第九話 怪人の幼き日々(一)
八月五日。
ツルメが泣き出して仕事にならならかった。
代わりにナツがきびきび小気味よく働く。
急にツルメの状態がおかしくなったのは、朝に出勤してきた通訳のカトーと話をした後である。
チャーリーはたずねた。
「いったい、ツルメは今日どうしたの?」
カトーは言う。
「自分が帰る時に、門の前でばったりツルメの父親に出くわしました。彼がクサガに会いたいというから、私たちは彼を自分たちの旅籠に連れて行きました。そこで、私たちの口から彼女について色々なことを聞きました」
「彼女について、どんなこと?」
「ツルメは熊本の洋学医の孫娘ですよ。
クサガも通ったという熊本の洋学校が廃校になった後で、医師の祖父はツルメの教育のために長崎へ移住しました。
そして官立の通訳養成学校である長崎英語学校へ転校しています(注・一八八二年の時点では長崎外国語学校と改称している)。去年の夏まで、彼女は英語通訳になるための高等教育を専門に受けていました。
「女性の英語通訳の高等教育? それで、ツルメは英語が上手なのね」
チャーリーは驚いた。
カトーの説明
「彼女の祖父の意向です。
これには、彼女の父親の存在も絡んでいます。
まず、祖父の一人娘、ツルメの母親は、容姿のいいだけのサムライ、彼女の父親と結婚しました。産後の肥立ちがよろしくなく、彼女の母親は死亡し、他の孫は望めなくなりました。
だから、祖父は自分の唯一の孫娘であるツルメを自分の跡を継いでくれる医者と結婚させることを計画しました。
そのために、ツルメに高等教育を与えることを、彼女の祖父は考えました。ツルメは男に混じっても優秀な成績でしたから、彼女の祖父は惜しみなく教育の機会を与えました」
「その話はわかったけど、それがどうして、ツルメの様子がおかしくなる話になるの?」
時系列の順を追って話すと、とカトーは言う。
「昨年の春に、彼女の祖父は流行病で急死しております。
それからが問題ですよ。
まず、彼女の父親は先ほどに申し上げましたように、容姿がいいだけが取り柄のような男であり、自力で金を稼ぐ能力はほとんどありません。
今、貧民街の自宅で寺子屋と占いを彼はやっています。
故郷の親族に頼るか?
先年の九州の戦争で、彼らの故郷はめちゃくちゃになってしまい、頼れる親族は特にいません(彼らが戦災者の親族の誰一人も引き取っていないところを見ると、最初から親族の縁が薄かったのかも)。
では、長崎の祖父の友人たちに頼るか?
長崎の祖父の友人の洋楽医の仲間も、外国人が多く、それほどには親身になってくれません」
ツルメの置かれている状況を小馬鹿にしたようにカトーは言った
「彼女の父親は、基本的に無能な男ですが、多少は賢いところがありました。
彼女の祖父が死んだ後には、彼の稼ぎでは、出島の近くにある賃料が高い大きな貸家を維持することはできません。
そこで、手元にある公債利子で、最低限の暮らしが成り立つように、、賃料の安い貧民街に移り住むことにしました。
見栄を張って道の商売に手を出して失敗して破滅するような愚かなことを彼はしませんでした。身の程を知っています」
しかし、とカトーは言う。
「とりあえず生き延びるというためならば、悪くない選択肢ですが、年頃の娘であるツルメからすれば大問題ですよ。嫁ぎ先が限られてしまいますな、あんなところに住んでいては。
彼女の父親が色々と悩んでいたわけですが、そのような時に、突然あらわれたのがクサガですよ。
熊本洋学校時代の彼女の同じ年の同窓生。
六年ぶりに思いもよらぬ場所で、ちらりと見かけただけで彼女を見分ける。クサガが彼女に好意を持っていることは明らかです」
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これは秘密の話なのですが、とカトーは笑った。
「ツルメは、クサガにとって、初恋の相手だったそうです。
彼女の父親が旅籠から帰った後、夜中に彼は酒の勢いを借りて私に話してくれました。
洋学校時代の彼は目立たない大人しい男の子だったそうです。
彼は九歳のときに、父親に死なれ、母親に言われて、一生懸命に勉強して、熊本洋学校に入学しました。
そこに、自分よりも一年早く入学した、同じ年齢のかわいい女の子がいて、裕福な洋学医の孫娘で、明る勉強ができて、周囲の人気者。
当時のクサガは、下級のサムライの息子。
父親に死なれたシングルマザーの家庭。
他の生徒たちに比べて貧しく、洋学校の勉強についていくのが精いっぱいだった。
クサガは彼女のことを遠くから眺めていた。
そんな話をしてくれましたよ。
私も彼の友人となってから二年ぐらいたつのですが、クサガが自分の子どもの頃を話すのは初めて聞きましたね」
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゛話を戻しましょう、とカトーは言う。
「東京からきたエリート学生が、彼女の熊本洋学校時代の同級生で、彼女に政府の御用の仕事を世話してくれるという話に彼女の父親は驚きました。
うますぎる話を疑い、クサガが本物か偽物か彼は確かめようと思ったのです。
クサガの逗留している旅籠にむかったら、政府御用の立派な旅籠で、たまたまフジタという外務省の役人が来ていて、クサガを外務省に引っ張りこもうと話をしている最中。
そこで、クサガは褒めちぎられていたわけですよ。まだ若くて法律経済文学もわかり語学堪能で剣も禅も漢籍もできる。政府や民間の有力者も彼の将来に期待している。
本物。
それが自分の娘に対して個人的に好意を持っている。
ツルメの父親がすっかり舞い上がってしまって、クサガに対してツルメと結婚してほしいと頼みこんできました、いきなり、図々しく」
「図々しく?」
「私がクサガの立場ならば、ツルメを妻に選びません。
彼の剣の師匠であるマスター・ソウカイの養子になった上で、もっと自分の将来につながる妻を選びますよ。
マスター・ソウカイは、明治政府に出仕しなかったものの、剣を振るってカオル・イノウエ外務大臣の生命を救い、出仕してれば、それなりの地位身分についたことは間違いないです。
マスター・ソウカイの養子になった上であれば、クサガが朝廷貴族や政府高官の娘と結婚するようなことも夢ではありません」
チャーリーは不愉快に思った。
「遅れた東洋的な考え方ね、地位や身分が全てと考えてしまう」
いいえ、とカトーは自信たっぷりに首を横に振った。
「これは進んだ西洋的な考えです。
私とクサガは東京の学校で、イギリスの功利主義の考え方を学んでいますよ。
まず自分のことを考える。個人の独立自由のために金力を最優先させる。そういう計算ができる個人が集まってこそ国全体が豊かになるのです」
当時の高等普通教育である中学校であっても一八八〇年までの入学者は六人に一人は女性であったというデータが存在している。
「明治時代から昭和時代までの女学生の通学服に求める機能の変化」
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I030553054-00