1 魔法が使えない少女
朝のアルテミシア公爵家は重く静まり返っていた。
レオナは布団を抜け出し静かに寝台から立ち上がる。
壁に染みが浮いた質素な部屋には、古びたベッドと机そして自分で詰めた学院の鞄が置かれているだけだった。
明日から魔法学院に入学するというのに心は浮つかずむしろ冷えきっていた。
この家で“家族”と呼ばれた年月は温かさよりも冷たさの記憶ばかりだ。
そしてそれは今朝も例外ではない。
「レオナ! 早く朝食の準備をしなさい!」
廊下から鋭く響いた姉エミリアの声にレオナは身をこわばらせた。
「はい」と短く返事をし足早に階段を下りる。
屋敷には十分な数のメイドがいる。
けれどエミリアは雑用のほとんどを“妹”であるレオナに押しつけるのが常だった。
エミリアにとってレオナは妹ではなく同じ家に住んでいるだけの“使い勝手のいい使用人”でしかなかった。
食堂ではエミリアが綺羅びやかなドレスに身を包み優雅に椅子に腰かけていた。
淡い金糸の刺繍が光を受けてきらめき彼女の姿はまるで舞踏会の主役のようだった。
その姿は「優等生令嬢」の象徴であり家の誇りそのもののようにすら見える。
一方でレオナは質素な灰色の作業服姿だった。
袖口はすり切れ靴もよく見れば泥が落ちきっていない。
姉妹とは思えないほどふたりの装いはくっきりと分かれていた。
「パン、また焦がさないでよね」
エミリアはコーヒーカップを手にしながらレオナを一瞥する。
その目には侮蔑が色濃くにじんでいた。
レオナは、焼いたパン、スープ、サラダをエミリアの前に並べる。
「パン焼きすぎ、スープがぬるい、サラダの盛りつけが不格好。ほんと何をやらせてもダメね」
レオナは言い返すことなくうつむく。
その姿を見たエミリアが手近な魔導ランプを指差す。
「これ点けて。食事をするのに手元が見えなかったら不便だわ」
部屋はすでに朝の光と他のランプで十分に明るかった。
それでもなお命じたのは、レオナが魔法を使えないことをわざわざ人前で突きつけるためだった。
レオナは無言で手をかざし呼吸を整え魔力を流そうと集中する。
けれど何も起きない。
指先に光はともらず魔力の気配すら感じられなかった。
「本当に情けない。こんな簡単な魔導ランプさえ点けられないなんて。小さい子どもでもできるわよ。こんなこともできない人と私が同じ魔法学院なんてね」
エミリアが冷たく鼻を鳴らし手をかざすと橙色の光がすぐにランプを照らす。
その光がレオナの顔を照らし出した。蒼白な頬俯いた視線そしてその奥に隠した小さな絶望。
父ガルシアが食堂に入ってくると母ソフィアがそれに続く。
「レオナ、魔法が使えないのに学院に通わせてもらえるだけ感謝しろ。これは家の体裁のためだ」
「そうよ。絶対にエミリアの足を引っ張らないように。あなたにできるのは、目立たず黙って過ごすことだけ」
「……はい」
レオナの声はまるで小鳥の鳴き声のようにか細かった。
否定する力も反発する気力もなかった。
この家では自分に“価値”などないと、何度も何度も教え込まれてきたのだから。
姉エミリアは優雅に椅子から立ち上がり、ドレスの裾を軽く整えながら言い放つ。
「そうそう、同じ学院だからって絶対に私に話しかけないで。私の評判に傷がつくのは御免だから」
レオナの胸に冷たいものが染みていく。
たとえ学院でも居場所などないのだと、期待した自分が愚かだったと痛感する。
母がそれに頷き冷たく言う。「その方があなたのためでもあるでしょう?」
「……わかりました」
また小さな声だけが返された。
「エミリア、学院の寮生活で困ることがあったらすぐに家に連絡しなさいね」
「わかっていますわお母様。……レオナも同じ寮なのが少し不愉快だけど」
「心配しなくてもあなたとレオナは部屋も階も別です。あなたはあなたらしく過ごしなさい」
食後、レオナは制服の入った鞄をそっと確認し新品の袖を何度も撫でた。
新品の服を買ってもらったのは一体何年ぶりだろう。
家ではいつも姉や他の使用人のお下がりばかりで、自分のためだけに新しいものを手に入れることなんて、子供の頃以来ほとんどなかった。
(まっさらな服ってこんなに気持ちがいいんだ……)
