第六十話 その女は五岳鶴女
九月十六日。
明日の朝に出発となれば、旅籠にある私物をどうするか、久佐賀は考えた。
正直な話をすると、夏服など長崎から東京に送るよりも打ち捨てて新しく東京で買った方が経済的である。
とはいえ、安藤から買った鶴女が写っている写真の数々は持ち帰りたい。
そこで、はたと久佐賀は気がついた。
まだ買い忘れている写真があるのではないか、と。
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あわてて久佐賀は鹿児島新聞社・臨時長崎支部に駆け込んだ。
カメラマン安藤はにこやか恵比寿顔。
「いつもいつもお買い上げありがとうございます。
お気づきの通り、九月三日の演説会の分にお買い忘れがございます。
足りない分は、お得意さまに対するサービスということで、いつもの半額でお売りします」
「お得意様にサービスということならば、最後ぐらい無料にならんのか?」
と、久佐賀。
二人のやりとりを見ていて鹿児島新聞社の面々は笑った。
野村もからかってくる。
「もう鶴女くん本人と早く結婚したまえ、久佐賀くん」
今まで買い集めた写真と合わせて東京の下宿に郵便で送ってもらうことになった。
安藤は笑った。
「これで郵便事故などあったら、目もあてられませんね」
「怖いことを言わんでくれ」
と、久佐賀。
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旅籠にあった加藤の私物と一緒に、久佐賀は甘利の屋敷に夏を送り届けた。
久佐賀は言った。
「頼んだぞ。加藤が退院するまで、もしくは、夏の東京の学校が決まるまで面倒を見てやってくれ」
もちろんですよ、と甘利はうなずいた。
「代わりと言えば何ですが、久佐賀先生は東京でうちの娘に変な虫がつかないようにしっかり見張ってやってください」
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甘利の屋敷から出島に戻る途中の道端で偶然ばったり鶴女の父親とあった。
彼は道端で易者をやっていた。
「もしかして、久佐賀くんではないですか? 五岳鶴女の父親である五岳源次郎です」
言われて存在を思い出した。
薄情かもしれないが、久佐賀はこの夏の長崎で驚くほど多くの人々と出会った。五岳源次郎の存在は頭から消えていた。
「ああ」
久佐賀は思い出した。
源次郎はたずねてきた。
「鶴女は元気にやっておりますか?」
源次郎と話す久佐賀の姿を見て、二人組の男が寄ってきた。
「久佐賀先生、お久しぶりです」
「誰だ、お前ら?」
「先月の初日にお会いしました勇一と正蔵でございます。小さい女の子を買いつけたところを久佐賀さんと加藤さんに随分と叱られました」
とんだ顔見知りもあったものだ。
ちょうど見覚えのある牛鍋屋の看板が久佐賀の目に飛び込んできた。
清国人の完遂と入った店。
あのときには、完遂との会話に夢中になって、ほとんど飲み食いするどころでなかった
店には悪いことをした、と久佐賀は思った。
こいつも長崎でやり残したこと。
「みんなで立ち話をするのも何だから、向こうの牛鍋屋で食わんか?」
「金が・・・」
気まずそうに源次郎はうつむいた。
久佐賀は言った。
「かまわん。どうせ甘利の名前を出せば、つけで飲み食いできる店だ」
「そいつは豪儀だ」
「ありがたく、ご相伴に預かります」
勇一と正蔵は喜んだ。
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この日は、久佐賀は店の牛鍋を存分に味わった。
醤油をベースとした甘辛いたれを使っていた。
長崎の牛鍋はこんなものだった、と東京の友人たちにも話ができる。
白いごはんを口の中にかきこみながら、久佐賀は教えた。
「鶴女は明日から東京に行く」
「え?」
源次郎は娘の動向を知らなかった様子だった。
久佐賀は続けた。
「今月の二十九日は、にサイモン夫人の通詞として、朝鮮から戻ってくる花房公使の凱旋祝賀会に、鶴女は出る。延遼館だ。外務省の公式で。十月の二日には向島の遊就館で、また鶴女の出番だ」
「花房公使さまの凱旋祝賀会」
横で聞いていた勇一と正蔵は腰を抜かした。
酒が入ってくると、勇一と正蔵はしきりに愚痴った。
「俺らだって、もっと他人さまに胸ば張れる商売ばやりたか」
「まず生くることで精いっぱいで、借金取りに人買いみたいなことばしとるんよ」
「これぞ男と言われることば一度くらいしたかね」
「何もないままくたばると思えば切のうなる」
ただで飲み食いをさせてもらっているためか、勇一と正蔵はお世辞を並べた。
「東京の政府高官が久佐賀先生ば名指しで会いに来る」
「久佐賀先生の言葉で陸軍も外国語学校も動く。本当に大したものだ」
「新地の決戦で久佐賀先生が指揮を取られたそうで」
「八幡町演劇場での演説会のおかげで、長崎の街では評判になっとります。次のサイモン夫人の演説会は、いつですかね?」
久佐賀は言った。
「もう長崎では無理だぞ。八幡町演劇場でも人が多すぎて入りきれなんだ。東京や横浜には、もっと大きなハコがある」
「ハコですか?」
「警察から小さなハコでの演説会は止められとる。小さなハコに人が押し掛けると危ない。これからは東京でやる」
「長崎も大きなハコがあればよかですが、そいつは仕方なか」
勇一は言った。
「久佐賀先生、あんな出会いだったのに、ごちそうになってすみませんな」
「支払いは、どうせ甘利が持つ。俺の懐は痛まぬ」
と、久佐賀。
いやいや、と正蔵は言った。
「甘利さまが金を出すのも、久佐賀先生の顔に対してですばい」
とりあえず、と久佐賀は言った。
「俺もあの時は少しやりすぎたと思うとった。これで水に流してくれ」
「え?」
「昔馴染みの女が見ていたから、つい余計な力が入ってしまった。後から考えれば、やりすぎたかもしれぬ。俺も東京に戻る前に詫びる機会ができてよかったわい」
その女とは、五岳鶴女である。
久佐賀たちの会話を横で聞いていた鶴女の父親の源次郎はいかなる心境だったのか、とても簡単には言い尽くせまい。
源次郎は畳に額をこすりつけぬほどに平伏した。
「うちの鶴女のことを、これからも宜しくお願いします。東京に行ったら長崎に戻らなくてもいい、とお伝えください。どうか、娘のことをよろしくお願いします」
源次郎も人の親として鶴女に幸せになってほしいという気持ちがあるということは伝わった。
久佐賀としては、
「まかせろ」
と言うより他になかった。




