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第二十五話 公兵員病院

 八月二十日。

 午前中、日本の長崎の警察から二十二日の演説会の参加を中止してほしいという要請がチャーリー・サイモン邸にやってきた。

 通訳のカトーは言う。

「強行すると、事故が起きると予想されます。中止せざるを得ません」

「仕方ないわね」

 チャーリーの口元は思わずひくついた。

 笑ってはいけない。

 しかし、今、極東の島国でチャーリー・サイモンの人気は大したものではないか?

 まるで人気の舞台女優みたい。

「私が出演するということになるのならば、それなりの大きな建物を用意してもらわなければいけなくなったみたいね?」

 まったくカトーは笑わなかった。

「それもあります」

 続ける。

「十九日の東京の新聞の報道によれば、花房公使を守る日本軍が朝鮮暴徒と漢城で衝突したそうです。そのニュースは早ければ二十一日に長崎にも伝わることになるかもしれません。

 演説会の聴衆は興奮して危険になるでしょう。

 警察は不測の事態を心配しています。

 現在に長崎には朝鮮における日本の戦争に義勇兵として参加したい者たちが集まっており、長崎の警察力ではコントロールできなくなるやもしれないのです」

「わかった」

 チャーリーは頭から冷や水を浴びせられたような気分になった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 八月十九日の東京の朝野新聞による報道は歴史に残る誤報であった、

 この誤報に複数の新聞が追従してしまった。

 朝鮮の地のこと、従軍記者を出すこともできず、事実の確認が困難な時代である。

 その誤報は円銀相場を狂乱せしめた。それで巨利を得た者もいたはずである。もちろん、大損を被った者もいるであろう。

 朝野新聞・自由新聞・大阪新聞が六日から十日ほどの発行停止を受けた。

 なお、この誤報に追従して二回も号外を出してしまったのに処罰されなかった新聞社がある。

 それは政府の御用新聞とも言われた東京日日新聞社である。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 この日の午後には、東京日日新聞のフクジという記者が、外務省のウエバヤシの紹介状をもって、チャーリー・サイモン邸に訪れた。

 政府の公式通訳の経験も豊富であるというフクジ記者は英語に堪能であり、取材自体は、ごく無難に行われた。

 特別だったことは、フクジ記者がとんでもない提案をしたことである。

「先ほどにカトー氏から聞きました。明後日二十二日のご予定がなくなったのでしたら、この近くの公兵員病院・長崎病院に私と一緒に訪問してくれませんか?」、

「なぜ?」

「その病院にはまだ動けない負傷者がおります。貴女と一緒に朝鮮半島を脱出した日本人たち」

「あ」

 言われて見てチャーリーは驚愕した。

 仁川で肩を並べて闘い、月尾島から脱出した日本人の仲間たち。

 負傷者。

 長崎の病院に送られたことは、知っていた。

 フクジは続けた。

「おそらく、貴女は、彼らを、まだ一度もお見舞いに行ってないと思うのです。失礼。先ほどカトー氏に確認いたしました」

 チャーリーは通訳に怒鳴った。

「どうして、早く言わないの、カトー!」

「もしも、それをカトー氏が先に貴女に告げていれば、貴女が動揺して、当初の私のインタビュー取材に支障が発生したからでは?」

 お賢いこと。

 今すぐチャーリーは病院に向かいたかった。

 言葉は通じなくても、国籍は違っても、あの朝鮮脱出行を共にした者たちは、互いに背中を預けあった戦友だ。よくも今の今まで忘れていたものだ。

「ありがとうございます」

 チャーリーはフクジ記者に儀礼的に頭をさげた。

「よいことを教えてくださいました。

 確かに、私は彼らの見舞いを一度も行っておりません。お恥ずかしい。初めての日本における生活が始まって、私も忙しすぎました」

「それは当然でしょう。では、明後日に見舞いに行くということでよろしいですか? 私も同行させていただきます」

 のんびりした口調でフクジ記者は言った。 

 よろしくございませんな!

「今から行きます」

 待ってください、とフクジ記者は慌てた。

「そんなに急がれてはカメラマンの手配もできませんよ。明日の負傷者の見舞いについて貴女から確約を得てから、私はカメラマンの手配をするつもりだったので」

 知るか馬鹿!


