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第十一話 それだけの話

 八月八日。

 チャーリー・サイモン邸に出勤した久佐賀は、朝から、少しばかり憂鬱だった。

 ひとり呟く。

「やれやれ、犬養さんか」

 この日は、一人の有名な新聞記者がチャーリー・サイモン邸を突如として訪れた。

 つい昨年まで、慶應義塾に在籍していた先輩。

 犬養仙次郎。

 後に、五・一五事件で暗殺された犬養毅である。

 目的達成のために役に立つと思った手段を、ほとんど検討することなく、迅速に次から次へと試していく。

 成功するときも失敗するときも華やか。

「ちょっと苦手なんだよな」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 欧米の新聞社向けのサイモン夫人の記者会見を外務省は八月二日に準備した。

 その同日の八月二日に、井上馨外務卿が壬午軍乱の処理のために馬関(下関)に移動するという非常事態が発生してしまい、外務省はサイモン夫人のために時間と労力を割きにくくなった。

 サイモン夫人を使った具体的な宣伝活動は、本来の通詞であるところの久佐賀と加藤に押しつけられた。

 通常ならば何ともならないところを、加藤が異常な能力を発揮した。

 慶應義塾の学生である加藤は、慶應義塾出身の郵便報知新聞社社長、矢野龍渓と個人的面識があった。

 ━━日本公使一行に救助された米国美女も、朝鮮の腐敗を憎み、かの地に文明の光がもたらされることを期待している━━

 それは、郵便報知新聞にとっても報道する価値のあるものであった。

 サイモン夫人を直撃取材するために郵便報知新聞社は、犬養仙次郎記者を長崎に派遣した。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 犬養が長崎のチャーリー・サイモン邸にやってきた。

 そして、気持ちよく久佐賀に対して先輩風を吹かせる。

 上から目線で、

「ふん、久佐賀よ、今日はお前が通詞をやるというのか? くだらん間違いがあると承知せぬぞ。子どもの頃に熊本の洋学校に貴様は通っていたというが、通詞としての専門の教育を受けておらぬだろう?」

 と言う。

 それぐらいのことを言われることは、久佐賀も事前に予想していた。 

「本日の会見の通詞は、こちらのご婦人がつとめます」

「はじめまして、犬養さま。五岳鶴女と申します。本日に通詞を務めさせていただきます。未熟者ですが、よろしくおねがいします」

「これは」

 犬養は息を飲む。

 淡い薄紅地に白の幾何学図形模様を大胆にあしらったサイケデリックな振り袖。

 欧米人の日本土産用途に合わせた長崎の地ならではの意匠であった。

 加藤が見立て、ポケットマネーで鶴女に買い与えた。

 さほど高いものではない。

 その振り袖は、微妙なバランスで、優等生少女の楚々とした可憐さに、不思議な存在感をまとわせつつ、上品に引き立てていた。

 先輩の仰天ぶりを、久佐賀は愉快に思った。

「鶴女は、昨年に、長崎外国語学校(注意・鶴女の入学した時点では長崎英語学校という名称)を卒業したばかりの者でございまして、英語の通詞になるための専門の教育を五年間も受けています。

 現在、彼女には、サイモン夫人の身の周りの世話を頼んでおり、サイモン夫人との仲も良好です。

 長崎の学校では、幅広い話題に合わせる和漢洋の知識の教育がなされており、鶴女に任せておけば安心ですよ」

「不思議な意匠だな」

「これは加藤さんが私のために用意なさってくれました。記者会見などで、サイモン夫人の横に私が並んだときに、サイモン夫人の洋服が映えるように、とのことです」

 鶴女は不安そうな表情を浮かべた。。

「いや、よく似合うとるよ。とても綺麗だ。加藤め、さすがに置屋の息子なだけある。奇怪な才がある」

 犬養は感嘆した。


「あんたみたいな若く綺麗なお嬢さんに通詞していただくなど、何か、恥ずかしい心地がするな。英語ならば、わしもいささか話せるつもりだが」

 塾内では毒舌家として名を馳せていた犬養弥次郎先輩が、鶴女に対しては打って変わって柔らかく丁寧な言葉遣いになる。

「犬養さまも福沢先生の塾のご出身だとうかがっております、それは大した英語の力をお持ちでしょう。

 しかしながら、サイモン夫人は、朝鮮の戦乱でご主人と生き別れになって、ずいぶん心細い思いをなさっておられる年若い女性です。

 あの方のお相手をするには、あの方の心を不用意に傷つけることのなきよう格別な言葉選びが要るものになります。そういったところにおいて、私は微力ながら犬養さまの取材のお手伝いをさせていただきたく存じます」