指先でそっと布地のなめらかさを確かめながらレオナは小さく微笑んだ。
真新しい制服は少しだけ大きめだったけれどそれさえも特別に感じる。
新品の制服に袖を通すたびほんの少しだけ“これからの自分”に期待してしまいそうになる。
(明日からは寮生活……。)
不安はあるけれど新しい環境への小さな希望が少し胸の奥に灯る。
レオナは制服を大切にたたみ直し鞄の中にそっとしまった。
学院に入っても誰にも気づかれず誰にも迷惑をかけず静かに過ごす。
それだけがレオナに残された唯一の目標だった。
夜になっても眠れず彼女は小さく息を吐いた。
「せめて……迷惑だけはかけないようにしよう」
誰に届くでもない言葉が暗い部屋に溶けていった。
翌朝。家族の誰も見送ることなくレオナは玄関の扉を静かに閉めた。
肌を刺す朝の冷気の中石畳の道を歩き出す。鞄の紐を握る手は冷たくそれでも一歩ずつ前に進んだ。
一方、屋敷の正門ではエミリアが送りの馬車に乗り込むところだった。
両親は彼女に「期待しているわ」「恥のないように振る舞いなさい」と言葉をかけ母は膝の上のレースを払うように優雅に手を振っていた。
エミリアも当然のように笑みを浮かべ「任せて。私がこの学院の頂点に立つわ」と応えて馬車へ乗り込む。
同じ家の姉妹でありながらその扱いは天と地ほどに違っていた。
すれ違う生徒たちは皆、誇らしげに胸を張って談笑している。
新品の制服、つややかな髪、未来への希望に満ちた若者たちの姿がそこにあった。
レオナはその輪に入れず視線を落としたままひとりだけ早足で学院の門をくぐった
アストラリア魔法学院。
新入生の列が続く荘厳な講堂はまるで別世界のように華やかで輝いていた。
天井まで伸びるステンドグラスが光を落とし制服姿の生徒たちが誇らしげに整列している。
「……あれが、“アルテミシア家の出来損ない”よ」
「来たところでどうせすぐに辞めるわよ。魔法使えないんですって」
ささやかれる声が空気に溶けるように耳へ届く。
レオナは下を向いたまま自分の影を小さくたたむように立ち尽くしていた。
そのとき壇上にゆっくりと歩み出た人物がいた。
ふくよかな体格に白髪と立派なひげの学院長フィリベール・マクレイン。
「新入生諸君。ようこそ、アストラリア魔法学院へ」
あたたかな声音が大講堂の中に静かに深く響いていった。
その第一声には厳しさよりも包み込むような優しさがあった。
緊張でこわばっていた新入生たちの表情が少しずつほどけていくのが分かる。
「この学院には、才能ある者もいれば努力を重ねる者もいます。魔法が得意な者もいれば、理論に強い者、仲間を支えることに長けた者もいる。ここはそうした“多様な力”を育てる場所です」
壇上の下では新入生たちが真剣な顔で耳を傾けていた。
けどレオナは自分にはその“力”のどれもないと思っていた。
何を頑張ればいいのかすらまだ分からない。
昨日の言葉が脳裏をかすめる。
「話しかけないで」「足を引っ張らないで」
家族からの視線は期待などではなく、“汚点にならないように”という圧力だった。
フィリベール校長は一呼吸おいて続けた。
「あなたたちは魔法という技を学ぶだけでなく、人としての在り方を試されます。
学ぶこと、考えること、選ぶことそれら全てがあなた自身の力になるでしょう」
言葉には力があり重さがあった。
どこか遠くを見るような視線で語る校長の姿には年輪と経験がにじみ出ていた。
だがレオナの胸にそれは素直に届かなかった。
“自分には無理だ”という思いが言葉をはねのけてしまう。
(こんな私がここにいていいのかな……)
壇上では校長が最後の言葉に入ろうとしていた。
「あなたたちがこの先どれほど迷い、悩み、立ち止まったとしても。どうか自分を否定しないでください。答えはあなたの中にあります。たとえ今それが見えなくてもいつかきっと形になる」
その瞬間、フィリベールはゆっくりと視線を巡らせた。
彼の視線がほんの一瞬だけレオナの方で止まった。
レオナは気づかぬふりをしようとした。
だが心のどこかが微かに震えた。
自分を知っているはずのない校長がなぜか“気づいていたような”眼差しを向けたことに。
それはただの偶然だったのかもしれない。
(私の事を見ていた?)
