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第七話 予備兵力は大切

 八月四日。

 門の前での乱闘騒ぎの後、久佐賀が顎を蹴り割ったアメリカ人も、久佐賀を押し倒してくれた大島も、久佐賀も同じ馬車に放り込まれた。

 気まずいこと、この上なし。

 軽く足首を捻っただけ。

 運ばれた先の医者の診立てでも二三日もすれば痛みも引くだろうという程度だった。

 固定用の包帯を巻いて終わり。

 痛みをこらえれば歩いて帰ることができると久佐賀は思ったが、旅籠まで馬車で送られた。


 付き添いの大島が旅籠の部屋の中にまで入ってきた。

「すまん」

 両手をあわせて詫びてくる。

「俺のせいで将来のある久佐賀くんの大事な身を怪我させてしもうた」

「大げさですよ」

 年長者である大島に対して久佐賀は敬語を用いる。もっとも、さすがに足首が痛むので無理をせず膝を崩して座っている。

 大島が言う。

「いや、わしもあのメリケン野郎に拳骨を食らわしてやりたかったのだが、内田先生から色々と言われておったので黙って殴られたんじゃ。

 あの野郎に久佐賀くんが思い知らせてくれて胸がすっとしたわい。

 さすが、松本蒼海先生の弟子というだけある。小さい見かけによらんな。暴れだしたら火の玉がはじけたように思うた」

 師の名前を出されて褒められると久佐賀も面映ゆい。

「いやいや、師匠は『俺のような人間にはなるな』と言うとります」

「どういうことだ?」

「師匠は、ご自身が人を簡単に殺しすぎることを悔やんで、仏門に入ったという御方ですから、よく『短気はいかん』とおっしゃられます」

 ああ、と大島は納得する。

「そいつは久佐賀くんも気をつけた方がいいかもしれんな。

 君に学問の道を勧めたという蒼海先生のお気遣いはわかる。何と言うか、こんなことを言うていいのかわからんが、確かに君は危ういのかもしれん」

「危ういですか?」

 久佐賀が問うと、大島は首をひねって考え込んだ。

 言葉を選ぶ。

「並みの者よりも色々とものを考えるのだけれども、大きな穴があるように思う」

 続けて、

「大きな穴を埋めるためには、その穴に本気で向き合わない限り、埋められん」

 と言った。

 なるほど、と久佐賀は感心した。

「俺が本気で向き合わなければならない大きな穴とは何なのしょうかね?」

 さあ、と大島は言う。

「そいつは、久佐賀くん本人しか、わからんのではないかね?」

「ごもっとも」

 久佐賀は苦笑した。

 大島が問う。

「学問というのは面白いのか? 楽しいのか?」

「わかりません」

「まあ、そうだな」

 大島は腕組みをして目を閉じた。

「それでも、久佐賀くん色々なことを学んだ方がよいのだろう。そんな気がするわい。久佐賀くんが何と向き合えていないのか、色々と学ぶ間に、わかることもあろう」

「そうですね」

「わしにもわからぬことじゃが、とにかく、学びなさい」

 年長の大島の言葉には妙に説得力があった。

「はい」

 久佐賀は素直に応じた


 お見逸れした、と大島は言った。

「恥ずかしいことだが、わしも壁山も誤解しとった。東京で学生なんぞやっとるぐらいだから、久佐賀くんのことをただの文弱の秀才と思うて侮っておった。

 いやいや、どうして、なかなかの気骨の持ち主じゃな。まだ若いし、しっかり修養を積めば、国家に有為の人材になるだろう」

「褒めすぎですよ、さすがに」

 と、久佐賀は照れた。

 大島は笑った。

「まだ昼の八つだが、酒でも飲まんか? 本日、わしらは早退だ。わしらが抜けた穴を埋めてくれる加藤くんや壁山には悪いが」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 そんな呑気な会話を久佐賀たちがしているところに、

