第二十四話 涙で渡る血の大河
八月十七日。
十二時前に、久佐賀は鶴女と鹿児島新聞社・臨時長崎支部と指定される民家にやってきた。
同社と契約しているカメラマン安藤が決定した。
「すべて撮影しましょうよ」
従来演説会用の衣装、旅籠がくれた浴衣、久佐賀が選んだ衣装、鶴女が選んだ衣装。
どれも良いということになり、着替えの時間をはさんで、鹿児島新聞社・臨時長崎支部における鶴女の宣伝用の写真の撮影は長引くことになった。
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久佐賀はやることなく手持ち無沙汰。
撮影の延長を申し訳なく思ったらしく、鹿児島新聞社の社長である野村が声をかけてきた。
「いや、すまんすまん。久佐賀くん、君たち、昼は食べたかね?」
「また食べていません」
「長崎に来て、長崎名物大村寿司は食うたか? まだ食うとらん。よし、わかった。長崎にいる間にも食うておけ。一つ出前をとろう」
野村忍介。
弘化三年(一八四六年)生まれ。
西南の役の薩軍の隊長格における唯一の生存者。
彼の献策を西郷が採用していれば、勝敗がどちらに転んだかわからないとも言われる知将である。
久佐賀が名物の大村寿司を御馳走になっている間、先ほどにあった新婚旅行中の弾正夫妻の話を久佐賀は持ち出した。
「横井先生の娘さんが長崎にのう・・・」
野村は興味を示した。
海老名みや。
彼女は明治二年に政府に出仕するはずであった大学者、横井小楠の忘れ形見である。
「南洲翁(西郷隆盛)も横井先生のことを高く買っておったよ。お嬢さんが幸せそうにしていたという話ならば俺も喜ばしい」
俺もです、と久佐賀は続けた。
「本当に、偶然に先ほど、お会いしました。朝鮮の軍乱のことと関係なく、長崎に来ておられでした。
結婚した記念の旅行じゃ言うて。
その結婚した相手というも、横におって、海老名という俺の洋学校の先輩で、どうにも仲睦まじい様子で、俺もあてられてしまいましたわ」
野村は目を細めて笑った。
「今のご時世だからといって、誰もが朝鮮の話や政治の話をせねばならんという法はない」
そして、
「時勢に流されて、政治に手を出すべきでない者が、わけもわからんまま、手を出すよりは、ましだ」
とも言った。
何かを思い出したというような表情を野村は浮かべた。
うん、と一人うなずいて口を開く。
「明治二年、横井先生が暗殺なさられた同じ冬に、久佐賀くんの師匠、蒼海先生も同じ京都で刺客にお遭いになさられた。
横井先生の時と同じく刺客の五人がかりで襲われた。
その話を聞いたとき、薩摩者も大騒ぎだった。『馬車から飛び降りた蒼海先生が五人の刺客のうち四人までパパッと斬り捨てて、一人だけ逃げられてしまった』ゆうてな。
辺見(辺見十郎太)というぼっけもんは、ずいぶんはしゃいで、『一人でも逃したのは、あの蒼海先生にしては大失態じゃ』とか笑いよった。
しかし、大久保さん(大久保利通)はこう嘆いたのよ。『蒼海先生は殺すことしか知らんようだ』と。
この話は、たぶん、久佐賀くんは聞いておらんのではないか?
蒼海先生の登用に対する大久保さんの不安を知ってのことかどうかわからぬが、蒼海先生が明治政府への出仕を辞退なさって仏門にお入りになった。
あの頃の蒼海先生は、お弟子さんである君の前で言うのは何だが、たまに血に狂うところがあった。あのまま政府に出仕されても、みんな、扱いに困ったはず。
おのれが狂うておるという確信を持てば、政治の活動から速やかに身を退くべきだろう。
俺は、どうだ? まだ、おのれが狂っているという確信を持てん、それなりに人も斬ったし、配下の兵も多く死なせたのだが。
今のままでは、この国はいかん。
この国のためにまだ俺にもお役に立てることがある。俺はそう思うておるのよ。そのために、また、これから多くの血を流すことになるとしても、な」
熱血の修羅。
野村忍介は知将として名高いが、一人の剣客としても薬丸流の遣い手だ。
明治維新前の幕末、彼が二十歳前後のとき、京都の市中見回りで衝突した他藩士二人を即座に切って捨てたと伝えられる。
野村は打って変わって穏やかに微笑した。
「もちろん、戦うばかりが能ではあるまい。あの横井先生のところお嬢さんがご主人と一緒に幸せそうになさっておったという話は本当に素晴らしい。そういう幸せが当たり前になる国にせぬといかん」
「はい」
久佐賀は鶴女や夏がいた貧乏長屋のことを思い出した。
八月五日の郵便報知新聞取材時において、貧乏長屋の子どもたちにガラス乾板など撮影機材を運んでもらった。彼らは記念の全体集合写真に入ることは許されなかった。
貧乏長屋の子どもたちは当然のこととして受け止めた。
この明治の時代には、自分のために戦う気持ちさえも忘れ去るまで社会から追い込まれた者たちが多くいた。
┅┅戦いを忘れた人々のために涙することができる誰かが、彼らに代わって、血の大河を渡らねばならないのだ!