 鶴女の語り口は、控え目なものであったが、それでいて、知性と意思を感じさせた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 応接間にサイモン夫人が姿を現す。

「はじめまして、チャーリー・サイモンです。日本の皆さまの温かい人道的な援助に感謝します」

「こちらこそ、はじめまして。東京の郵便報知新聞社に所属する記者の犬養弥次郎と申します」

 と、犬養。

 この日のサイモン夫人は薄い青色のロングドレスに身を包んでいた。

 美しい金髪は、壬午軍乱の朝鮮半島から避難中にバッサリ切った、七月三十一日の欧米の新聞社向けの記者会見の直前に見苦しくないように刈り揃えられている。

 美しい女性は、女性性の記号である髪を短く切っても、なお美しいとと言われる。

 チャーリー・サイモンは、まさにそういった類の米国美人であった。

 横に付き添うのは大和撫子、五代鶴女。

 サイモン夫人の衣装がパステルの青の洋装ならば、鶴女の意匠はパステルの赤の和装。

 鶴女の振り袖の奇抜な感のある白い幾何学模様は、サイモン夫人と並んだ時に影が薄くなる鶴女の存在感を強めつつ、遊びを感じさせる。

 そして、正統派のドレスを着こなすサイモン夫人を場の主役として立てようという意思を示す。


 この日のサイモン夫人と犬養記者との会見は嚙み合ったと言うべきか。

 東京の郵便報知新聞社の読者がまさに求めるような話を、サイモン夫人は語った。

 別に迎合したわけではない。

 地獄の朝鮮半島から日本に生還するために、花房義質公使一行は民間人を守りつつ、力戦奮闘した。

 サイモン夫人は語る。

「花房公使を守るような形で外務省警察の巡査が銃で撃たれて死にました。彼は、まだ少年でした」

 宮鋼太郎。

 外務省二等巡査。

 死亡の事由は、弁理公使花房義質を護衛中に戦死。明治十五年十一月二日靖国神社合祀。

 実際のところ、彼は久佐賀よりも一歳年下の少年だった。

「サムライの血筋をひくという日本人留学生は、志願して戦闘に参加し、刀で何度も切られ、最後には、私たちに『今回の件を祖国に伝えてくれ』と言い残して、自らの生命を絶ちました」

 近藤道堅。

 私費語学生。

 死亡の事由は、袈裟かけに二箇所重傷を負い自刃。明治十五年十一月一日靖国神社合祀。

 涙がサイモン夫人の目をこぼれた。

「年少者でも、民間人でも、日本の皆さんの誰もがあまりにも素晴らしい勇気をお見せになるものだから、私の夫も耐えられなくのなったでしょう」

 ジャン・サイモン。

 在上海アメリカ公館雇朝鮮語通詞。

 八月五日時点では、生死不明。

 日本の男たちの勇気を見せつけられて血が騒いでしまったのだろうな、と久佐賀は思った。


 犬養は無遠慮に質問をぶつけた。'

「普通に考えれば、金髪碧眼の白い肌をしたジャン青年は朝鮮半島では目立ちますよ。うまく逃げ延びて生存している可能性は少ないと思いませんか?」

 鶴女はハラハラした表情を浮かべるが、その質問をそのまま伝える。

 サイモン夫人は、一瞬、表情を強張らせた。

 しかし、すぐ笑顔をつくる。

「ジャンは夫であり、私は彼の妻です。彼は必ず生きています。もしも、私が彼のことを信じなくて、他の誰が彼のことを信じるのですか?」

 涙がこぼれる。

 そけでも、笑顔を保ちつつ、犬養の目を見据える。

「そうですな。まことに失礼しました。あなたが彼を愛していることはよくわかります。そして、あなたにそこまで想われている彼もきっと幸せでしょう。ところで、あなたのご家族はどうなりました? お父様とお母様は?」

 犬養は質問を続ける。

 サイモン夫人は肩をすくめた。

「父も母も上海に健在ですわ。父は在上海アメリカ公館職員です。そろそろ公使館経由で私のところに頼りを寄こすでしょう。『上海に戻ってきなさい』と」

「戻られるおつもりは?」

「ありません」

「理由は?」

「私は一人の成人した女性です。そして、彼らの娘であるよりも先に、ジャン・サイモンの妻です」

「ほう」

 女性をか弱きものとして扱う犬養からすれば意外な答えであったはず。

 サイモン夫人は微笑する。

「私は、愛する男と共に生きることを選びました。それだけの話です」


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