第三十二話 事前の警備計画
八月二十六日。
チャーリー・サイモン邸の警護責任者である内田良五郎の話によると、二十二日に訪れた在東京アメリカ公館のタイガーマンなる男が奇妙なことをほのめかしたと言う。
━━明日、八月二十七日にサイモン夫人に会うために上海から彼女の父親がやってくるが、彼は親清派であり、その際に清国人による襲撃の可能性があるので警護には注意せよ━━
どこまで信じてよいのやら?
しかし、内田良五郎の人間観察能力は軽くみることはできない。
タイガーマンは本気で警告してくれたと見てよい。
この日は休みということで、久佐賀は事前にコースの下見をしておくことにした。
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かつて江戸時代の長崎において、幕府は清国人居留区として唐人屋敷を建設した。広さは約九千四百坪に及び、二千人程度の収容能力をもっていた。
明治三年に唐人屋敷の焼失後、清国人たちは新地に中華街を形成した。
出島と新地はともに銅座川の南沿いに位置する。
その新地の中心部の北口に、サイモン夫人と父親の会見の場に指定される中華料理屋はある。
「ふむ」
朝から久佐賀は一人、新地の北口の中華料理屋の前で立ち尽くしていた。
すると、突然に背後から、
「久佐賀先生」
と声をかけられた。
両替商の甘利仙一郎と兼の父娘であった。
「こいつは、また、朝から意外なところで、お会いしますな」
おい、と久佐賀は言った。
「意外というのは俺の言うことじゃ。お兼よ。今日はメイドの仕事はどうしたのだ?」
ぬけぬけと兼は語る。
「昨日の夜にサイモン夫人と話をしました。私と鶴女と夏のそろいのメイド服を用意しなければなりません。そのために、今日は休みをいただいています」
メイドとして戦力外扱いされているのではないか、と久佐賀は思う。
「形から入るというのもよいことだ。メイドとしての仕事を大切にしてくれ。採用した俺の顔も立たない」
「今日は、どのような用事で?」
甘利はたずねてくる。
娘である兼がチャーリー・サイモン邸の一員になった以上、もはやこの男も身内のようなものだ。
久佐賀は正直に答える。
「サイモン夫人の護衛のために下見だ」
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出島の入り口から新地の中華料理屋まで、川沿いにまっすぐ、五百メートルもない。
久佐賀は言った。
「できれば、まっすぐ馬車で走り抜けたいものだ。しかし、長崎で早急に適当な馬車を借りるあてが思いつかないのだ」
何だ、と兼は笑う。
「そういうことでしたら、うちの店の箱型四輪馬車を使うてくださいよ」
貧乏人が頭を悩ませる問題を金力で一瞬に解決する。
さらに、久佐賀の検討は続く。
「この川の南沿いの新地には、清人が多いから、馬車に対する横からの斬り込みがあるやもしれん。一度、川を渡って北沿いに走った方が安心だろう」
「久佐賀先生は色々と考えられるものですな」
年長の甘利が愛想を口にする。
気恥ずかしい。
箱型四輪馬車が銅座川の北側に沿って走ることを想定。
問題の中華料理屋の前に十五メートルどの木橋がかかっている。
馬車で渡るには狭い。
ということは、橋の前に馬車を止めるしかない。
ちょうど、その地点の北側に二階建ての白壁の家があり、その地点を見下ろせるような窓がある。
久佐賀は心配した。
「あの家」
「どうかしましたか?」
「サイモン夫人を狙う側ならば、あの窓から狙撃できる」
「なるほど」
父親と久佐賀との会話に、また、兼が口を挟む。
「政府の御用があるから言うて、今日中に借り上げたらよいのでは?」
「ああ」
久佐賀は意表を突かれた。
「まだ、朝だ。急げば間に合うな、確かに」
日本・清国・朝鮮の交渉の行われていて、それが国民的な関心事になっている。
交渉の全体方針を一人で練り上げた井上毅は、自らの手で決着をつけるべく、全権公使として現在に朝鮮半島に向かっている。
そんな政府高官が、この日の後ろ盾になることを約束してくれた。
久佐賀は複雑な気持ちで笑った。
「サイモン夫人の安全のために俺もやれることは全てやっておこう。そうでなければ、俺個人の後ろ楯になってくれた井上先生のご期待に背くことになるわい」
小さな感傷。
「この家の持ち主が、清国人との商売上のつきあいがあるのならば、迷惑をかけるやもしれぬが」
兼は違った見方を持っていた。
「万々が一にも、そんなことがあれば、うちの店であの家を借りて、うちの店が久佐賀さまにお貸しするというかたちにしましょうか?
