第五十五話 うるさい卒業生
九月十一日。
昼になっても五人目の学生が来ないということに、久佐賀も驚愕した。
長崎外国語学校の在校生。
卒業生の中から選ぼうとすると、公務へのツテを求める者が多いので、募集が殺到しすぎてしまう。
多数の卒業生にチャンスを与えようとすれば、膨大な選考時間が必要になる。
サイモン夫人の長崎滞在期間は残りわずかしかない。
早く決めたかった。
在校生の直前の学期末考査の成績上位者を五名。
チャーリー・サイモン邸には鶴女と兼がいた。昨年まで鶴女が、一昨年まで兼が、同じ学校に在籍していた。
在校生であれば、鶴女と兼が知っている可能性は高い。悪意のある偽者が紛れ込もうとしても簡単にチェックできる。
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「[[rb:千須和文則 > ちすわふみのり]]」
その名前を聞くなり、兼は断言した。
「逃げたのですよ、文則は」
「え?」
「私は彼のことを存じております」
今日にチャーリー・サイモン邸に来る予定であった学生の名前は、千須和文則と言った。
兼は言う。
「一昨年に私はあの学校の卒業生の総代をつとめさせていただきました。二年下の文則のことを覚えています。
あいつは学業こそ優秀でしたが、肝の小さな男で、他人から叱られるのを嫌っていました。そして、私に叱られることを恐れて、私にも近づかないようにしていました」
そして、
「ねえ、鶴女?」
と同意をもとめる。
鶴女の意見。
「文則くんならば、逃げてしまうかも?
四日前に病院に行ったとき、元木くんのことを、久佐賀くんとマスター加藤と岩田さんが相当に手厳しくいじめたって聞いてる」
「いじめとらん。技術的な注意と仕事の心得みたいな話をしただけだぞ」
久佐賀は抗議した。
でも、と鶴女は言う。
「元木くん本人がどのように受け取ったか、わからない。
もしも元木くんが『サイモン夫人のところに行ったらいじめられた』と千須和くんに言ったとしたら、千須和くんはもうダメだと思う」
「そんな馬鹿な」
と、久佐賀。
にわかに信じられなかった。
済物浦条約における花房公使の外交的勝利に沸き返るこの時期の日本において、花房公使が壬午軍乱で救出したサイモン夫人のことをお世話するということは、おそろしく名誉だった。
それを「叱られるのが怖い」という理由で逃げ出せば、どうなるものか?
彼個人だけではなく、長崎外国語学校の評判に関わってくる。
在校生徒や卒業生にとって迷惑な恥さらし。
二年前の同校の卒業生の総代であったという兼は、怖い顔になっていた。
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兼に引っ張られて、久佐賀は長崎外国語学校の校長室にまで乗り込んだ。
高飛車に兼は言い放った。
「校長先生、これは学校の責任です」
二年前の卒業生総代。
「千須和くんのような腰抜けを政府の御用に選ぶなんて、どうかしています。サイモン夫人は今の日本にとって大切なお客さまです。その世話には信用をおける生徒を選ぶべきです」
校長は困惑していた。
「しかし、まだ千須和くんが逃げたと決まったわけではない。何か事故があったのかもしれん」
兼は怖い笑みを浮かべた。
「この学校に二年前まで私は在籍しておりました、校長先生。
千須和くんのことは知っています。
もしも、千須和くんが逃げていた場合には、千須和くんみたいな生徒を選んだ先生方の責任が問われねばなりますまい」
いや、と校長は首を横に振った。
「選んだと言われても困る。直前の学期末考査の成績上位者を五名というのは、そちらの久佐賀くんから言われたことだ」
兼は肩をすくめた。
「絶対に一番から五番までという指定はありましたか? たとえ指定があったとしても、学校の名誉にかかわる不適格者は外すのは当然ですね、校長先生?」
「そう言えば、家庭の事情などある者は飛ばせと言われたかもしれん・・・」
がっくり校長はうなだれた。
「チャーリー・サイモン邸に入った元木鉄志くん、荻原淳一郎くんの両名の呼び出しをよろしくお願いします、校長先生。彼らから千須和くんに彼らが何を話したか聴き取ります。あと、千須和文則くんが逃げたときの立ち回りに心当たりのありそうな者として━━」
顎に手をやって兼は考え込んだ。
「誰が良かやろ?」
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千須和文則が逃げた。
サイモン夫人が難渋している。
長崎外国語学校の生徒たちの間にニュースが広まると、千須和の立ち回りに心当たりがある者たちは、校舎の外に飛び出していった。
ものの一時間もしない間に、生徒たちの手で千須和は捕獲されて校長室まで引っ立てられてきた。
生徒たちに殴りつけられた様子で、口の端が切れて血を流していた。
校長室に入ってきた千須和は震えながら土下座をした。
「すみません、すみません。僕は怖かったのです。サイモン夫人のところは、怖いひとたちばかりだと元木くんと荻原くんが言うから」
「だから言うて、逃げるん?」
兼は怒気を発した。
久佐賀は制止した。
「とりあえず事故がなくてよかった」
事故の方が心配だった。千須和の無事な姿を見て久佐賀は安堵した。
そして、言った。
「チャーリー・サイモン邸の者たちは、そんなに怖くないよな、元木、荻原?」
すみません、と元木は頭を下げた。
「その、僕は長崎病院で加藤さんに会ったから、サイモン夫人の通訳というのは、いざとなれば敵の銃弾の前にも身を投げだすような覚悟が必要だとか、千須和に言いました」
「もう清国人の襲撃はないぞ。あちらさんと話はついた。そこまで危険な任務ならば、学生の諸君に頼みはしない。安心しろ」
と、久佐賀。
続けて、荻原も言う。
「大島さんから言われたことを僕も千須和に話しました。久佐賀さんが怒ったら火の玉がはじけたように暴れるから注意しろ、と」
「大げさじゃ」
「アメリカ人の大男の顎を蹴り割ったとか」
「そのような話ばかりされると、俺が随分な乱暴者であるかのように思われて、こちらも迷惑だ」
千須和を捕まえてきた生徒たちが校長先生に口々にたずねた。
「こいつの処分はどうします?」
「学校の恥です」
「退学ですよね、当然に?」
校長先生は言う。
「いや、今回は幸いにして大事に至らなかった。千須和に事情をもっと聴く必要があるし、終わったら自宅謹慎ということにしよう」
「こいつ逃げたんですよ」
「学校の名誉を汚す奴をかばうんですか?」
久佐賀は口を挟んだ。
「そうではない。大事にしないということだ。大事にすれば、かえって、この学校に恥になる。
サイモン夫人も騒ぎが大きくなることを決して望んでいない。
通詞がご入用なのは、あと二週間ぐらいだけだ。その間に千須和くんは風邪をひいたということで家で休んでもらう。
早急に、代理の生徒を校長先生が選んでもらいたい。そして、できるだけ話を外に広めず、この件を終わらせてほしい」
千須和は平伏する。
「ありがとうございます。ご恩は一生忘れません」




