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第二十三話 彼女は夏の陽炎

 八月十七日。

 久佐賀は昨夜の八時からチャーリー・サイモン邸の仮眠室で眠った。

 そして、朝の四時に、仮眠室は旅籠から出勤していた大島に明け渡した。

 朝の門番の仕事は、朝の四時から八時まで。

「お疲れ様」

「おはようございます。交代をお願いします」

 終了の時間がきて、次の当番である壁山に無事に引き継いだ。

 立ち仕事は疲労がたまる。

 予定としては、今日の夕方の四時から夜の八時まで、明日の零時から朝の四時まで、門番をやらねばならない。

 山場を乗り越えれば、後は楽になる。

 初めての時間割なので、体調の管理に気を使った方がいい。


 この日の朝の八時から夕の四時まで、久佐賀は大事をとって旅籠で休むつもりであった。

 そんな折に、サイモン夫人からの命令。

「ツルメと 八月十九日

 久佐賀は昨夜の八時からチャーリー・サイモン邸の仮眠室で眠った。

 そして、朝の四時に、仮眠室は旅籠から出勤していた大島に明け渡した。

 朝の門番の仕事は、朝の四時から八時まで。

「お疲れ様」

「おはようございます。交代をお願いします」

 終了の時間がきて、次の当番である壁山に無事に引き継いだ。

 立ち仕事は疲労がたまる。

 予定としては、今日の夕方の四時から夜の八時まで、明日の零時から朝の四時まで、門番をやらねばならない。

 その山場を乗り越えれば、後は楽になるはず。

 初めての時間割なので、体調の管理に気を使った方がいい。


 この日の朝の八時から夕の四時まで、久佐賀は大事をとって旅籠で休むつもりであった。

 そんな折に、サイモン夫人からの命令。

「ツルメと外で二人で食事して、ツルメのための新しい服も買いあげ、鹿児島新聞社・臨時長崎支部で宣伝用の写真の撮影してもらってきなさい」

「今、俺は休憩時間です」

「ツルメの護衛は嫌なの?」

「いいえ」

 鶴女は、例の演説会用の和装に既に身を包んで、恥ずかしそうに顔をうつむいている。

 サイモン夫人は微笑する。

「お願いするわよ、クサガ」

「はい」

 逆らえない。

 玄関に向かう久佐賀に追いすがって、鶴女は耳元で小さく囁くように言った。

「ごめんね」

 久佐賀は言葉に詰まった。

 彼女が謝る必要はない。

 今、自分がどれだけ舞い上がっているのか、自分でわかる。

「気にしないでくれ」

 それだけ言うのがやっとだった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 外で二人で食事してきてと言われても久佐賀は長崎の街をよく知らない。

 そこで、思いついたのが、今、泊っている旅籠であった。

 政府公用の旅籠。

 現在に政府の重大な御用をつとめている久佐賀が言えば、多少の無理を聞かせられる。

 天然温泉もある。

 朝もすぎて昼まて利用者の途絶える中途半端な時間帯、久佐賀は旅館の主人と交渉した。

「三十分ほど、この娘のために貸し切りにしてほしい。これは公用だ。

 政府の御用のために必要な写真をこれから撮影する。その前に彼女の身体も綺麗にしておきたい。髪結いの手配も頼む」

「ああ、鶴女さまですか。サイモン夫人の通詞をする日本人の娘がおる、と聞いておりました。いやはや、その方が」

「そうだ」

「では、すぐに準備させます。ただ、貸し切りの料金の方は」

「わかっている。俺の懐から出す」

「いえいえ、私どもがお上へご請求いたします勘定書きの明細につけさせていただきますよ。よろしいですか?」

 旅館の主人は探るような視線を向けてくる。

 本当に公用であるかどうか疑っているのだろう。

 久佐賀は苦笑した。

「そうしてくれ」

「私どもは真正の政府の御用にはできるかぎり便宜をはかります。どうぞ、お好きに使ってくださいませ」

 久佐賀は、鶴女の方を振り返った。

「いいか?」

「うん」

 鶴女は恥ずかしげにうなずいた。

「それじゃあ、風呂に入ってこい。ゆっくり浸かってこい」

「え、でも、あたしだけお風呂に入るのは・・・」

「俺は旅籠の表で待っておるから」

 久佐賀は言った。


 旅籠から出てきた鶴女は演説会用の着物を風呂敷包みに入れて、旅籠の浴衣を着て出てきた。

 薄い水色の生地に白い花模様がついた、いかにも涼しげなものだ。

 この季節にぴったりの色合いと柄。

「これは美しい」

「衣通姫」

「思いもよらぬ眼福ばい」

 見送る旅館の従業員たちが口々に誉めそやす。

 湯上りで髪も整えた鶴女は、いつにもまして、美しかった。

 幼き日に見た夏の陽炎。

 確かに目の前に見えていても、手を伸ばして触れることはできない。

 触れてはいけないような気もする。

 そのような夢想から久佐賀を現実に引き戻したのは、鶴女の浴衣の背中の一面に縫いこまれた旅籠の屋号であった。

 商売熱心。

 自分たちの屋号の入った浴衣を鶴女に着せることに宣伝価値を見出したのであろう。

 鶴女は気づいていない様子。

「この浴衣、旅籠の人たちに無料でもらっちゃった」

 無邪気にはしゃいでいる。

 旅籠の大きな屋号のことについて久佐賀が指摘するのは無粋であろう。

「よかったな」

「うん」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 久佐賀は旅籠の部屋で食事をとる予定を変更した。

