第三十九話 名誉の負傷
八月二十七日。
その夜、公兵員病院・長崎病院に久佐賀は泊まらせてもらった。
入院棟内の待合や食事等に使用できる休息室に久佐賀は座っていた。
一人の患者がやってきた。
「失礼する」
久佐賀が顔を上げると、そこには見知った男の顔があった。
花房公使の朝鮮脱出行を共にした外務省警察三等巡査・横山貞夫。仁川における激闘で多くの手傷を負いつつ、彼は日本に生還して長崎病院に入院していた。
「暗い顔をするな、久佐賀くん。みんな、本当は君の話を聞きたがっとるぞ。入院中は退屈だから、な。みんな、君が暗い顔をしているから遠慮しとるよ」
本日の久佐賀は、サイモン夫人の暗殺という敵性国家の計画をぎりぎりで阻止するキーマンになった。
明治日本の感覚では、愛国美談。
自慢げに語る気分に久佐賀はなれなかった。
「すみません」
横山は察した。
「友人のことが心配かね? お国のための名誉の負傷ではないか?」
お国のため。
加藤の鎖骨に食い込んだ弾丸の摘出手術は無事に終わった。
弾丸が逸れて喉元に命中するようなことがあれば死んでいただろう。
そんなに個人の生命が軽くてよいのか?
久佐賀は言った。
「同郷の先輩から今回のサイモン夫人の世話を俺が頼まれたとき、さすがに一人ではやれんと思うて、俺が加藤に声をかけたのです。俺が加藤を余計な危険に巻きこんでしまいました」
横山は言った。
「君は加藤くんのことを一人の男として信じたのだろう、久佐賀くん?
それで十分だろう。一人の男として信じてもらえれば一人の男として応える。死んでもかまわん。そういうことが人生に一度もなければ、男なんて空しすぎるぞ」
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八月二十八日。
公兵員病院・長崎病院の朝十時からの面会時間に久佐賀は加藤の病室に訪れた。
病室には、加藤の友人という資格で、鹿児島新聞社の社員になったという安藤も入り込んできていた。
カメラまでは持ち込んでいないが、安藤はメモと筆記用具を用意していた。単なる見舞いというものでなく、昨日の事件についての取材も兼ねている。
「ほんま、軽い気持ちで、久佐賀くんの話につきあって、長崎までこのこついていったら、えらい名誉の負傷を負わされてしもうた。何がお国のためじゃ、ボケ?」
加藤は、傷の痛みを感じさせることなく、明るく笑う。
「今回のことは大きな貸しやで。いつか絶対に返してもらうで」
ほっとした久佐賀は軽口を叩いた。
「そこまで元気なら大丈夫そうだな。さっさと直せ。ここは一つ借りておくわい」
しかし、と加藤は疑問を発する。
「どうして、清国側はわざわざ日本の長崎にまで手を伸ばして、昨日みたいな大仕掛けまで組んで、サイモン夫人の生命を狙うんや? そこまで、あの人に何か重要なものがあるのか?」
「それは・・・」
言い淀んだ久佐賀の代わりに、安藤が横から口をはさんできた。
「奥さんの旦那であるサイモン氏が持っていたという書類に何か関係があるというのが、野村社長のご意見です」
「書類と関係?」
「今回の朝鮮のクーデターの黒幕は、現在の朝鮮の国王の父親である大院君です。仁川の朝鮮兵士たちの裏切りも大院君の命令があったと考えるしかありません。
大院君は、今回の朝鮮のクーデターについて、事前に宗主国である清国の高官の誰かから許可を取るぐらいのことはしたはず。
おそらく、サイモン夫人の旦那さんであるサイモン氏は、その証拠となる書類を手に入れてしまったのでしょう」
「とすれば、サイモン氏を狙うのはわかる。では、なぜ、サイモン夫人を狙う?」
「おそらく、サイモン氏の死亡を向こうさんはまだ確認できてない、ということなのでしょう━━それを言ったら、きっとサイモン夫人は大喜びすると思います。
