42 限界
コンコン
「リリア、入ってもいいか?」
リリアが湯浴みを終えて部屋で寝る支度を整えていると、セルの声がする。
「はい、どうぞ!」
リリアが返事をすると、セルが部屋へ入って来た。リリアはベッドサイドから立ち上がってセルの元へ行こうとしたが、セルが片手でそれを制し、リリアの横にそっと座る。
「お仕事はもう終わったんですか?」
セルは屋敷にいるときでも、夜はだいたい執務室か自分の部屋で仕事をしていることが多い。
「ああ。寝る前にリリアの顔を見たくなったから会いに来た。すまない、嫌だったか?」
「そんな、嫌なわけないですよ。私も、寝る前にセルの顔が見れて嬉しいです」
そう言ってリリアが微笑むと、セルは嬉しそうにリリアに顔を近づけ、鼻から大きくすうーっと息を吸い込んだ。
(まただ、またなんか嗅がれてる)
たまにセルはリリアに会いに来て、匂いを嗅ぐ仕草をするのだ。しかも、抱き着くわけでもなく触れるわけでもなく、絶妙な距離で息を思いっきり吸い込む。
息を吸い込んでから、ふーっとセルは満足そうに息を吐く。本当に満足そうな顔をしているので、リリアはいつも何も言えずにいるのだ。
「今日もいい匂いだ、リリア」
うっとりとした熱のこもった瞳でそんなことを言うものだから、リリアはどう反応していいのかわからない。つい頬を赤らめ目線をキョロキョロと泳がせてから、ハッ!となにかひらめいて、リリアは目を輝かせてセルを見上げた。
「どうかしたか?」
「セルは私の匂いをよく嗅ぎに来るでしょう?今日は私も、セルの匂いを嗅ぎたいです!」
「俺の匂いを?ただのおっさんだぞ。おっさんの匂いを嗅いでもなにもいいことがないからやめなさい」
「どうしてそんなこと言うんですか!私にとっては素敵な婚約者をおっさんだなんて。それに、させてくれないなら、セルもこれからは匂いを嗅がせませんよ?」
「はあっ!?なっ、それは……困るな」
むうっと口をすぼめて不満げな表情をすると、しょうがないなとしぶしぶ了承する。
「やった!それじゃ、遠慮なく嗅がせていただきますね」
リリアはそう言うと、ガバッとセルに突然抱き着いてスーッと思いっきり深呼吸した。突然のことに何が起こったか一瞬わからなかったセルは、目を大きく見開きながら身を固めて静止している。
「ふふっ、いい匂い。セルの匂いもとてもいい匂いです。私、この匂い好きですよ。優しくてあたたかくて落ち着く匂い……」
嬉しそうにそう言って、リリアは顔をセルの胸元へすりすりと摺り寄せる。セルは視線だけをリリアに向けると、目を瞑って苦しそうに呻いた。
「……セル?どうかしました?」
「……はぁ、いや、なんでもない。そろそろ終わりにしてもらってもいいか?」
セルが渋い顔でそう言うと、リリアは残念そうにセルから離れた。
「もしかして、私にこうされるのは嫌でした?セルはいつも顔を近づけるだけですもんね。ちょっとやりすぎてしまいましたか……ごめんなさい」
シュンとするリリアに、セルは大きくため息をつく。リリアはため息を聞いてさらに悲しそうな顔でセルを見上げるが、セルの顔を見て驚いた。リリアを見るセルの瞳が、ぎらついている。まるで捕食者のように今にもとって食わんと言わんばかりの顔で、だがそれをなんとか堪えようとしているみたいだ。
「セ、セル……?」
「こっちはギリギリの理性をなんとか保とうと、触れることもせず頑張ってたのに……どうしてリリアはそう、無防備すぎるんだ?」
ぶつぶつとそう言いながら、セルの片手がリリアの顔へ伸びてくる。そしてリリアの頬に触れるか触れないかの距離で、その手はすぐに離れて行った。
「……今日はもうこの辺で部屋へ戻るよ。おやすみ、リリア」
「えっ、セル、あの、もしも怒らせてしまったならごめんなさい。私……」
「怒ってない。大丈夫、怒ってないよ。ただ、今リリアに自分から触れたら、タカが外れてリリアを食ってしまうかもしれない。色々と限界なんだよ。わかってくれ」
そう言って何とも言えない表情で微笑むと、セルは立ち上がりドアへ歩き出した。セルの言葉の意味に気付いたリリアは、だんだんと顔が真っ赤になっていく。
(げ、限界……?食ってしまうって……そういうこと?)
「おやすみ、リリア」
「お、おやすみなさい」
パタン、とドアが閉まると、リリアは両手で顔を覆い、声にならない声で呻いていた。
*
(やばかったやばかったやばかったやばかった!)
急いでリリアの部屋を出て自室に戻ったセルは、ドアを閉めた途端にその場にうずくまり、ううう、とうめく。
(よりにもよって、ハンカチの匂いを嗅いだ後の背徳感のある状態であんなことされたらやばいだろ。急に抱き着いて俺の匂いを嗅いだあげくに、この匂いが好きだだの顔を埋めてすりすりしてくるだの、本当に勘弁してくれ)
湯浴みしてすぐのリリアのほんのりと漂う良い香り。抱き着かれた時のリリアの柔らかさにも正直もう限界だった。
(あのまま押し倒してキスしてめちゃめちゃに抱き潰したい。ああ、でもリリアのことは大切にしたいからそんながっつくようなことは絶対にしたくないんだよ。それなのに、……ックソ)
フーッフーッと息が荒くなりながらも、セルはなんとか煩悩を振り払うようにぶるぶると頭を振った。




