第六話 在東京アメリカ公館
八月四日。
チャーリーが最初の記者会見を終えた翌日、出島内の彼女の住居であるチャーリー・サイモン邸の門の前で騒ぎが起きた。
騒ぎの原因は、在東京アメリカ領事館職員タイガーマンの一行であった。
何のアポイントメントなく、彼らがチャーリー・サイモン邸に入ってこようとして、門番のオオシマともめた。
アメリカ側と日本側に一人ずつ負傷者が出た。
チャーリーは応接室でタイガーマンから話を聞いた。
状況説明。
「まず、こちらのボディガードのマイケルが日本人の大きな門番を殴りつけた。
門番たちは殴り返してこなかった。
しかし、通訳が血相を変えて割って入ってきてマイケルに抗議した。それで、マイケルは通訳も殴ろうとした。すると、驚いたことに、チビの通訳は簡単にマイケルのことを引っくり返し、マイケルの顎を蹴ったんだよ。
顎の骨が割れた。病院送りさ。おかげで、しばらく奴の愉快なビッグマウスを私たちは楽しめなくなった。残念な話だ」
「そちら側で怪我をしたのは、マイケルね」
「ああ」
「こちら側で怪我をしたのは、オオシマ?」
「いや、違う。割って入った通訳だ」
「え?」
「通訳がとんでもない勢いでマイケルを痛めつけようとしたので、門番が泡を食って、通訳に飛び掛かかって押し倒した。その時に、通訳は左足首を少しひねった。
彼のことは心配するな。大した怪我じゃないだろう。こちらの馬車でマイケルと一緒に近くの病院に連れて行かせた」
「どうして、マイケルは門番を殴ったの?」
「日本側の護衛など頼りにならないことを、君に教えてやるつもりだったのだろう」
「私に?」
チャーリーは戸惑った。
そうだ、とタイガーマンは言った。
「君が日本にとどまりたいというのならば、東京のアメリカ公館で本格的に君のことを世話をしたい。
日本政府からの援助を受けて君が長崎にとどまるかぎり、どうしても、日本人にとって都合のよい話ばかりすることになる」
チャーリーは大きな溜め息をつく。
「それでも、この件については、私は日本人たちに先に世話になっています」
タイガーマンは続けた。
「君に助けの手を差し伸べた後先の順を君が言うのは、アンフェアだ。
先月の二十九日に長崎に来た時点で、君は長崎の滞在の希望を日本の外務省職員に伝えている。
なぜ、そいつを東京のアメリカの領事館にも伝えなかったのかね?
そうすれば、アメリカ政府だって、もっと早く君に手を差し伸べることができたかもしれない」
「それは思いつきませんでした」
馬鹿馬鹿しい、とチャーリーは思う。
朝鮮を脱出する時から、ずっと日本人たちの世話になっているのだ。
この流れで、日本人たちは信用できないから自国政府の保護の下に入りたいと要求できるはずもない、
タイガーマンは大仰に両手を広げてみせた。
「朝鮮における列強のパワーバランスについて、一般人よりもよく知っているはずだ。
そもそも、最初に朝鮮半島に入ろうとしたのは、フランス。次に、私たちの国のアメリカ。
君の夫であるジャンは、フェロン神父が朝鮮半島から生還するときに一緒に上海に連れてこられた。
一八六八年にフェロン神父たちも参加した遠征隊は、アメリカ・フランスと朝鮮との条約の締結が目的とされている。
一八七六年の日本と朝鮮の条約以来、日本は朝鮮半島に入り込もうと必死になっている。しかし、日本のような弱小国家が朝鮮半島をとるべきできない。
弱小国家の日本が朝鮮半島を取れば、ロシアは朝鮮半島に不凍港を求めて南下してくる。ロシアに太平洋への入り口を与えると、私たちの貿易航路はめちゃくちゃにされてしまう。
結論として、朝鮮半島は、弱者の日本に渡すべきでない。それはロシアに渡すのと同じだ。あの地域は、国際平和のために、ロシアに対抗できる列強のアメリカとフランスによる共同管理が一番に望ましい」
タイガーマンは楽しそうだ。
国際政治ゲームが、好きなのだろう。
チャーリーはうんざりした。
「もう、やめましょう、そういう国際政治の話は」
「なぜ? 大切な話だ」
