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第五十二話 母校における歓迎

 九月六日。

 新しい通詞を求めるべく、長崎外国語学校に交渉に出かけたいと久佐賀はサイモン夫人に申し出た。

 サイモン夫人は了承してくれた。

 チャーリー・サイモン邸には久佐賀の他に、鶴女と兼と岩田という三人が通訳を務めることができる。

 とはいえ、この時代には、女性に社会的な役割を認めない立場の者もいる。そういう人々を相手にするには、鶴女と兼は具合が悪い。

 男である岩田は、別に護衛としての仕事もあるので、ヒマな時にしかお願いすることはできない(この日は岩田はヒマをしていた)。

 久佐賀が通詞の人数を増やしたい理由は十分にあった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 チャーリー・サイモン邸の二階にあがって、久佐賀は声をかける。

「鶴女、今日は非番だな。

 お前の母校の長崎外国語学校に案内してくれ。新しい通詞を用意するように、俺が交渉してみようと思う」

「久佐賀くんが?」

 部屋から鶴女は廊下に出てくる。

「まだ加藤が動けないので、男の通詞がもう一人ほしい」

 と、久佐賀。

 隣の部屋から呼ばれてもいないのに兼が出てくる。

「 長崎外国語学校でしたら私にとっても母校です。私も行きましょうか?」

「いらん」

 久佐賀は断った。

 理由として、

「お前にはメイドとしての仕事があるだろ?」

 と指摘する。

「メイドとしての下働きについての私の能力は、奥さまだって、あてにしておられませんわ」

 兼は口元に笑みを浮かべる。

「私がいなくとも夏ちゃんが頑張ってくれるでしょう。あの子は小さな子どもなのに、本当によく働く。感心感心。それに、サイモン夫人ご自身も下働きの仕事をずいぶん得意となされておられます」

 馬鹿め、と久佐賀はあきれた。

「奥さまがご自身で下働きするようなことをあてにするような横着なメイドがどこにおる? 

 家事についてわからんことがあれば、夏ちゃんに教わりなさい。お前もこの家にメイドとして雇われておるのだぞ」

 兼の反論。

「ひとには誰にも得手不得手があるのです。不得手を克服しようとばかりしていてはキリがありません。自分の得手を伸ばし、不得手なことは他の人に丸投げにする方がよいことも多いですよ」

 詭弁。

 誰も全ての不得手を克服しろとまで言ってはいない。小さな子でもやれる仕事をしっかりやれと久佐賀は言っているだけだ。

 過度の一般化による論点のすり替え。

 そんな定典型的な詭弁に引っ掛かるのならば引っ掛かる側の問題。

 もしも怒れば、自分が引っ掛かる可能性のある馬鹿と認めるに等しい。

 兼も本気ではない。

 ちょっとした言葉のお遊びのつもりか。

 久佐賀は苦笑した。

「とにかく、俺は鶴女と行く。お前はメイドの仕事に専念しろ」

「わかりました」

 兼は声を立てて笑った。

「では、私は洗濯物を干してきますね。今日はとても良い天気ですからね」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 秋晴れ。

 雲ひとつない晴天の空の下を、久佐賀は鶴女と一緒に歩いた。

 さっきのことを言わずにいられない。

「兼な、あれは、どういう女だね?」

「お兼さんですね?」

「通詞の学校でお前の先輩だったと聞いておるが」

 奇妙な女だと久佐賀は思う。

 鶴女は言う。

「甘利の大店の跡取り娘。器量よしで知恵もまわる。学生の頃からあんな感じ。お兼さんは、いつも、皆の中心にいる」

「だろうな」

 久佐賀にもその姿は想像がつく。

 少し考え込んでから、鶴女は言葉をつづけた。

「お兼さんは色々と恵まれすぎたから、あの人はあの人で大変みたい。

 周囲の『金があるから、容姿がよいから、学問があるから』というやっかみの声が多い。

 それに対して、自分の与えられたものを全て使いこなしつつ、『金があっても、容姿がよくても、学問があっても、凡百にできまい』と、皆の想像のつかないことをやってみせる。

 お兼さんの努力は並大抵のものではないよ。何か、いつも、追い詰められているという感じがする。今も昔も」

「追い詰められている、か」

 久佐賀はうなった。

 鶴女の観察眼。

「お兼さんは、世間と戦わない。というか、戦えない?

