぐに緩めた。

「風紀的には無許可移動だけど、“転校生”の特権として見逃す。——ただし、たまには報告して」

「はい、委員長」

「元・委員長よ」

 彼女は自分で言って、少し照れた。「新しい子に、うまく引き継ぐから」

 工藤ミナトが、ゴーグルを額に上げ、ふらりと現れる。

 手には掌サイズの円盤状ガジェット。天面に“R-6—final”の刻印。

「これ。お守り。通信圏外でも、仲間の声を拾えるよ。温度杭の簡易版も仕込んである。握ると、人肌の温度になる。怖いとき、呼吸が戻る」

 差し出されたそれは、軽いのに重い。

 カイは指で縁をなぞり、温度が掌に溶けるのを確かめた。

「ありがとう。——名前はそのまま?」

「うん。ダサいものをダサいまま好きって言える技術者になりたいから」

「最高の名前だ」

 鷹羽レンジは、いつも通りの乱雑な足音で来て、いつも通りの真剣な目で立ち止まる。

 拳を突き出す。

「また雷落とし合おうぜ。場所は変わっても、合図は同じだ。張る、受ける、外す。そんで、ぶつける、じゃなくて——」

「通す、だろ」

 二人の拳がぶつかる。硬い音はしない。皮膚の音だけがして、微小な電荷が笑う。

 レンジは笑って、鼻を拭った。

「ずっと“最弱”でいてくれてありがとな。……いや、元・最弱。お前が最強を“丸めた”の、ずっと忘れない」

 気づけば、周囲には何人もの在校生が集まっていた。

 下級生のユウトは、相変わらず背筋がきれいで、指先だけがおそるおそる揺れる。

 その指が、カイの“半径”の端をそっと触れた。

「ここまで、ですか」

「今日は、ここまで」

 カイは円を一センチだけ広げて見せ、ユウトは目を丸くして笑った。

 グラウンドから風の鳴きが上がった。

 空に白い雲が集まり、ゆっくりと円を描く。

 講堂の屋根の上で一羽の鳥が輪を切り取り、それが影として壇上に落ちる——白でも黒でもない影。

 ラディウスの声が、胸の印の芯から響いた。

 “契約完了。——君の名は、もう封じられない”

