第二十話 自助努力が全てと思わないで
八月十五日。
五時近くになって、サイモン夫人たちが演説会から戻ってきた。
定時だからすぐ帰ると騒ぐ加藤のことを引き留めて久佐賀は演説会の様子を聞く。
「今回の演説会はどうだった」
「ちょう待てや、久佐賀くん。
君が通訳から抜けている時には、僕は休日なしに働くことになるんやで。ほんま、かなわん。もう帰って、早く休む」
「どうせ、お前は休日も関係なく走り回っていたのだから、同じだろう?」
「何、それ?」
ぶつぶつ言いながら、加藤は話してくれた。
「ほんま、大盛況やったで。
サイモン夫人と鶴女ちゃんの人気は盛り上がりつつある。ええ手応え。すごかったゆうか、ひどかったとかゆうか」
「どういうことだ?」
「その寺子屋の部屋な、十畳しかないんや。机とか放り出して、立ち見とかさせて、五十人ぐらい、無理やりハコに詰め込み寄るんよ」
「それはいかんな」
「無理やり中に入れろとゆうのも多くてな、あんまり酷いから、大島さんも止めに行って、今日は本当にお疲れ様でした」
「大島さん、旅籠で早く休んだ方が良いと思うな。夜の十二時から門番というのに」
「僕もそう思う」
「大島さん、大丈夫か? ふらふらやで。無理したらあかんと思うけど? あの人、僕の話、なかなか聞いてくれないから」
「俺もそれとなく言っておく。大島さんに倒れられても大変だからな」
「今、不審な日本人がチャーリー・サイモン邸に入ってきた時の自治警察の見回りも増やしてもらえているきがやろ? 夜の門番はそれほど大切なん?
昼の門番ならば、よそさまが見て、『チャーリー・サイモン夫人ゆうのは大した勢いや。門番がおるで』とか噂してくれるかもしれんけど」
「いや、夜の警備こそ務めねばなるまい。昼間は巡査もおるし、それほど危なくない。だが、夜はそうはいかん」
そう久佐賀が言うと、加藤は肩をすくめた。
「見解の相違やね」
久佐賀は笑った。
最後に一つな、と加藤は言う。
いきなり冷たい口調。
「サイモン夫人だけでなく、鶴女ちゃんも今、すごい人気や。サイモン夫人は亭主持ちの貞女やけれども、鶴女ちゃんは若いし未婚の独り身やもん。今日だけで、いきなり婚約の申し込みするバカが五人おったで」
「本当か?」
ふと久佐賀は気づく。
少し離れて鶴女が今にも消え入りそうな泣き笑いで加藤と久佐賀の会話を聞いている。
久佐賀は問う。
「何が言いたい?」
「だから、な」
去り際に、加藤は裏拳で軽く久佐賀の肩をポンと叩いた。
「鶴女ちゃんは君がいなくても、もう大丈夫や。よかったよかった。
自分が助けてやらにゃあかんとか、君は変に思い詰めるな。
君はもっと自分の将来のことをしっかり考えや。君は何かを持っているって、君に賭けている奴は多いで。君が思っているよりも」
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時刻は午後六時に近い。
あと二時間ほどで、チャーリー・サイモン邸の久佐賀に夜の門番の仕事がまわってくる。
勤務時間は、八時から十二時まで。
十二時をすぎれば、大島と交代し、旅籠に直行して休む予定。
政府公用の旅籠で事情は前もって伝えてあるというが、旅籠の方も手間があって大変であろう。
とりあえず、旅籠に少し戻って、夕食を食べておくか?
待て待て。
俺は門番だけで手が足りない場合の予備として、四時から八時まで仮眠室に待機していなければならん。
おかしい。
それでは、これまで、この時間割の護衛をしていた壁山さんは、夕食をどうしとったのだ?