「おっしゃるとおり、大切な話です。だから日本人が聞いているこの場でに、そういう話をするのはアメリカの国益に反すると思います」
チャーリーは自分の背後の日本人メイドを指さした。
ふん、とタイガーマンは笑った。
「その可愛らしい日本人娘がどうしたのかね? たかがメイドだ。英語はわからんだろう? 仮に少し簡単な英語がわかったところで、下層階級にとってみれば、難しい国際政治の話など興味あるまい」
「どうして?」
「何だ?」
「どうして、日本政府が一般的なメイドを今の私につけていると思うのですか? ツルメは今の私たちの話の全てを理解できていますよ。彼女は日本政府の秘密調査官です」
「あ、ありえない!」
飛び上がらんばかりにタイガーマンは仰天した。
チャーリーは声をかけた。
「今の私たちの話、貴女はどう思った?」
すみません、とツルメは頭をさげた。
「私が英語をわかることは別に隠すつもりはありませんでした。
まるで盗み聞きするような形になったことは謝罪いたします。
公式な日本政府の調査官というわけではありませんけれども、私は日本国民の一人です。
日本国民として、あなた方の今のお話は、興味深いものでした。
朝鮮半島地域をめぐる列強の思惑について現役外交関係者の大変に率直な見解。その内容は政府関係者に伝えます」
タイガーマンは目を大きく見開いて唇を歪めた。
「確かに、日本人に聞かせるべきではない話を俺はしてしまった。こいつは失態だ。気分が悪くなった。今日のところは帰るよ」
チャーリーは嫌味を言ってやった。
「突然のご来訪に、大したおもてなしもできず、まことに申し訳なく思います」
「私に申し訳ないと思うのなら、今すぐ東京のアメリカ公館に移ることを真剣に考えてくれ。日本の密偵に囲まれる生活なんてやめろ」
と、タイガーマンは吐き捨てた。
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当番日ではないのに、通訳のカトーがやってきた
通訳のクサカの怪我の具合についての本人からの言づけ。
「少し足首をひねっただけですが、大事をとって、今日はクサカは早退したいとのことです。彼の代わりに私が五時まで仕事をします」
通訳たちは、チャーリーとは別に、自分たちの旅籠に滞在していて、夕食前に通訳達は自分の旅籠に戻る。
チャーリーのために日本政府が用意した出島内の一戸建ての部屋数は多くない。
一階は、護衛の仮眠室、応接間、居間、トイレ、キッチン。
二階は、主人の寝室、メイドたちの寝室、トイレ。
かなり手狭だ。
カトーが言うには、
「日本政府は七月二十九日に、貴女の長崎滞在の可能性について、連絡を受けました。
そして、日本政府は翌七月三十日から動き始め八月二日までに貴女の長崎滞在のための準備と手配を完了させています」
「もう少し、大きな家を用意できなかったのかしら?」
チャーリーは愚痴る。
今の住居には、通訳たちを寝泊りさせるスペースはない。三人の護衛のうちの一人も交代で外泊している。
カトーは指摘した。
「急ぎの仕事というので、ウエバヤシも、なかなか良い家が用意することができなかったのかもしれません」
厳しい日程。
自分でやれと言われれば絶対にお断りだ。
チャーリーは肩をすくめた。
「彼が最善を尽くしてくれたことには、私も心より感謝する。ただ、もう少し大きな家に移りたい」
先ほどのタイガーマンの提案が頭をよぎる。
東京のアメリカ公館に移ろうか?
すぐ考え直す。
東京のアメリカ公館の建物自体が大きくても意味はない。
彼女に与えられるのは小さな部屋だけになるだろう。
そして、毎日に口うるさく説得されるはず。不満があれば、アメリカ本国に移動するように、と。
彼らはチャーリーに早くアメリカ本国に戻ってもらいたい。
その目的のためには、最低の待遇を東京の公館で彼女に与えるのが合理的。チャーリー自身が不満を口にすれば成功。
海外公館職員の娘として、そういう陰湿なやり口をチャーリーは色々と見てきた。