第五十八話 金がものをいう世界
九月十三日。
チャーリーの東京行きの話が進んでいく。
今後のチャーリー・サイモン邸のスタッフたちはどうなるのだろう?
オオシマ・カベヤマ・イワタたちは、来年から日本の外務省警察に所属する。
ウチダは福岡に戻る。
クサガとカトーは東京に戻る。
たぶん、ツルメはクサガと一緒になるはず。
カネは長崎の地で暮らは続ける。
ナツはどうする?
父親に売られたナツの境遇にチャーリーは心を痛めた。
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朝の九時になると、長崎外国語学校の少年料理人ゲンゾウがやってきた(チャーリーには、彼が通訳であるように思えなかった)。
今日は一緒にパンづくりをする約束を四日前にしていた。
この時代のパンを膨らませるパン種(イースト菌)の正体は、アルコール製造の副産物である酒精酵母であった。
実際のところ、酒粕があれば自分の家庭でも酵母を手軽につくることができるのだけれども、パン職人の秘伝とされている状況であった。
ゲンゾウは感嘆した。
「酒粕ですか」
「そこまで喜んでもらえると、私もうれしい」
と、チャーリー。
酒粕から酵母をつくるのには一週間かかる。
酵母づくりをゲンゾウに体験させた後で、チャーリーは完成済みの酵母を出した。
「これは偶然にも作っていたの」
「偶然ですか?」
「貴方が来た時よりも前から、パンが食べたい気分だったから」
「はい」
ゲンゾウは驚いている。
その偶然がなければ、今日中にパンづくりをチャーリーは彼に教えることができなかっただろう。
焼きあがったパンを実食したゲンゾウの感想。
「甘い。僕が知っているパンと違います」
「アメリカのパンは甘いのよ」
と、チャーリー。
明治の十年代に日本にはほとんど存在しなかったアメリカ式のパンづくり。他国のパンづくりとくらべて、砂糖とバターを豊富に使う点に特色がある。
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ゲンゾウとの約束を果たしてから、午後にチャーリーは公兵員病院・長崎病院に向かった。通訳のゲンゾウ、護衛のイワタがついてきた。
東京行きの話をチャーリーは入院中のカトーに知らせなければならない。
カトーの通訳の仕事も今月で終わる。
チャーリーは昨日にウエバヤシから預かった今月までのカトーの給料を彼に手渡した。
カトーは笑った。
「今月の三日から私は病院で寝ていただけですよ」
「公傷よ」
と、チャーリー。
彼女のことをかばって彼は拳銃で撃たれた。外務省から委託中の危険な業務に関連した事件による負傷。軍の病院で戦傷者として彼は扱ってもらえたたために入院費は無料だった。
この時代の一般的な民間の会社であれば、せいぜい入院費が出るぐらいだったかもしれない。働いていない間の給料を全額もらうのは貪りすぎであるという考え方もありえる。
クサガは言った。
「奥さんをお守りする職務を果たした件の賞与と考えればいい」
「わかった」
と、カトー。
他にチャーリーはカトーと話したいことがあった。
必要な相談。
「私は東京に消え去ってしまうのだけれども、ナツのことはどうする?
聞くところによると、貴方がお金を出して彼女のことを助けたのは、彼女が父親から人買いに売られそうになったから。
あの子を長崎に残しておくのは、まずい。父親のもとに返すわけにはいかない。ナツの今後について、貴方は何か考えている?」
はい、とカトーは頷いた。
「あの子の今後のことはアンドーと一緒に話しました。
東京の全寮制の女子学校に五年間あの子を放り込むことにします。
それだけのチャンスを与えられて、自立できなければ、ナツの責任ですよ。
あと、こちらにも余裕があれば、卒業する頃に親代わりとして良縁を探してやるぐらいのことはしてやろうと思っています」
「寮生活ね」
悪くないとチャーリーは思った。
カトーは笑った。
「いや、アンドーが言うのですよ。
あいつは、貴女とツルメの写真を大量に売りさばいて、相当の現金をもって、貧民街を脱出しました。あの貧民街にいた子どもを誰か一人ぐらいは幸せにしてやりたい、と」
「わかる」
チャーリーの目にも涙がにじんだ。
戦争よりも貧困が多くの世界中の子どもたちを殺し続けている。
ナツの生まれ育った場所も酷いものだという話は、チャーリーも聞いている。ふざけた現実に一発ぐらいパンチを叩き込んでやりたい。その気持ちはわかる。
カトーは左手で拝むような仕草を見せた。
「もしも、よろしければ、奥さんからも、ナツの未来を拓くための寄付をお願いします」
寄付。
どこまでも金が力強くものをいう世界。
チャーリーは苦笑した。
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長崎病院からの帰り道、チャーリーたちは貧困の恐ろしさについて話しあった。
チャーリーは言った。
「貧しさは、いつの間にか、気がつかない間に、静かに音もなく、大切なものを全てすり潰してしまう」
「おっしゃるとおり」
深刻な表情でイワタは同意した。
語る。
「俺も警察官をやって連中を取り締まる側であったが、社会改良主義者の気持ちもわかりますな。
今の社会が酷すぎる。
目の前の貧しい者や困っている者を助けるための理屈がないから助けないというのならば、新しい理屈を社会にもたらすしかない」
「え?」
ゲンゾウにはわかりづらい話であろう。
イワタは苦笑した。
「危険な思想だぞ、もちろん。
自分でもよくわからない新しい理屈を現実のものにしようとすれば、よくわからないことが起きて、多くの血が流れてしまうことは当然にある」
「日本のパンの歴史」
https://pan-zukan.com/history/japan/
「イーストの軌跡」
https://www.oyc.co.jp/yeast/history.html
「酒粕で自家製酵母」
https://cookpad.com/recipe/79380