 名は勝ち名乗りではない。

 ここで言う名は、道の名前だ。

 カイは息を吸い、仲間たちの顔を順番に見た。

 リラの目にある“責任の光”。

 レンジの口元にある“悪童の誠実”。

 ミナトのゴーグルに映る“未来の散らばり”。

 天城の手に残る“脈の記憶”。

 八代の灰色の目の“見届け”。

 シオンの腕時計の“秒針の向き”。

「俺の名は——」

 胸の印が、やわらかく笑う。

守半径もりはんけいカイ。限りある範囲で、全部守る」

 言葉にしただけで、どこかの温度杭が小さく灯いた気がした。

 名は封印ではなく、約束の発音。

 輪郭は、囲いではなく、手のひらの大きさ。

 “全部”は世界全部ではない。

 “限りある範囲”の全部だ。

 そこにいる人、そのときの風、重なる線、倒れそうな梁。

 その全部を、全部、守る。

「なにそれ、ずるい」

 リラが笑って肩を小突く。「最高」

「いいじゃん」

 レンジが笑って拳をもう一度出す。「打倒・守半径」

「名刺、作る?」

 ミナトが真顔で端末を出し、すぐ自分で吹き出す。「いや、ごめん、ダサいままでいい」

 周りの笑い声が重なり、講堂の空間を丸くする。

 式場は片付けが始まり、花は根のついたものから順に土へ戻される準備に入っていた。

 天城が静かに近づき、カイの手首を握る。

「脈。——うん、いい拍」

 それだけ言うと、「ごきげんよう、転校生」とウィンクして歩き去る。

 八代は最後に、真正面から一度だけ、頷いた。

「授業は、ここまで。——宿題は、続く」

「はい」

 返した声は、入学初日の自分とは違う響きを持っていた。

 “わからないから頷く”のではなく、“わかっていて頷く”響き。

 卒業アルバムにサインを書く列から、誰かが呼ぶ。

「写真、撮ろう!」

 レンジが肩を組み、リラが腕をからめ、ミナトが自撮りドローンを頭上に浮かべる。

 ユウトが遠慮がちに端に立ち、リラが無言で袖を引いて真ん中へ連れてくる。

 シャッター音は一度。

 紙ではなく、温度でもなく、しかし確かに残る“輪”。

 青空がわずかに色を変え、雲の円がほどけはじめた時——

 空に、黒でも白でもない灰色の羽根が一枚、ふわりと舞い上がった。

 見送る視線に気負いはない。

 羽根は風に乗り、講堂の屋根の上で一度だけ踊り、太陽へ向かってまっすぐ昇った。

 光の中で、輪郭を失う。

 粉にも、線にも、言葉にもならない“何か”に変わって、空の温度に混ざる。

 カイは手を伸ばし、空から降りてくる“残り香”を掌で受けた。

 何も掴めないはずなのに、掌はあたたかい。

 握って、開く。

 そこには何もない。

 でも、ある。

 道の温度が、ある。

 ふと、耳の奥が静かになった。

 ——反響が、完全に止む。

 守れ。守れ。今度こそ。

 ずっと鳴っていた“合図”は、もう、自分の拍と同じ速さで、同じ静けさで、同じ方向を向いている。

 合図は命令ではない。

 共鳴だ。

 講堂から出ると、校舎の影が少し伸びて、卒業式は午後の光に吸い込まれていく。

 門の前には、見送りの列。

 風紀委員は腕章を外し、規律は制服の内側の“姿勢”になった。

 温度杭は、子どもたちの手によって“公園版”へ再配置される。

 雷板は眠り、必要なときだけ瞬く。

 R-6は胸ポケットの中で微弱に光り、遠くの仲間の声を一つだけ拾って、すぐに黙った。

「カイ」

 名前を呼ばれる。

 振り向くと、ユウトが立っていた。卒業とは関係のない新入生の顔。それでも、別れのタイミングを顔の筋肉で読む賢さを持っている。

「“ここまで”、って、いつまで言えますか」

 真剣な眼差し。

 カイは少し考えてから、答える。

「言いたいだけ、言えばいい。……誰かの“ここまで”が、君の“ここから”になることもある。そうやって、輪はつながる」

 ユウトは頷き、敬礼みたいなぎこちない手つきをして、走っていった。

 その背中は、もう自分の半径に“自分で”杭を打てる走り方だった。

 バス停へは、歩いて五分。

 卒業生は誰もが違う方向へ散っていく。

 レンジは地域結界課の研修へ、ミナトは都市安全局のサンドボックスへ、リラは——校内の新しい風紀の立ち上げへ。

 シオンはすでに外で“道”を敷き始めていて、天城は新しい保健講座の枠を増やしている。

 八代は、鍵束を持たずに鍵を見つける練習を、たぶん今日もしている。

 ラディウスは、胸の内側で、ただそこにいる。

 狼は外を走らない。

 もう、伴走者だ。

 信号待ちをしていると、道の向こうで小さな事故が起きた。

 自転車が段差で滑り、買い物袋が宙に舞う。

 反射的に、カイは“張る”。

 足元の影を薄く皿にして、滑った力の向きを半歩だけ変える。

 倒れる先が、柔らかい“空気のまくら”になる。

 買い物袋は空中で一拍だけ遅れ、落ちた先は“壊れない角度”。

 自転車の少年が顔を上げ、「ありがとう」と言った。

「どういたしまして。……ここまで」

 指で小さく円を描くと、少年は訳もわからず笑い、「ここまで!」と真似して去っていった。

 信号が青に変わる。

 歩く。

 バス停の屋根の下に、白銀の粉がほんのわずかに溜まっているのが見えた。

 手で払うと、指先が一瞬、あたたかい。

 思わず笑って、顔を上げる。

 空は、高い。

 半径の果ては見えない。

 だから、今日も一センチだけ伸ばす。

 ポケットの中のR-6が、一度だけ短く振動した。

 画面には、短いメッセージ。

《道、空いてる。——また、どこかで》

 送信者は記されていない。

 けれど、何通りもの“どこか”が、同じ意味でそこにいる。

 カイは“了解”のスタンプを送り、端末をしまった。

 バスが来る。

 乗り込む足元に、温度杭の“旅仕様”が一本、さりげなく設置されていた。誰の仕事だろう。たぶん、ミナト。あるいは、ユウト。あるいは、名もない誰か。

 人の体温の杭。

 そこに触れた人だけが気づく、小さな灯台。

 席に座ると、窓の外で校門が小さくなっていく。

 講堂の梁も、屋上のフェンスも、グラウンドの白線も、全部“ここから”になる。

 カイは胸に手を当て、ゆっくりと息を吸う。

 その拍に合わせて、内側の狼が目を細める。

 ——行け。

 短い意味が届く。

「うん、行くよ」

 走り出したバスの窓に、空がひとつ、またひとつ、輪になって映る。

 黒羽は、最後に一枚だけ、ほんとうに最後の一枚だけ、空へ昇っていったきり戻らない。

 でも、温度は残っている。

 道の温度。

 人の体温。

 “終わり”は、始まりの形をしている。

 だから、今日の終わりに、明日の“ここまで”を決める。

 半径は、分け合うほど広がる。

 限りある範囲で、全部守る。

 それが——守半径カイの、名の意味だ。

 窓の外、雲が円を描き、風がその円を少しだけ広げた。

 誰かの声が、胸の奥で重なる。

 “——半径を、広げ続けろ”

 “——はい”

 返事は、拍に重ねて、静かに。

《了》


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