サイモン夫人が愛国的日本人に殺されたという話になれば、日本にとって有利な材料となりかねない書類をサイモン氏は引っ込めるかもしれない。
そうでなくても、事件の衝撃で、隠れているサイモン氏が表に出てきてくれたら、サイモン氏本人も仕留めることができます」
なるほど、と久佐賀はうなった。
「そういうことならば、昨日の件も、向こうにとって完全な敗北でもなかったというわけか。
昨日の暗殺未遂事件が国際的に報道されれば、動揺したサイモン氏が安全な隠れ家から出てくる可能性もある」
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安藤は言う。
「とりあえず記事は、サイモン夫人の生命を守るために名誉の負傷を負った東京の学生、加藤三太郎くんのことを重点的にほめる方向で」
やめろや、と加藤は言った。
「僕はしょせん置屋の三男坊やで。皆さんの英雄になっていい血筋やないよ」
「仕方ありませんよ。あなたは英雄です」
「アホ抜かせ」
大真面目な表情になって安藤は言う。
「昨日に君はそれだけのことをやってしまった。今回のことが報道されれば、これから君のところに養子縁組の話や婿入り婚の縁談が大量に殺到する」
「馬鹿馬鹿しい」
加藤の心理は複雑であろう。
安藤は続けた。
「今回の君は命がけの大活躍だ。みんなが拍手喝采して、君を祭り上げてくれる。君のことを担ぎ上げて一旗揚げようとする連中もたくさん出てくる。君が望むと望まないとにかかわらず、だ」
加藤は言った。
「切ないな。確かに、僕は福沢先生に功利主義を学んで、何よりも金力がまず大切やと思っているよ。
しかし、わけのわからん連中がもってきよる金の流れをコントロールしきる自信が今の僕にはない。そんなん僕の金力と言えん」
こいつはまた、と安藤は笑った。
「ずいぶん哲学的なことを言うものですな、加藤くん。これから少しずつ自分の器を大きくしていけばよいのでは?」
「うるさいわ」
と、加藤。
うるさくもなります、と安藤は言った。
「僕には、君に今回の件で英雄になってもらいたい個人的な願いがあります」
「何やねん?」
「夏ちゃんのことですよ。君も国民的英雄になれば、夏ちゃんのこと、今回の件がすんだ後に、実家の置屋に送り込むような阿漕な真似はできなくなるでしょう?」
「ああ・・・」
視線をぼんやり加藤は宙に泳がせた。
安藤は言う。
「あの貧乏長屋で暮らしていた軽薄なカメラマンはね、あそこの子供たちの中で誰かひとりぐらいは助けてやりたい」
久佐賀は尋ねた。
「気持ちはわからんでもないが、どうするつもりだ?」
具体的な答え。
「夏ちゃんは東京の全寮制の女学校に五年ぐらい放り込んでやればいいでしょう。
二年分か三年分ぐらいの金ならば前払いします。サイモン夫人と鶴女さんの写真のおかげで随分あぶく銭が今あります。
残りの費用は、加藤くんの金力で何とか。
サイモン夫人のところの小さなメイドとして名前を売っておいて、五年もたって娘ごろになった時に、良縁を世話してやる。それが一番良いやり方ではないでしょうか?」
安藤もこの時代と闘っている。
貧乏長屋にいた美津が家出して、残された家族が一家心中をした。
事件は安藤の心に傷を残している。助けられるものならば助けてやりたかった。
自分の痛みを癒すために、似たような状況の夏のことを助ける。
「考えとく」
加藤は言った。
「確かに、ほんまに今回のことで世間さまから僕がえらいもん扱いされるようになるやもしれん。
そんなんやったら、夏ちゃんのことも世間体のよいかたちで身が立つように仕置した方が、長い目で見て僕にとって利益になるのやろ」