すぐに疑念が浮かんでレオナは小さく首を振った。
勘違いだ。自意識過剰だ。こんな“出来損ない”を学院の頂点に立つ校長が見るはずがない。
式辞が終わると講堂内に拍手が広がった。
レオナも周囲に合わせて手を打つ。音がぎこちなくどこか他人事のようだった。
周囲の生徒たちはすでに次の予定の確認や友人との会話に花を咲かせている。
それに加われないことにはもう慣れていた。
入学式が終わると初日の最初の授業が始まった。
内容は「魔力基礎適正検査」いわゆる魔法発動テスト。
入学者の基礎魔力と適正の程度を測定する学院恒例の初期試験だった。
試験は講堂横の広間で行われ、生徒たちは一人ずつ円形の魔方陣の中央に立ち、提示された四種の初級魔法、火・水・風・土を順番に行う。
試験監督を務めるのは最強術師と噂のヴァイス・グレイハウンドだった。
長身で細身どこかとぼけた笑顔と場の空気を軽く吹き飛ばすような軽快さを持つ。
黒いローブを羽織りつつもそれすら気負いなく着こなしていた。
「みんな。そんなに緊張しなくていいからね? 人生、一番大事なのは自分で楽しむことだよ」
広間に集まる新入生たちの視線が一斉にヴァイスへ向けられる。
彼は涼しい顔で手を振ってみせた。
「じゃ、順番にやってもらおうか。失敗したって減点ナシ。俺そういうの寛大だから!」
冗談とも本気ともつかない調子で場を和ませつつヴァイスは最初の生徒にウインクを送った。
生徒たちはやや困惑しつつも、ひとりずつ魔方陣に立ち四種の初級魔法に挑戦していく。
成功する者もいれば失敗して苦笑いする者もいる。
だが魔法が一度もできない生徒はいなかった。
中でもやはり目を引いたのは、王太子クロード・ラグランジュだ。
「王子サマのお手並み拝見っと。クロードくんいってみよー!」
呼ばれたクロードはいつもの冷静さで魔方陣に立つ。
他の生徒より大きな火球を発動させ、風を自在に操り、土の壁を作り、水の球体を美しく作りだしてみせた。
「うんうんパーフェクト。さすが王族映えるなぁ。全項目A評価!」
ヴァイスはわざと大げさに手を叩いてみせる。
周囲の生徒たちも自然と拍手とざわめきに包まれていった。
続いて呼ばれるのは、エミリア・アルテミシア。
「お次は公爵のお嬢さまエミリア。期待してるよ?」
エミリアは緊張の色も見せず堂々と壇上へ。
魔方陣の中央に立ち優雅な動きで魔法を操る。
どの魔法も隙なく一発で成功させた。
「おー、これまたすごい。優秀だねぇ。今年の入学生は実は天才ばっかりだったりして?」
軽口を混ぜるヴァイスに生徒たちからくすくすと笑いが漏れる。
他の生徒たちも順々にテストを受け和やかな空気が会場に広がっていく。
そしてついに――
「さてさて。同じく公爵令嬢のレオナ・アルテミシア。君の番だよ。リラックスリラックス!」
名を呼ばれたレオナは硬い表情のまま魔方陣に立つ。
ざわめきの中好奇と噂と期待と侮蔑が入り混じった視線がレオナを刺していた。
「あの子だよ、“魔法が使えない”って」「本当に失敗するのかな」
レオナは震える手を掲げ心の底で必死に願った。
(どうか……せめて一度だけでも)
だが彼女の手には何も宿らない。
魔法の気配さえ感じられなかった。
「んー、なるほどぉ」
ヴァイスが一歩近づき茶化すような微笑みのまま、しかしその目だけは真剣にレオナを見つめていた。
「いやぁ珍しいなぁ。ここまで綺麗にゼロだとむしろ面白いね。逆にレアだよ?」
会場からくすくすと失笑が起きる。
レオナは俯いて身を縮めた。手は冷たく唇が小さく震えている。
「ま、気にしないで。テストってのは一回こっきりじゃ何も決まらないからさ。みんなも笑うなよー?じゃあ次!」
ヴァイスは飄々と次の生徒へ促し何事もなかったかのように記録用紙にサインをした。
だがその手は一瞬だけ止まり、誰にも気づかれぬようにレオナの方へ意味ありげな視線を向ける。
(まさかこれは……)
レオナの“違和感”を彼は気づいていた。
その様子をクロード王太子も興味深げに見つめていた。
自分の時とは全く違う空気。レオナだけが纏う重い沈黙。
クロードもまた明確な言葉にならない引っかかりを胸に残していた。
全員のテストが終わると生徒たちはわいわいと騒ぎながら談笑をし始めた。
レオナは俯いたまま一人教室に戻ろうとする。
周囲のざわめきも遠く胸の内で何度も何もできなかったという言葉が響く。
その時不意に声がかかった。
「レオナ嬢、お疲れさま」
顔を上げるとクロード王太子が優しく微笑んでいた。
「今回は緊張しすぎただけかもしれないよ。誰にだってうまくいかない日がある」
レオナは思わず目を丸くし声を震わせた。まさか王子が自分に直接声をかけてくれるとは思ってもいなかったのだ。
「でも、私は……」
その様子を少し離れた場所から見ていたエミリアが眉をひそめて小さく舌打ちする。
「ううん、これからだよ学院生活は。きっとレオナ嬢も魔法が使えるようになるよ」
クロードの目には確かな好奇心とどこか彼女を“見守る”ような光があった。
「……はい。頑張ります。ありがとうございます」
レオナはうつむきながらほんのわずかに息をついた。