第五十六話 東京行きの話
九月十二日。
昼に外務省職員の上林がチャーリー・サイモン邸にやってきた。
みんなに給料を配る。
「九月の分までということで計算している。というのも、九月で今回の君たちの任務は終わりだからだよ」
上林は言った。
今月中には、サイモン氏が日本に訪れて、サイモン夫人も合流する予定であった。
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上林は大島に言った。
「君たちは外務省警察に正式に採用されたが、勤務は一月からだ。色々と考えて行動してほしい」
「色々とは?」
「まず、この任務が終われば、朝鮮に向かう前に、故郷に戻って家族に別れの挨拶ぐらいしておいた方がいいと思う。
初めての朝鮮行きで不安だろうから、この長崎輸送局の世話になった方がいい。手続はこちらでしておく。
それぞれ故郷で挨拶をすませたら、また、長崎に戻って長崎輸送局で一月まで待機すること。後で一緒に長崎輸送局に顔通しもしておこう」
「今日ですか?」
「かまわないだろう?」
「仮眠室で寝ている壁山は起こせばよいのですが、岩田は休日でして、多分に旅籠におると思うのですが・・・」
上林は元木の方を見た。
「呼びに行ける?」
「もしも旅籠の場所がわかれば、呼びに行きますけれども」
元木は自宅からチャーリー・サイモン邸に通っている。問題の旅籠を利用したことがない。名前も場所もわからない。
大島は慌てて言う。
「ちょっと俺がひとっぱしり行って呼んできます」
上林は鶴女に言う。
「君については引き続き、サイモン夫人の通詞をお願いしたい。君とサイモン夫人の組み合わせは、海外の記者の間でも良い評判になっている。東京でもサイモン夫人との同行を願う」
「東京ですか?」
「今月の二十八日に、花房公使は東京で凱旋祝いの宴に出席する。
その祝いの場で、サイモン氏とサイモン夫人に感動の再会をしていただくことになっている。アメリカの外交関係者も呼ぶ」
日本の外務省は、列強の保障による朝鮮半島の永世中立地帯化を目指し、アメリカを巻き込んで国際会議を開こうと画策していた。
兼がたずねた。
「私はどうなるのですか?」
「君は雇い止めだ。これまでありがとう。感謝する。甘利父娘の愛国的協力は我々も十分に承知している。松方財務卿にも甘利の名は伝わるはず」
と、上林。
地方銀行の設立の認可などの行政上の優遇の可能性をちらつかせた。
「ありがとうございます」
と、兼。
あのう、と鶴女が言う。
「今年の夏に私がサイモン夫人の通詞をつとめたことで、政府雇いの女性通詞の道は開けそうですか?」
「政府雇いの女性通詞?」
「政府の男女別学の方針の決まる前に、私どもの母校、長崎外国語学校に入学してしまった女子学生たちがおります。彼女たちの中には、本気で政府雇いの女子通詞の道を目指した者も割といますのよ。
先日、そういう女子の後輩たちから、もしも私に機会があれば、外務省の人にたずねてほしいと言われていていたのです。
男性通詞にはない女性通詞の独自の良さが認められ、政府雇いの女子通詞の職業門戸が開かれる可能性はないか、と」
「可能性はある」
と、上林はあっさり言った。
びっくりして鶴女は目を見開く。
「本当ですか?」
上林は言う。
「東京で建設される新しい迎賓館では、女性通詞も使ってみてもよいのでははないか、と井上外務卿閣下がおっしゃっている」
そうだ、と上林は久佐賀に向き直った。
「井上外務卿閣下が久佐賀の顔を見てみたいとおっしゃっている。
藤田さんがお前のことを以前から推薦しているし、長崎の新地での戦いで見事な指揮を取ってくれた、と本省でも評判になっている。お前もサイモン夫人と同行するかたちで東京に戻ってもらいたい」
「そんな・・・」
「どうした?」
「加藤はどうなるのですかね? 俺が奴を東京から長崎に引っ張ってきたのですが。あいつは清国の密偵に銃で肩を撃たれて、長崎の病院で入院中です。
加藤のことを長崎の公兵員病院に残したまま俺一人だけ東京に帰るというのは、どうも義理が立たない気がいたします」
上林は笑った。
「どうせ加藤の退院は来月以降だろう? 今月中に外務卿閣下と東京でお会いして、彼が退院する頃に長崎に戻って、彼を東京に連れ帰ればいい。それに、どうせ長崎から東京まで直通の定期便が出ている」
女学生の言葉遣いに対する社会的意識の変化
https://cir.nii.ac.jp/crid/1050564287559986048
人称代名詞「僕」「君」の変遷
https://kgwu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=248&item_no=1&page_id=13&block_id=21




