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第三十四話 長崎の夜の雨

 八月二十六日。

 明日の警備計画について語り合う護衛たちから離れ、多少の射撃練習をした後、チャーリーは屋敷の本館に戻った。

 すると、ツルメとカトーが何やら言い争っていた。横ではナツが声をあげて泣いていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 チャーリーは驚いてたずねる。

「何があったの?」

「僕はナツに本当のことを教えだけです」

 カトーは憮然とした表情で語った。

「昨日にクサガから話を聞いたのです。ナツがチャーリー・サイモン邸で雇ってほしいと言っていた女の友達を雇うのはもはや不可能になりました」

「どうして?」

「話を聞いてみると、ずいぶん立派な子どもです。彼女は重い病気の母親に代わって、小さな妹と弟の面倒を見ながら、ひとりでと家事をやっていました。

 さすがに無理というもので、ついに耐えかねて家を飛び出して行方不明だそうです。見つからない者はこちらも雇うことができませんよ」

 

 横からツルメが涙声で抗議の声をあげた。

「カトーがナツに言ったことは、それだけではありませんよ」

「何を言った?」

 カトーは答える。

「そのナツの友達が家を飛び出した後に、残された父親は絶望して、妻と子供たちを殺して、自殺してしまいました」

 一家心中。

 西洋のキリスト教徒の世界では、自殺することすら神に対する罪である。ましてや自殺する前に家族全員を殺すなど狂気の沙汰。

 チャーリーもすぐに信じることはできなかった。

 だが、日本人たちの顔は嘘をついているように見えない。

「本当なの?」

 チャーリーは思わず訊き返した。

「どうして、女の子が一人家出したぐらいで家族全員で死ななければいけなかったわけ?」

 カトーの説明。

「そのナツの友達、ミツの家はぎりぎりのバランスで回っていたのです。

 父親のかせぎは少なく。母親はお金のかかる重い病気で倒れていました。ミツは小さな弟と妹の面倒をみていました。

 ミツがいなくなれば、父親が留守の時、小さな弟と妹の世話を見るものもいません。母親の看病をするものも誰もいません。

 もちろん、人を雇う金など、持っていないのです。

 ミツの父親はおそらくこう考えたのでしょう。彼の残りの家族はどうせ死ななければならないのなら、くるしい思い、つらい思いを長引かせることなく、自分の手で殺そう、と。

 そして、妻と子ども二人を殺した後に、生きる気力がなくなって自殺したというわけです」

「それって、 いくらなんでもおかしいよ。もし本当にそうだとしても、そこまで追いつめられる前に誰かに相談するべきだったんじゃない?」

「相談できるような者がいたらよかったのですが、彼らのまわりの者も、みんな、貧しいのです」

「教会とかは?」

「こいつは、クサガの意見です」

 と断りながら、カトーは日本の宗教事情について語った。

「日本の貧しい人々の助け合いの基盤は、公式の行政単位に組み込まれた村なのです。ナツやミツが住んでいた貧民街は、その村の互助組織からあぶれた者たちの吹き溜まりです。

 村以外の互助組織を江戸時代の中央政府・地方政府は硬軟取り混ぜた様々な方法で潰していきました。

 寺社に金貸しの特権を認めるとか、本当に名案でしたね。いったん金貸しになった寺社は貧しい人たちを助けなくなります。

 公式の行政単位以外に助け合いの組織の存在を認めることは、それらは往々にして反乱分子が結集する核になりかねませんから」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 


 イギリスの清教徒革命やアメリカ独立戦争の事例を考えれば、国全体の平穏のために、公式の行政単位以外の助け合いの組織を政府が規制するのは一理ある。

 しかし、非公式の助け合いの規制は、それだけ助かる生命を見殺しにすることにもつながる。

 お美津の家族は誰にも助けを求めることができなかった。

 絶望したお美津の父親は発狂したのかもしれない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 それでも、とツルメは言った。

「ナツは小さな子どもです。たとえ事実であっても、知らなくていいことだってあると思います」

 私はそう思わない、とカトーは反論する。

「そのような思いやりは、ナツに不要ですよ。もしも、私たちが彼女を甘やかして、現実から彼女を切り離しても、彼女はいつか自分で現実を知ってしまう。

 ならば、彼女のためにも、彼女が早く知っておくべきです。今の時代を生きるには、まず、強い心をもたなければいけません」

「ご立派な意見ね? 貴方はそんな強い心を持っている?」

 チャーリーが冷やかすと、カトーは目を大きく見開いた。口元に笑いを貼りつけた。

「DIY(自助努力)」


 その時だった。

 今まで大人たちの英語の会話に加わらなかった小さな子どもが突如として口を開いた。

 ナツ・カラサワ。

 舌足らずのたどたどしい英語。

「カトー、悪くない。お願い。彼のことを責めないで、奥さま、正直に言って、私は彼のことをそんなに好きではない。でも、彼は信用できる。公正だから、とても」

 チャーリーは驚いた。

 まだ十歳ぐらいなのにしっかりしている。どこまで、私たちの会話の内容を理解していたのだろう?

 それ以上にナツは何も言わなかった。唇を噛みしめていた。頬には滲んだ涙の跡があった。

 優しく肩を抱こうとするツルメの腕をナツは無言で振り払った。哀しい時代と自ら闘う幼い決意があった。瞳はまっすぐカトーに向けられていた。


 ツルメは、ナツのことが可哀そうで仕方ないらしく、ずっと同情の言葉を口にした。ツルメはナツの悲しみを自分の痛みのように感じているようだった。

 ナツのことを助けてやりたいと泣くツルメにはナツのことを助ける力がない。カトーの言うようにナツ自身が自分のために自分で戦う必要があるのかも。

 わからない。 

 チャーリーもツルメもナツもカトーも、この世界では、あまりに弱すぎた。

 弱いことが戦わなくてもすむ理由にならない。

「FIGHT」

 チャーリーは口の中で小さく呟いた。

 外で雨音が響きだした。

 一八八二年八月二十六日の夏の夜、日本の長崎の地において、にわか雨が降った。深い闇の中を細かい水の粒子が漂った。


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