 だって、生まれた時から、世間に勝ち組として認められているから、すでに終わっている勝負をそれ以上に戦えない。代わりに、もっと面倒なものと戦っている」

「そいつは何だ?」

 久佐賀がたずねると、鶴女は複雑な表情をした。

「持たざる者の妬み嫉み」

 確かに、それは厄介な敵であろう。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 五代鶴女の母校である長崎外国語学校。

 長崎外国語学校の源流は、幕末期の安政五年(一八五八年)、英語通詞の速成のため設置された英語伝習所である。

 この機関は、洋学所から語学所から済美館から広運館と名前を変え続ける

 明治五年(一八七二年)には学制発布にともない第六大学区第一番中学となった。明治七年(一八七四年)には、長崎外国語学校となる。さらに、長崎英語学校となる。

 明治十年(一八七七年)から明治十一年(一八七八年)にかけて、経営が国から長崎県に移り、県立長崎中学となる。

 明治十五年七月(一八八二年)に名前を長崎外国語学校に戻す。


 明治九年(一八七六年)に入学した五岳鶴女にとっては、彼女の母校は長崎英語学校である。

 明治十一年(一八七八年)には、長崎準中学校からのグループが合流し、長崎中学校になる。

 鶴女が自分の母校のことを長崎中学校と呼ばず、長崎英語学校と呼ぶところからして、当時に生徒同士のグループの対立が多少はあった様子。

  

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 教室の窓から外をぼんやり眺めていた一人の女子学生が校門から入ってくる五岳鶴女の姿を認めた。

「あれ、鶴女さんだ!」

 この時期に、長崎で評判のチャーリー・サイモン夫人が新しい通詞を求めて長崎外国語学校と交渉しているということは、生徒たちの間で評判になっていた。

 現在に朝鮮半島に渡っている井上毅全権公使からも「私の同郷の後輩でもある久佐賀という男に可及的に協力せよ」と長崎外国語学校に直接の申し入れがあった。

 

 五岳鶴女。

 去年に母校を卒業したばかりの先輩が、全国的に評判になる活動をしているだけでも、生徒たちにとっては嬉しい。。

 しかも、その活動は、花房公使が朝鮮から救出したサイモン夫人を世話するの女性通詞である。仁午軍乱時の日本の立場の主張を海外に宣伝することを手伝う名誉ある愛国的活動。

 明治の常識からすれば、道徳上に非の打ちどころがない。

 先月の二十七日、新地での銃撃戦。

 今月の三日、八幡町演劇場を借り切っての演説会。

 そういった大きな大きな事件の他にも、大新聞や地元の新聞による報道があり、五岳鶴女の写真も長崎市内に出まわっていた。


 昨年に鶴女を教えていた教師が、

「諸君らは自習せよ」

 と言い捨てて教室の外に飛び出した。

 その状況で十代の生徒たちが机にしがみついているのは難しかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 久佐賀と鶴女が歩いて校舎に入る前に、飛び出してきた生徒たちに取り囲まれた。

「鶴女さん!」

「五岳先輩、お久しぶりです」

「僕のこと、覚えています?」

「ご活躍は新聞で拝見しております」

 このあたりは普通。

「袴姿以外のところを初めて見ました。素敵なお召し物ですね」

 明治の学生は、和服では椅子に座りづらいということで、女子も袴姿であった。この日の五岳鶴女は振り袖姿。

「三日の八幡町演劇場の演説会、俺も行きました」

「写真ば買いましたよ」

「鶴女先輩のかんかんのう、眼福」

「衣装もきちんと用意していて、えらか」

「お前ら、学生が演説会に出入りするのは、集会条例違反ぞ」

「あれは演説会やった?」

「お兼さんとサイモン夫人の演ったんは、冒険活劇講談ばい」

「見ぎゃ行かんじゃった奴はバカ」

「ハリセン振り回すお兼さん、フリーダム暴発して、ばり笑うた」

「学校におった頃と変わらんね、あの人。無理やりお祭り騒ぎに持ち込んでいくもん」

 この場にいない兼のことも話題になった。

「鶴女さん、お帰りなさい」

「頑張ってください。応援しています」

 鶴女も嬉しそうな笑顔を浮かべる。

「ありがとう。みんなも元気にしていた?」

 生徒の一人が言う。

「私たち、鶴女さんのことが心配でした」

 鶴女も答える。

「うん。そうよね。私にも色々とあったものね。今、もう私は大丈夫だからさ」


 大勢に囲まれ、鶴女はもみくちゃにされながら、昔馴染みの後輩の顔を見つけると、親しげに言葉を交わす。

 久佐賀は不思議な感慨に打たれた。

 熊本洋学校が廃校になるアクシデントがあって離れ離れになり、今年の夏に長崎で再会するまで、久佐賀は鶴女と一度も顔を合わせていなかった。

 その間にも、鶴女は鶴女であり、この学校で、鶴女として鶴女らしく、他の生徒たちと仲良く楽しい学生生活を送っていた。

 当然と言えば当然のこと。


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