第三十五話 迷いなく戦い抜くために
八月二十七日。
前日の八時から、久佐賀と内田は、今日のサイモン夫人の警護の【前線基地】とも呼ぶべき家、例の中華料理屋と川を挟んで向かいの家に詰めていた。
朝の九時、小銃を抱えた陸軍兵士たち五人が長崎輸送所から到着した。
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明治十五年、日本は西南の役の後のインフレ傾向がまだ続いていた。松方財務卿がインフレ退治のために設立した日本銀行が営業を開始するのは、この年の十月十日だった。
往時の歴史を鑑みるに、スタグフレーションに至らなくても、経済構造を変化させるインフレは利益分配の問題を引き起こす。
利益分配の問題がこじれれば、社会内部において対立紛争が生じる。
国内の対立紛争をどのように解決するかを論じるのか、それは法学上の立法主権の課題である。
立法主権による紛争解決の手段は、【実力】か【権威】か?
なお、【実力】は【多数者の服従の自発性】を要件とする【権威】の裏付けのある【権力】と、その裏付けのない【暴力】に分けられるものとする。
この立法主権の機能の問題は、法の要件として、【強制力】と【多数者の服従の自発性】がともに求められることとパラレルである。
法が【強制力】を要件としないのであれば、法と道徳は区別しえない。そして、【多数者の服従の自発性】を要件としないのならば、【権力】と【暴力】の区別はなくなってしまう。いずれの事態も避けるべきかと思料する。
そこで、法の要件として、【強制力】と【多数者の服従の自発性】がともに求められると解する。
かかる法の存在を前提にする立法主権は、紛争解決の手段として、【実力】も【権威】も用いることになる。
さて、立法主権の【権威】が社会的に存在するには、【多数者の服従の自発性】を要件とする。その自発性をもたらすものは、社会で広く共有可能な【言葉】である。
そのような【言葉】がなければ、紛争対立解決の手段としては【暴力】しか残されない。
安易な【暴力】の使用による破滅的な結果を回避するべく、井上毅や小野梓といった者たちは、過去の日本社会の歴史から、そのような【言葉】を拾い上げる地道な作業を志した。
国内統合のための【言葉】が不足していることは、対外戦争の大きな契機になる。
(一)内戦を回避するための緊急避難措置をとる。
例:国共内戦終結後に国民党残党を朝鮮戦争に送り込んですり潰した毛沢東。
(二)自国政府を戦争に巻き込んで敵国の力を導入することで自国政府を打倒する。
例:コミンテルンの指示を受けた尾崎秀実。
(三)わかりやすい勝利の結果でもって支配者の信用を高める。
例:老臣たちに実力をアピールしようとした武田勝頼。
(四)領土獲得によって国内の利害調整を容易化する。
例:家臣の次男・三男を親衛隊として外征した織田信長。
(五)新天地に理想社会を建設して対話ないし統合ための【言葉】をつくる。
例:朝鮮の独立党を支援した大井憲太郎。
他にも様々な手法をもって、対話のための【言葉】が不足した者たちが外に活路を見出そうとする。
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内部の対話ないし統合のための【言葉】が足りない状況で、外部に活路を見出そうとする。
それは国家も個人も同じであろう
わかりやすい力を求める。
暴力とモテ自慢と流行。
いつの時代でも、若者たちに好まれる話題となる。
久佐賀たちの【前線基地】にやってきた若い陸軍兵士たち五人は、しきりに久佐賀が八月四日にアメリカ人護衛を倒した時の武勇伝を聞きたがった。
気持ちはわかる。
しかし、すぐ横には、武の達人である内田良五郎が控えていたのだ。久佐賀としては、とてもおのれ程度の技量を誇る気にはとてもなれなかった、
謙虚になる。
「俺なんぞ、本当に弱くて大したものではありませんよ。
去年、妙な縁があって、縄術遣いの子どもと立ち合うことになったのですが、その子どもにまったく手も足も出ないでやられてしまいましたよ」
「縄術遣い?」
「鉄製のかぎをつけた縄をまるで自分の手足のように操りよりました。
まだ子供のくせに外務省の密偵をしとるそうです。
おかげで、もう、こちらも去年は随分落ち込みました。
同郷の先輩で外務省警察をしておる藤田さんに聞いてみたら、『そいつは外務省の隠し玉だ。お前が外務省警察に入っれたら、また会えるぞ』と笑うだけでしたが」
「外務省の隠し玉などと言われるぐらいなら、いくら子どもとはいえ、それは化け物でしょう」
「俺の武の心得なんて本当に下の下です。
あのアメリカ人を痛めつけたときには、下の下にまだ下がおったわいという驚きの気持ちしか残りませんでした」
「御冗談を」
陸軍の兵士たちは笑った。
久佐賀は言う。
「今日は皆さんに是非ともよろしくお願いしたいですよ。敵がこの家に入ってくるとすれば、最初にそこの玄関口でしょう。
家具などを置いて一列でじか入ってこれないようにしていますから、敵が入ってきたら、皆さんの銃でハタバタ倒してください」
「承知しました」
「さすがに、暗殺のような後ろ暗いことに、この日本の地で、清国人がそこまでの人数を用意できるとは思えないです。
しかし、万が一にも相手の人数が多ければ、皆さんの援護を受けて私と内田先生で斬り込みをかけたいと思います」
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紛争を解決するためには【暴力】だけでない。【言葉】だって使うこともできる。
適切な【言葉】があれば、お互いの欲しいものが違うことがわかって、無駄な奪い合いを避けることができるかもしれない。。
争いの原因となる問題を【言葉】で特定して、【暴力】以外の解決方法を見つけて、誰も傷つけることなく終わらせることができるのかもしれない。
迷いなく戦いだければ、日頃から【言葉】を十分に検討するべきであろう。
そして、これ以上は無理と思うまで検討すれば、もはや【言葉】が見つからないということがあることにも気づく。
そういう時には迷いなく迷いなく戦い抜くことができる。