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 カメラマンとして、鹿児島新聞社・臨時長崎支部から、アンドーを引っ張ってきた。機材は鹿児島新聞社の記者たちが手分けして長崎病院に持ち込んだ。

 共同取材という形式になった。

 特ダネの独占しようとしていた東京日日新聞社にとっては気の毒な話である。

 ハナブサ公使に救助されて来日したチャーリー・サイモンは、演説会で顔を売り、写真をばらまき、長崎ではかなり有名になってきている。

 例の演説会の衣装で、朝鮮脱出行を共にした仲間たちの見舞いに来たとチャーリーが言えば、軍の病院も簡単に承認した。むしろ、大歓迎された。

「よく、来てくださった」


 比較的に傷の軽かった外務省のアサヤマ、ソウ、陸軍のミズノ、海軍軍医のサガワは、長崎病院で応急の手当てをすませた後に、東京の病院に転院していった。

 無事に生きていれば、きっと、また会える。

 

 病院で死んだ者もいる。

 あの仁川の朝鮮兵のだまし討ちでで死んだ人数がまた一人増えた。

 外務省警察のトオヤ。

 仁川の朝鮮兵たちのだまし打ちがあった時、彼は真っ先に反応して建物の門を閉じるために走った。

 あまりにも傷が深すぎた。

 仁川から済物浦に逃げる時にも、海軍軍医サガワは『彼の苦しみを無駄に長引かせないために早く楽にしてやるべきだ』と主張していた。

 何と言えばよいのだろう?

 案内の医師は言う。

「生きて祖国に戻ることができて幸せだったはず」

 勇敢な男だった。

 トオヤの魂の冥福をチャーリーは祈った。


 彼女が公兵員病院・長崎病院で会うことができた壬午軍乱の遭難者は二人。

 外務省警察のイガラシとヨコヤマ。

 足に傷を受けて歩けなくなったイガラシを看護師のリスケが無言で背負って長い道のりを歩いた。

 リスケがいなければイガラシは死んでいただろう。リスケがイガラシの生命を拾った。今、イガラシは順調に回復している。

 ヨコヤマもトオヤと並んで日本刀を振るって戦い、身体の前面に多数の傷を受けた。しかし、治療がうまく行き、もはや生命の心配はない。


 チャーリー・サイモンの突然の見舞いを二人の仲間は大歓迎してくれた。

 ツルメの通訳越しの会話。

 彼らはチャーリーが演説会で活動をしていることを新聞で知っていると言う。

 大新聞である郵便報知新聞の記事のみならず、小さな鹿児島新聞の記事まで見ていてくれていた。

 驚いたことに、彼らの見舞い客の中に、チャーリーとツルメの写真を彼らにプレゼントした者もいた。


 ヨコヤマからの質問。

 ツルメの通訳。

「その服装はどうしたのだ、と」

「日本の演説会に出ると言ったら、スタッフが用意してくれたの。郷に入れば郷に従え」

 チャーリーの答えを聞いて、ヨコヤマは声をあげて笑う。

 道化で結構。

 笑ってもらえるということはヨコヤマがまだ生きているということだ。

「似合っている、と」

「私の日本風の衣装を彼に楽しんでもらえたのならば、それだけで見舞いに来た価値があった。そうヨコヤマに伝えて」


 イガラシが何か言った。

 驚いた表情でツルメは訳さなかった。

 チャーリーはたずねる。

「今、彼は何を言ったの?」

「貴女が敵の頭を拳銃で射ち抜いた、彼とリスケが足を滑らせて転びそうになった時に、と。本当ですか?」

「アメリカは銃の国だから、私も銃が得意なの、と彼に伝えて」

 笑ってしまう。

 景気よく鉛玉を叩き込んでやったさ、じゃじゃ馬チャーリーは。

 また日本語でイガラシは何か言った。

 ツルメの通訳。

「貴女は私の生命の恩人である、と」

 チャーリーは言った。

「イガラシとヨコヤマとトオヤが最初に飛び出して門を守ってくれなかったら、私たちに反撃のチャンスは与えらなかった。

 あの非常時には、みんな誰もがお互いにお互いの生命を守り合った。今さら、誰が誰のことを助けたなんていう話はしなくてもいい。そうイガラシに伝えて」


 公兵員病院・長崎病院でイガラシとヨコヤマと通訳越しにであるが会話をして、チャーリーは思った。

 あの脱出行を共にした戦友。

 互いの背中を預けた。

 覚えている。

 忘れない。

 人種も国籍も年齢も性別も関係なく自分と仲間の勇気を信じあった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 公兵員病院・長崎病院への遭難者のチャーリーの見舞いが終わった後、小さな騒ぎがあった。

 騒ぎを引き起こしたのは、フクジ記者である。

 チャーリーがイガラシとリスケを助けるべく拳銃で朝鮮兵を射殺したことを記事にしたい、と。

 それに対して反発したのは、通訳のカトー。

 いずれ他の生存者の口から事実が語られることになるとしても、今の段階では、チャーリーが弱い女を演じた方が寄付金の集まりはよい、と。

 カトーの意見にチャーリーは賛成した。

「わざわざ新聞記者を連れて病院に見舞いに行くだけでも十分に恥ずかしい。それ以上のことはお断り」


 フクジとカトーの言い争いを聞いていて、案内の医者が怒りだした。

 公兵員病院・長崎病院では、全員がチャーリーの味方をした。あの脱出行を戦った者は誰もが彼らにとって尊敬されるべき英雄だった。

 ついには、多くの兵士がフクジ記者を取り囲むという事態にまで発展した。

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