今のご時世、お国のために奉公ばしたと自慢できれば、商売を広げる良か機会ですよ。私がこの家の持ち主ならば、二つ返事で気持ちよく貸します」
「お主の言う通りかもな」
と、久佐賀。
長崎の両替商の令嬢。もしも、男として生まれていたのならば、金力を最優先せよという慶應義塾の塾生になっていたかもしれない。
そして、兼は予言した。
「後でサイモン夫人との記念写真などの要求してくるぐらいのことは向こうもするでしょう」
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兼の予言は当たった。
問題の家の持ち主は二つ返事で貸してくれた。サイモン夫人との記念写真が条件になった。
その件については、久佐賀は勝手に約束した。
甘利父娘の協力のおかげで話が随分と具体的になってきので、警護責任者である内田にも話に加わってもらうことにした。
内田は、朝の八時から夕方の四時まで休憩時間中であり、簡単に来てもらうことができた。
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「よい家が入ったな」
借り受けた二階建ての家に入って、内田は目を輝かせた。
「休みの日に、サイモン夫人の護衛のための現地を下見をして策を練っておく、か。久佐賀、お主は良い心がけをしている」
そして、
「この家の中に人数を詰めておけば、店で何かあったときも、すぐに増援を出せる」
と指摘した。
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家に詰める人数が欲しい。
内田も二十日に訪れた公兵員病院・長崎病院に軍との連絡を頼んでみた。
現在の日本の国民的英雄である花房公使一行が連れ帰った異国の美女、チャーリー・サイモンのためというのならば、長崎輸送局に連絡をとってくれた。
午後四時からチャーリー・サイモン邸の門番につくことになる内田は、この時点で退場した。
久佐賀は甘利父娘とともに長崎輸送局に行った。
陸軍・海軍の兵員・軍需品輸送のための長崎輸送局は、二十三日に長崎を朝鮮に出発した井上毅全権公使に関する事務も請け負っていた。
久佐賀たちが向かうと、職員がニヤニヤしていた。
「お待ちしていました。井上毅全権公使から先日に申しつかっております。いつでも兵隊を出して助けてやってくれ、と」
「え?」
久佐賀の動きは井上毅に事前に読み切られていた。
読みの根拠は簡単だ。久佐賀が護衛の人数が必要なのに、なかなか決められないと二十二日に井上に向かって嘆いていた。おそらく護衛の人数を早急に必要な状況になる可能性は大きいのだろう。その場合、久佐賀にとって井上毅の名前の使いやすい長崎輸送局に飛び込むことになる。
五人の陸軍兵士を都合してもらえることになった。
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「怖ろしいひとじゃ」
長崎輸送局を出た久佐賀が大きな溜め息をつくと、後ろから両替商の甘利が声ををかけてきた。
「どうなされました?」
「俺が追い詰められることが井上先生に先読みされておった。『お前なんてまだまだだ』と井上先生に叱られた心地じゃわい」
それは違います、と兼は言った。
「追い詰められた時の手段の下ごしらえを井上毅さまが前もってご用意なさってくださっておったということは、追い詰められた時の正しい手段を久佐賀先生もしっかり選びあてなさったのです」
お兼の言うとおりです、と甘利は言った。
「多くの者は、追い詰められた時にこそ、気が動転して、ろくでもないことを次から次にやらかします。これは、井上毅さま、よほどに久佐賀先生のことを信じておられますな」
久佐賀は苦笑した。
「俺みたいな未熟者を買いかぶられても困る」




