第五十一話 チャーリー・サイモン邸への帰還
九月五日。
サイモン夫人の希望で甘利家の屋敷から久佐賀たちはチャーリー・サイモン邸に戻ることになった。
彼女の夫、サイモン氏の生存が確認され、長崎に日本の外務省ルートでやってくるという話になったからだ。
となれば、日本の外務省が用意してくれたチャーリー・サイモン邸にサイモン氏は向かうだろう。
また、そういう功利の問題とは別に、
「日本の外務省のお世話になるのだから、日本の外務省にプレゼントしてもらった家を私がきっちり大切に使っているところを見せる必要がある」
と、サイモン夫人は礼儀の問題を口にした。
個人主義の芽生えた社会では、洋の東西を問わず、ここでサイモン夫人の指摘するような礼儀が生まれる。人を人として思うことを大切にする。
日本の太平記の「北野通夜物語」においては、当時の最下級の武士である地下人が最上級の武士である執権に対して「評定所に集えば身分の上下なし(法の下の平等)」と「物の道理」に基づいて、所領争いの裁判で勝利する。
そのような個人主義的な日本の歴史物語を血肉として育ったおかげで、日本人である久佐賀もサイモン夫人のいう礼儀を理解することができた。
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チャーリー・サイモン邸に戻ることに対して、内田・大島・壁山・岩田という四人の護衛たちは異論がなかった。
内田は笑う。
「もう十分に休みを取ったな。八月二十六日から九月四日まで、ちょうど十日間、甘利の屋敷におったという計算になる」
大島は苦笑した。
「あっという間に日にちが過ぎてしまいましたな。
どんなに長くなっても、一か月もすれば、サイモン氏は長崎まで奥さんと会いにやってきます。大して遠い話ではありません。
ずっと、我々がこの屋敷に世話になっておったのでは、サイモン氏に対して我々が奥さんをお守りしていたというような顔をすることが難しいですな」
待て、と岩田は言った。
「俺なんぞ、チャーリー・サイモン邸に三日も詰めていない。
先月の二十七日のドンパチが終わった後には、この屋敷でうまいものを食べて酒をのんで、ずっと、のんびりした楽な生活を送っていたような気がする。
サイモン氏が今日明日にも日本に来るようなことがあったら困るな。俺も、もう少し仕事をしたという実績が欲しい」
内田は肩をすくめた。
「そのあたりは野村先生や浩太郎と話すしかあるまい」
「どういうことですが?」
「奥さんの人気がとんでもないことになりすぎている。今月の一昨日の八幡町演劇場でもハコの中に客が入りきらんで文句が出た。
演説会をやれば、わしら護衛の出番もあるのだが、奥さんが演説会をするためのハコを長崎で用意しろというのが大変じゃ」
護衛たちの話を聞いていた久佐賀が口をはさんだ。
「外務省の上林を通じて、政府系の東京日日新聞の方から、横浜か東京でやるのならば信頼できる興行師を紹介したいと言ってきております」
「興行師まで必要かね?」
大島は声を立てて笑った。
「もはや政治や社会を論じる演説会でも何でもないな。やってくる客の方は奥さんや鶴女やお兼の顔だけ拝めば満足して帰るのだろう」
こいつは奥さんから鶴女が聞いたという話なのですが、と断りを入れつつ、ずっと黙っていた壁山が口を開いた。
「奥さんのご主人の手紙にあった水島義というおひとは公使館雇で、本当は陸軍に入りたかったそうです。英語に堪能で剣の腕も抜群。
それでも会津の出身ということで陸軍に入ることが許されなかったそうです。
例の仁川の戦いのとき、陸軍の水野大尉と約束したというのですよ。今夜に自分は鮮やかな戦いぶりを見せるから、もしも生き残ることができれば陸軍へ仕官させてくれ、と」
壁山は続けた。
「今のご時世で藩閥の恩典に預かることのできないものが、武士としての誇りをまともに持てるような職業など滅多にありません。
そう思いましたら、釜山の外務省警察の職を得ることができたのは、ありがたい。
こいつは奥さんのおかげがあってこそなので、ご主人のサイモン氏がお迎えにくるまで、しっかり奥さんのことをお守りしたい、と思います」
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陸軍に提出された「水野大尉筆記朝鮮事変ノ概況」によれば、
━━今夜はまさに衆とは異なる働きをなすべし。僕が先鋒となって血路を開こう。後山に突撃して間道から楊花津に出るのに難しくはない。幸いにして生還したなら陸軍で僕を使用せよ━━
と水島義は述べたという。
それに対して、水野大尉は、
━━先鋒は普通の者でも出来る。殿は古の昔から大剛の者でなければ勤まらない━━
と答える。
そして、水野大尉は自らを先鋒として敵に切り込んでいった。
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チャーリー・サイモン邸に戻ることに対して、鶴女・夏・兼という三人のメイドたちの反応は分かれた。
一番よろこんだのは夏である。
「今日から、奥さんのお屋敷に戻って、また、メイドの仕事ば励むばい」
甘利の屋敷では、誰からも何かをする役割を与えられなかった。安楽な生活は、夏にとって、居心地のよさだけでなく、それを上回る不安と恐怖を与えていた。
鶴女は納得の様子。
「さすがに、このお屋敷でごろごろしているだけで、お国から沢山のお給金を毎月いただけるなんておかしいこと」
兼は露骨に不満顔だった。
「みんな、ジャン・サイモンさんが長崎にいらっしゃるまで、うちの屋敷で、ゆっくり楽にしていればいいのに。
メイドみたいな下働きの仕事なんて、私、やり慣れないのよ。向こうに戻ったら、また、メイドの仕事? 悪い予感しかしない」
銀のスプーンを口にくわえて生まれてきたお嬢さまからすれば、家事を自分がやる必要は感じない。苦手なところよりも得意なところを見てほしい。
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九月六日。
チャーリー・サイモン邸にみんなが五日に戻ったことについて、久佐賀は公兵員病院・長崎病院に入院している加藤に報告にいった。
久佐賀と加藤という二人の通詞。
一人が倒れていると一人の休日が一切に消えてしまう。
久佐賀は言う。
「お前も早く治せ」
「君も甘利のところの屋敷で余裕たっぷりに休んでいたのだから、しばらく、君、休日なしでも大丈夫やで」
と、病床の加藤。
しかしよ、と久佐賀は言った。
「ついに長崎外国語学校は誰ひとり通詞をこちらに寄越さなかったな。けしからん」
もう別にかまへんわ、と加藤は言う。
「サイモン氏の無事は確認された。外務省警察がついていて、花房公使の軍隊と合流するゆうんやったら、安心きわまりない。一か月もせんうちに長崎に来よるで。それで、僕らの仕事はおしまい。
今さら新しい通詞はいらんよ。
それに、鶴女もお兼さんも岩田さんも、通詞として雇われた僕らよりも英語の会話がうまいし、どうしても久佐賀くんが休みたいときには、そのあたりのことを言うて、奥さんと話をするべきやな」