 弁解。

「あのまま俺の部屋でお前と二人きりになれば、変な噂になりかねん」

「ほう」

 鶴女は洋学校時代の明るさを少しずつ取り戻してきているように久佐賀は思う。

「仕方あるまい」


 二人して坂の多い長崎の街を歩く。

 狭い幅四メートルほどの用水路に沿って以前に行った呉服屋の方に向かっていた。

 すると、いきなり、

「鶴女!」

 元気いっぱいの明るい声が響いた。

 びっくりして鶴女は声の方を振り向いた。

 声の主は用水路の向こう岸にいた。

「ひょっとして、もしかしたら、と思った。すごい偶然。あたし、熊本の洋学校にいた横井みやだよ、おぼえている?」

「みやさん・・・」

「今年の五月から彦三郎と結婚して、海老名みや」

 海老名みや。

 横井小楠の娘。

 文久二年(一八六二年)生まれ。

 久佐賀と鶴女よりも二歳だけ年上の熊本洋学校の先輩であった。

 横で男がきまり悪げに口を開いた。

「五岳さんと久佐賀くんかね? 俺は熊本洋学校にいた海老名だ。久しぶりだ」

 海老名喜三郎。

 安政三年(一八五六年)生まれ。

 後の海老名弾正。

 キリスト教の伝道者として「組合教会の三元老」と呼ばれることになる。

 熊本洋学校の廃校時に、海老名彦三郎は横井みやと一緒に同志社英語学校に転校している。

 久佐賀は頭を下げる。

「お久しぶりです」


 海老名は早口で、

「そのう、実は、俺とみやは長崎に新婚旅行に来ておる。

 久佐賀くんと五岳くんの活躍は、京都でも、新聞で見ている。同じ熊本洋学校を出た身として実に誇らしく思っている」

「新婚旅行ですか?」

「また時間がある時に、君たちの話もたっぷり聞かせてくれ。今、俺たちは俺たちで、新婚旅行中なのだ」

 すまん、と海老名先輩は左手で久佐賀たちに拝むような仕草をしてみせる。

「愛想なくてごめん」

 と、みや。

 大新聞に取り上げられる活躍をしている顔見知りの母校の後輩に偶然に会えた。うれしい。けれども、長話するのはお断り。

 それぐらいのことは久佐賀もわかった。

「お幸せに」


 まるで一陣の旋風。

 いちゃつきながら立ち去っていく洋学校時代の先輩たちの背中を久佐賀と鶴女は見送った。

「喜三郎さんとみやさんのお二人がご結婚なさられたとは驚いた」

「昔から、あの二人は怪しかった」

「え?」

「洋学校のガールズ(女子たち)は、気づいておりましたよ、久佐賀くん。みんな、二人のこと、陰で色々な噂をしておりました」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 前回も行った呉服屋に入った久佐賀は、サイモン夫人の通詞としての鶴女ための服を選んだ。

「こんなものでどうか?」

 白地に紅色で蔓草模様をあしらった振り袖。

 銀線の一本だけ入った青味のある灰色の帯。

 おのれが脇役の立場に回ると心得て、華美に走りすぎることは控えねばなるまい。

 それでいて、じっくりと見られた時には、それなりのセンスの良さを感じさせるべきである。

 神戸福原の置屋の息子である加藤と慶應義塾で友人としてづきあっている間に、その程度のことは思いつくようになってきた。

 

 久佐賀が公費で買い上げるものと別に、鶴女は自身で服を選んだ。

 沈みゆく夕陽の光のような橙色の地に赤紫の花模様を散らす意匠の振り袖。

 無地の濃紺の帯。

 鶴女は言う。

「夏休みの楽しい一日の終わり、明日への希望とか、そういうことを思いつつ、選んでみました」

 たまらず久佐賀は忠告する。

「確かにお前に似合うとるが、サイモン夫人の横に立つ通詞として派手すぎぬか?」

 いいの、と鶴女は笑った。

「これはサイモン夫人の通詞としての服ではなく、私が私として着たい服を私のお金で買う。昨日、私だってお上から思いもよらぬほど大金をいただいておりますので」

 鶴女は彼の目を見た。

「ねえ、久佐賀くん、私は私一人で私なの。うまく言えないけれども、私はそう思う」

 そういうことなら、と久佐賀は言った。

「俺が払う」

 鶴女は小さく首をかしげる。

「どうして?」

 首筋に白刃をあてられるよりも怖い。

 ━━俺がお前に惚れているからだ━━

 口に出してしまえば、足元の地面が消えてなくなりそうな気がする。

「すまん、俺も男だからな」

 久佐賀は頼んだ。

「ここは一つ俺の顔を立ててくれ」

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