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第二十八話 魔人との邂逅(二)

 八月二十二日。 

 これは私の懺悔話だ、と井上毅の語った内容は、久佐賀にとって、まさに驚天動地の内容であった。

 歴史に残る大事件、明治十四年の政変を、目の前の男は、たった一人で自分が引き起こしたと言う。


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 明治十四年六月、ドイツから帰国した井上毅は、岩倉具視からの相談を受けた。

 大隈重信の憲法意見書をどう思うか、今のままではこういう憲法になりそうだぞ、と。

 この時期の大隈重信の背後には福沢諭吉が存在した。

 功利主義の主張。

 ━━まず、民に気力を与えるべく、金力の重要さを解いて民を刺激するべし━━

 権利の概念が社会にまともに整備されていない間に、それをやってしまえば、日本という国が空中分解していただろう。

 井上毅の友人であり、大隈重信の参謀でもあった快男児・小野梓は、『民の気力の活性化と権利概念の整備を同時並行で進めても何とか間に合う』と考えていた。

 それに対して、井上毅は『小野先生ほどの人物が、心の優しさのあまり、わが国の民度の低さを甘く見すぎておられる』と判断した。

 

 井上毅は奔走した。

 伊藤博文に「書記官風情が勝手な真似をするな」と痛罵されようとも。

 まず、朝廷を基盤とする岩倉グループには、福沢の考えた憲法案だと天皇中心の国体を危うくすると説いた。

 次に、外国との条約改正に頭を悩ませていた井上馨のグループには、権利の概念を自国の歴史に基づかせなければ、権利の解釈について相手国に完全にイニシチアブを渡すことになると指摘した。

 そして、薩摩グループに対しては、当時に起きた北海道開拓使官有物払い下げ事件について、大隈・福沢の陰謀であると述べて、大隈・福沢への憎悪を煽った(北海道開拓使官有物払い下げ事件はまともな実体がなく、これも井上毅の陰謀だったのではないかとも疑われている)。

 最後の最後に、もはや大勢は決した、と伊藤博文を説き伏せた。


 大隈憲法意見書を直接に受け取って細かい事実を知る有栖川宮熾仁親王が東京を離れている間が勝負だった。この時期、井上毅は『大隈重信・福沢諭吉は政府転覆を狙っている』という偽情報を盛んにばらまいた。

 有栖川宮熾仁親王が東京に戻ってきた後には、しれっとした顔で井上毅は、北海道開拓使官有物払い下げ事件に関する醜聞こそ最大の問題として、大隈・福沢グループを攻撃した。

 大隈・福沢グループによる政府転覆の陰謀があるという話は、何の証拠もない井上毅の捏造たった。

 実際に明治十四年の政変後に刑事処罰された大隈・福沢グループの者は一人もいないのだ。

 それどころか、司法省を辞職した大隈派の小野梓に対しては、『貴方には辞職をとどまってほしい』と、井上毅本人が懇願している。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 井上毅は言った。

「前年の政変において私のなした数々の悪謀は秘中の秘である。

 しかし、小野先生に対してだけは、いつか私が死んでからでも、君が頃合いを見て、真相を話してくれ。井上毅が詫びていた、と。

 久佐賀くん。いらぬ面倒をかける。

 小野先生が『将来のある男』と見込み、私にとって同郷の後輩である君に判断を任せたい。まだ若い君は私や小野先生よりも長生きするだろうから」

 夕方の六時頃になって、旅籠の奥の間にいた井上毅は腰を上げた。

「そろそろ迎えの馬車が来る時間だ」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 旅籠の玄関前で、井上毅は迎えの馬車を待った。

 井上は言う。

「同郷の先輩として、君の頼みごとを聞いてやると言いながら、こちらの頼みごとの話ばかりしてしまったな。すまない。久佐賀くん、君から私への頼み事はないのかね?」

 そして、言った。

「君たちが通詞の交代要員を求めて長崎外国語学校に働きかけていることも、私の耳に入っているのだが、今の時期なら、官立の学校に対しては私の名前も相当に使える。好きに使え」

 有難い申し出であった。

 政府大官の心遣いに久佐賀は感謝した。

「ありがとうござます。確かに、通詞も足りませんでした」

 チャーリー・サイモン邸に足りないのは、護衛だけというわけでもない。


 二人の立ち話に、いきなり一人の男が割り込んできた。

 身なりの良い商人風の男。

「君が久佐賀さんかね? 私の娘をサイモン夫人の家で使って欲しいのだが。私の娘は・・・」

「退がれ、下郎!」

 久佐賀は一喝した。

 商人風の男は吹き飛ばされたように後ろに飛び退いた。

 井上は一言だけ。

「怯えるな」

 言われてみて久佐賀は気がつく。確かに、自分は怯えていた。井上毅の存在に対して。

「申し訳ありません、井上先生」

 自らの心の動揺を他人にぶつけたことを、久佐賀は恥じた。

「娘か・・・」

 井上毅は呟いた。

「女手も足りないのなら増やしておけよ。別にそいつの娘を使う必要はないが」

「わかりました」

 久佐賀は赤面した。まるで頭が動いていない。本来に自分がお願いすべきことも忘れ、相手の口から言わせてしまっている。

 海軍から二頭立ての馬車が来た。

 降りてきた士官が敬礼する。

「井上毅参事院議官、井上毅全権公使、お迎えに上がりました」


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「井上毅参事院議官、井上毅全権公使・・・」

 二人の会話に割って入ろうとした商人風の男は、相手が政府高官だったと知って、顔を青くしている。

「先ほどはいきなり怒鳴ってすまなかった」

 久佐賀は謝った。

 そして、

「俺も怯えていたのよ。アレは怖いお方だ。しかし、お前もいかんぞ。いきなり俺と井上先生との話に割って入るは無礼千万」

 と商人風の男の側の非も指摘しておいた。


 久佐賀は呟く。

「無性に酒を吞みたくなったな」

 すると、商人風の男が言った。

「私の知っている店はどうでしょうか? 久佐賀先生」

 一人で飲むか?