「おう、元気にやっとるか」

 一人の男が扉を勢いよく開けて部屋に入ってきた。

「藤田さん」

 久佐賀は声をあげた。

 部屋の床には空の徳利がすでに何本も転がっている。酒の肴に用意した皿もどんどん運ばれてきている。

「どうせ国が支払うと思って景気よくやっとるな、満吉。結構なことだ。怪我をしたと聞いて心配したぞ」

 と、藤田。

 藤田轟天。

 阿蘇に隠遁した松本蒼海に明治の零年代に押しかけ弟子の形で剣を学んだ。

 役人になるべく上京して、東京の英語塾に通ったが、生活に行き詰まり、定職につくべく、剣の腕を活かして警察に入った。

 明治十年(一八七七年)の西南の役においては、警視庁抜刀隊に選抜されて戦争に参加した。

 明治十一年(一八七八年)から明治十二年(一八七九年)にかけては、『戦没者の魂を弔う』と称して公職を離れ、阿蘇の山寺に再びこもった。

 その時期に、久佐賀は彼のことを兄弟子として知った。

 明治十三年(一八八〇年)に、釜山に日本にとって初めての外務省直轄領事館警察が設立されるとき、蒼海・井上馨外務卿のルートで、【(ある程度)英語を解する警察経験者】として推薦された。

 明治十五年(一八八二年)、釜山の日本人街の拡大に伴い、人員募集のため、藤田は朝鮮から一時的に帰国していたのである。

「東京から、サイモン夫人の様子を確かめるべく、出島の家に行ったら、久佐賀が怪我をして馬車で運ばれたと聞いたので見舞いに来た。

 日の高いうちから、ずいぶん調子よく楽しそうにやっとるな。その様子だと、あまり心配しなくてもよさそうだな」


 久佐賀は弁解する。

「気分をよくした方が身体の調子もすぐによくなりますもので。はい。いや、ちょっと、怪我と申しましても、足首をひねっただけですが」

「外務省の藤田さんですか?」

 大島が両手をついて頭をさげる。

「わしは、内田良五郎の弟子の大島と申します。このたびは、久佐賀くんに、わしが怪我をさせてしもうて、まことに申し訳ござらん」

 かまわんよ、と藤田は言う。

「大したことはなかったのだろう。軽く足首をひねったぐらいで、いちいち大げさな。そういうこともあるもんだ。

 君が内田先生のお弟子さんかい? 今回は急な話で無理を言うてしまって申しわけない。サイモン夫人の護衛もお国のためだと思って、しっかり頼む」

「心得ました」

 と、大島。

「予備の兵力として加藤くんも入れておいて正解だったな」

 にやにや藤田は笑う。

 酒が入っているということで、久佐賀の口も軽くなった。

「今日、俺は足首ば捻ったので大事をとって休み。残りの仕事は代わって加藤にすべてやってもらいます。明日も加藤の当番です。いや、ほんと、気楽なものです。予備兵力は大切です」

「俺も一つご相伴にあずかるか」

 藤田も座布団をもってきてドサッと腰をおろした。

「酒と肴の追加だ」

「わかりました」

 大島はあわてて部屋の外に出て女中に声をかける。 


「ちょっと予備の人員の話をしよう」

 藤田は真面目な顔になる。

「思ったよりも人数が必要になるな。

 内田先生とも話した。護衛はもう一人か二人増やす。

 予算の方は心配いらん。

 一昨日のサイモン夫人の記者会見の記事が英字新聞で評判になっており、外務省も予算を増やすことに前向きになっておる」

 続ける。

「加藤くんが新聞社に対する働きかけなどに熱心にやってくれているようだが、一人では難しい。

 内田さんの知り合いの新聞社の人を呼べるかもしれん。驚くべき人物だ。実現せぬ間は言わんが、会えば、びっくりするぞ。楽しみにしてくれ」

「楽しみです、そいつは、楽しみです、はい」

 久佐賀は上の空で聞き流し、手酌でぐいぐいやり、刺身を口の中にかきこむ。

「まことに良い心地ですばい」

「いったい、何を楽しみにしとるか、満吉よ? お前も阿蘇の山の中にいた頃と変わったな。いや、昔から、横着だったのかもしれんが」

「こういう良い日が続くとよいです」

 藤田と大島はゲラゲラ笑う。

「そいつは同感だ」

「うまい酒とうまい魚がある時には、理屈をこねず、そいつを楽しむというのが利口ですな」


 

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