そんなことを仮眠室でつらつら考えていると、背後から鶴女の声が響いた。
「久佐賀くん」
振り向くと、メイド服姿の鶴女が四角形の木製トレーを両手にもって立っていた。スープ・サラダ・パン・肉といった洋風料理。
「夕食です。ここに置いておきますね」
そう言って、立ち去ろうとする鶴女を久佐賀は引き留めた。
「待ってくれ」
「え?」
鶴女に対しては言いたいことが久佐賀には沢山あった。
とりあえず、最初に。
「メイドは護衛のための食事を用意しないことになっていると俺は聞いていたのだが」
ああ、と鶴女は言った。
「内田先生が最初にお決めになった時間割だと、壁山さん、十二時に旅館に戻って寝たら、後は、朝の八時から夜の十二時まで、十六時間、チャーリー・サイモン邸からずっと外に出られないでしょう?」
「何だと?」
久佐賀はうめいた。
「そいつは気がつかなかった」
「お弁当もろくに買えない状態だから、特別に、壁島さんについては、私たちがお食事を用意しています。
それで、今日は久佐賀くんはこれまでの壁山さんの時間に働いているからも、久佐賀くんのためにお夕食を用意しました」
「壁山さんの時間割は、暑い日中の門番がないから少しは楽だと思っていたら、とんでもないな」
あらためて机の上の護衛たちの時間割を久佐賀は見直す。
「先週の昼間に野村先生や平岡先生が来た時、壁山さんが近隣の地図を覚えていないと内田先生から叱られていたけれども、無理じゃ」
それは、と鶴女は言った。
「壁山さんも、あの日、こぼしておられたわよ」
なるほど、と久佐賀はひとりごちる。
「鶴女は、けっこう、壁山さんから、色々と話を聞く機会があったのだな」
「ねえ、久佐賀くん?」
「何だ?」
「この仕事が終わったら」
一瞬、沈黙した後、鶴女は質問した。
「大島さんや壁山さんは、本当に、外交官警察に採用されるの?」
久佐賀は答えた。
「井上馨外務卿が確約なさったと電信を外務省司令部からもらっている。まず、間違いあるまい。無事に終わればという条件だが」
「無事に終わるといいね。壁山さんも、今回の仕事に必死のご様子だから」
「何か事情がおありのようだな」
「ええ」
鶴女は聞いた様子。
相手が年若な娘だからこそ口を滑らせてしまった話もあるはず。
口にせずとも、鶴女の表情が、それは深刻な事情だ、と物語っている。
詮索しない。
久佐賀は夕食を食べ終えた。
「ごちそうさま。本当においしかったよ。東京でも俺のような学生の身分では滅多に滅多に食べられん」
「お粗末さまです」
にっこり鶴女が微笑んだ。その言葉から、彼女が調理したのだとわかる。うまいものだ。
うまいと言えば、昼間に食べた夏のおにぎりもうまかった。
久佐賀は言った。
「昼間に夏ちゃんがつくってくれたおにぎりもいい塩加減だったよ。お前が教えたのか?」
「少しだけ。あの子はずっと家のお手伝いをやっていたから、最初から上手だった」
「すごいな」
「ええ」
そうだ、と鶴女が言った。
「今日の昼間は、夏ちゃんに読み書きを久佐賀くんが教えてあげたの?」
何となく久佐賀は照れ臭かった。
「うまいおにぎりを食わせてもらったのだから、お礼をしなければいかんよ」
「お礼」
と言ったきり、鶴女は口を閉じる。
何かが嚙み合わない。
仕方なく久佐賀は少し話題を変える。
「夏ちゃんはずいぶん勉強を頑張っているよ。偉いものだ。あんな小さい子が生き抜くために自助努力をしておる」
「そうね。でも、あたし、思う。いつか夏ちゃんに教えてあげたい」
鶴女は言った
「他人の好意に甘えて頼って素直にすがりつくことができることだって、本当に素敵なことよ、本当よ。
甘えて頼ったら相手が傷つくとわかっているから頼らない。それは優しい気持ちから来ていることは相手にも伝わる。
それでも、貴方に頼っても無駄だと思っているという突き放した気持ちだって、相手に伝わる。それだって相手を傷つけることもある。
無邪気に頼ったことで、相手に最初の一歩を踏み出す勇気を与えることだってある。それを信じられるだけでも、本当に素敵なこと」
ちょっと待て、と久佐賀は笑った。
「洋学校の頃、俺に対しても似たような説教してくれたな? 一人で頑張ることも素敵だけど、他人に頼って質問することも素敵だとか」
「ごめんなさい、私、あの頃は偉そうで」
謝る鶴女に向かって、
「いいんだ」
と久佐賀は言った。
退屈したサイモン夫人が鶴女のことを呼び戻しに来るまで二人で話し込んでしまった。