 それも何か違う気がする。この時の久佐賀は人恋しくてたまらなかった。

「これも何かの縁だな。一杯つきあえ」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 商人風の男は、甘利仙太郎といって長崎で名の知られた両替屋だった。

 久佐賀は近くの居酒屋に飛び込んだ。

「こんな安い店で」

 と嫌がる甘利に対して

「うるさいわ。俺と井上先生の話に割って入るという無礼があったから、全てお前の奢りだ。安い店の方がよかろう」

 と久佐賀は言ってのけた。

 今日の久佐賀にとって、甘利は飲み代を支払ってくれる財布以上の価値はない。

 長崎の魚はうまい。もはや安い酒で十分だった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 この日、久佐賀は痛飲した。

「小野先生もほんなこつ偉いものだ。俺には、あの人の偉さがよく見えていない」

「そぎゃんとですか?」

「俺は未熟で、まだまだ人を見る目がなかけん」

 小野梓。

 勤王志士の生き残りとしては若い。まだ三十歳になるやならずや。

 小野梓という土佐の男は、家制度の桎梏しっこく]を拒否する自由恋愛論者でもあった。

 豪胆で冗談も好きな小野梓に対して、彼のことを慕う他の若者たちと同様に、久佐賀は小野先生と呼びつつも、年齢の離れた頼りになる兄貴といった気安い印象を抱いていた。


 久佐賀は語る。

「井上先生という人は、俺の同郷の肥後のひと。

 子どもの頃から神童と呼ばれておった。

 すごいすごいと俺も同郷の者として色々な噂を聞いていたが、初めて実際にお会いしてみれば、聞きしに遥かに勝る大智の人であった」

「はあ」

 気のない相槌を打つ甘利に対して、久佐賀は教えた。

「今の日本政府の清と朝鮮に対する外交の方針が、全てあの人の一人の頭から出ている。そう言えばお前のような者でも、井上先生の偉さが少しはわかるか?」

「すごか」

 話のスケールの大きさに甘利は仰天した。

 久佐賀は盃を重ねた。

「あの方のことは、天才とか郷里の誇りとかいう平凡な言葉で言い表せん」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 明治十四年の政変に、小野梓を巻き込んだことは井上にとって痛恨の極み。

 ━━小野先生に対してだけは、いつか私が死んでからでも、君が頃合いを見て、真相を話してくれ。井上毅が詫びていた、と━━

 壮絶な男であった。

 一国の命運を左右する知性。

 互いに尊敬しあえる対等の友人になれる者など滅多にいない。

 だからこそ、小野梓のことを心から尊敬することができたというのは、井上毅の人生において非常の痛快事だったはず。

 その小野梓とも、井上毅は自らの信念のために道を:たがえることになった。

 どこまでも一人。

 おのれを独々斎と号するのは自らを:嗤 (わら)っているのか?

 だとすれば、哀しい。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 孤独な魔人の心事を想い、久佐賀はいた。

「井上先生は、この国の民のために、他の手を借りることなく、あの人はたった一人で自ら悪鬼妖魔と化するくらい戦いを選びなさる。

 あの方は、特別ぞ。凡夫では、あの方と肩を並べて戦うことなどできない。そして、あの方が戦ってくれなければ、日本は亡ぶぞ」

「そげなごどって」

「日本の御国のために、余人にはなしえぬ戦いをなさっておられじゃ。凡夫である俺には、今夜、あの方のために泣くことしかできない」


 若い娘の声が響いた。

「どうか、これを、お使いください、久佐賀先生」

 いつのまにか甘利が呼びにやった彼の娘がやってきていた。白いハンカチーフを差し出してくる。涙を拭けということであろう。

 久佐賀は引ったくって礼を述べた。

「ありがとう」

 気遣うように娘は言う。

「久佐賀先生は優しい人なのですねえ」

「女々しいのさ」

 久佐賀はハンカチーフで涙をぬぐった。

 救国のために孤独な暗闘を続ける魔人と邂逅した衝撃が残っていた。全身が震える。

青年小野梓の家族制度論 ー『羅瑪律要』纂訳附註を通じてー

https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282677477206144


[小野梓と井上毅]早稲田大学 社会科学総合学術院 島善高教授

https://kazuo1947.livedoor.blog/archives/30041875.html


本当に「優秀な人」なら、相手に支配されてると気付かれず、あるいは搾取対象にそうと知られてても、ちゃんと利益や尊厳も与えて、持続可能なWin-Winの関係を築ける。

https://twitter.com/dakendamin/status/1648826695603068930

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