野村の慷慨は、久佐賀の胸にも響くものがあった。
深刻になりすぎた空気を嫌ったのか、野村は話題を変えた。
いきなり唐突に、
「久佐賀くん、ちょっと、そこにある、うちの新聞の広告欄を見てくれ」
と言った。
言われるまま久佐賀は新聞を見る。鹿児島新聞社結婚取扱の広告。
「これは?」
野村は大真面目な表情で言った。
「うちの新聞社も高砂業(仲人業)を始めることにした。横井先生のところのお嬢さんもご結婚なさられたという話だが、君と鶴女くんが結婚する暁には、よろしく当社に任されよ」
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撮影が終了し、鶴女も長崎名物の大村寿司をごちそうになって、鹿児島新聞社・臨時長崎支部を後にしたのは三時近くだった。
四時にはチャーリー・サイモン邸に帰らなければならない。
久佐賀はぼやく。
「これから、四時から八時まで門番・・・ それで、四時間休んで、十二時から翌朝の四時まで門番・・・」
無理して久佐賀は真面目ぶってしまう。照れ臭かった。鶴女と一緒に過ごせる時間が楽しすぎた。
泣きそう。
そんな久佐賀の内心を知ることもなく、鶴女は心配する。
「お夕食、どうするの、久佐賀くん?」
「八時から十二時までの休憩の間に、例の旅籠に行って食べるさ。八時ちょっとすぎたぐらいならば、まだ大丈夫だ」
「馬鹿」
鶴女は言った。
「こちらで、あなたの分の夕食ぐらいすぐ用意できますよ。簡単です。わざわざ旅籠まで往復することはないでしょう? また疲れちゃいますよ」
言われて見れば、その通りだ
久佐賀は気になった。
「内田先生は、どのようになさっておられる?」
鶴女の答え。
「お昼にあの旅籠でお昼ご飯をたべて、同時に、お弁当をもらっておられるそうです。そのお弁当を夕ご飯にしておられるそうです」
「なるほど、その手があったか」
久佐賀は感心した。
鶴女は憂鬱そうな表情を浮かべた。
「私と夏ちゃんの仕事の量のこと、チャーリー・サイモン邸の女衆の負担のことをお考えになってくださっているのはありがたく思いますよ。でも」
「でも?」
「水くさいではありませんか」
文句を言いたい鶴女の気持ちも久佐賀は理解できた。
しかし、チャーリー・サイモン邸の女衆のとって不必要な仕事をできるだけ増やしたくないという内田の心遣いの理由も同時に久佐賀は納得する。
これまで鶴女と夏の二人には一日とて休日を与えられていない。
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三時半ごろ、久佐賀は鶴女と一緒にチャーリー・サイモン邸に戻ってきた。
久佐賀と鶴女が抱えている包みの多さに、門番の大島は目を丸くした。
「すべて衣服か? ずいぶん買い込んだな?」
いえいえ、と鶴女は否定する。
「一つの包みは、もともと最初に館を出るときに着ていたもので、今、あたしの着ている浴衣ものは旅籠のひとたちが無料でくれたものですから」
久佐賀はつけ加えた。
「公金で買ったものは振り袖と帯の一組だけですよ。もう一組は私の金で買ってやりました」
ほう。
大島は笑った。
「久佐賀くんが買ってやったというわけか、そいつは結構」
照れた鶴女は足早に玄関に急ぐ
続いて後を久佐賀が追おうとすると、
「久佐賀くん」
大島から呼び止められた。
いったん、久佐賀は引き返す。
「何でしょうか?」
小さな声で大島は言う。
「鶴女くんの浴衣の背中、あの旅籠の屋号、ちょっと目立ちすぎはせぬか?」




