第一話 プロローグその一 壬午軍乱
七月二十三日。
一八八二年の朝鮮半島において、大規模の軍の反乱がおきた。
壬午軍乱である。
後に朝鮮政府が日本側に提出した「兇徒調書」によれば、ある兵士に対する給料としての支給米が米でなく石であったことから反乱につながったとする。
壬午軍乱の反乱のキーワードの一つは、米だ。
史実の確認として、それに先立つ一八七五年の江華島事件から語ろう。
日本政府が前年に通達した日本国旗について朝鮮政府が江華島の役人に伝達し忘れていた(他の場所では、日本国旗で大過なく給水できている)。
そんな朝鮮側の不手際から、ただ給水に来ただけの日本の小型砲船一隻に、朝鮮兵士は一方的に攻撃を仕掛け、やむなく日本側が反撃に及んで圧勝した。
江華島事件後の日朝修好条規を契機にして、日本の公使が朝鮮の首都の漢城に在中し、朝鮮から日本への米輸出が始まった。
朝鮮の農民と米商人たちは、これを商機とみて、米価を不当に釣り上げた。
人道的な見地から朝鮮の米の飢餓輸出を抑制させるべく、一八八二年の四月から花房義質公使が関税交渉に乗り出していた。
━━輸出関税をかけて日本に売る米を高くして、朝鮮から日本に米を流出しにくくする方策を講じたらどうだろうか? 今の朝鮮半島の庶民の惨状は日本人でも見るに忍びない。むしろ、日本が米を送ってやってもいい━━
余計なお節介。
少し信じがたい話であるが、日本の公文書「代理公使朝鮮日記/2 明治10年9月9日から明治10年11月30日」にもその話が書かれている。
━━幸いに本年は我が国に於いては国内諸穀物豊穣なので余米も少なからず、もし貴国に於いて救援を要するならば、自分は我が政府に言って周旋尽力すべきにより、貴殿には貴政府へ具申し人民の活路を開かんことを勧め、その後近藤管理官もまたその事を再三貴殿に切言す。しかるに数百万の人民飢え且つ死するを座視し、貴政府は一言もその件に触れなかったのは、貴殿から政府に言わなかったのか。また具申しても政府はこれを用いなかったのか。ああ、なんと数百万の民餓死し政府はそれを座視してこれを救う道を求めずとは━━
続けて、
━━朝鮮に来てから貴政府が各地で自分を接待するに毎食数十品を下らず。その厚遇感謝に堪えずといえども、食膳に向かうごとに飢餓民の事を思い味もなく喉も下らず、これによって毎回接待を辞退せり。しかるに地方官は上の命令であるからとこれを強いて、撤しなかった。以後は改めて固くこれを辞退する━━
とも述べている。
小さな村で村長が一瓶の濁り酒と一匹の干し魚だけで接待したことにかえって好感を持つ。
明治日本の外交官。
日本側の資料である「在朝鮮国領事副田節東莱府使公書ヲ奉シ来館ノ始末ヲ報ス」には朴永圭(閔泳翔の腹心)の証言が記載されている。
突発的な給米問題を契機にして暴動を起こした兵士たちが、前国主である大院君に、暴動についての赦免の執り成しを求めたころ、大院君はかえって暴動を反乱にするように扇動したという。
壬午軍乱の終了後に日本の井上馨外務卿は花房義質公使に対して、壬午軍乱についての大院君の回文を探すように求めた。
見つからなかった。
いちいち連絡しなくても、反乱の準備は事前に整っていたのだろう。
大院君は、十年前の宮中クーデターで政権の座を追われてから、しきりに反乱を企てていた。
朴永圭の言によれば、前年にあたる一八八一年の五月(朝鮮歴)にも八月(朝鮮歴)にも、大院君は反乱を起こそうとして、未然に防がれたという(綾南萬人琉と李載先獄事?)。
壬午軍乱時に清国の天津にいた朝鮮人高官の魚允中や金允植は、清国側からの問い合わせに対して、本国からの情報が何もない段階から「きっと大院君の仕業に違いありません」と答えている。
朝鮮人たちにとって季節の風物詩みたいな認識だったのかもしれない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
反乱軍は前王である大院君を担ぎ出し、刑を受けていた守旧派を赦免した。
漢城では八日間も無差別の流血が止まらなかった。
「こんな国だ」
ジャン・サイモンは言った。哀しそうだった。
彼の母親は朝鮮人であった。
父親は布教のために朝鮮に潜入したフランス人司教の従者である。
一八六六年三月の丙寅教獄で両親ともにキリスト教信者として摘発されて刑死している。
二年後に一八六八年の撥陵遠征隊の帰還時にアメリカ人隊員に保護されて九歳で上海へ移住した。
それから、成人後に、朝鮮語の能力を買われて、在上海アメリカ公館の通訳となった。
一八八二年の七月の時点で、在朝アメリカ公館設立の準備のため、ジャンは漢城南部の龍山地区の日本人街に送り込まれていた。
ジャンの年齢は二十三歳。若くて行動力がある。朝鮮語に堪能。朝鮮人キリスト教信者を通じ現地にもコネクションを持っていた。
「逃げましょう」
ジャンよりも年齢は一つ歳上の妻、チャーリー・サイモン。
父親が在上海アメリカ公館の職員で、ジャンよりも先に上海に住んでいた。年齢が近く、子どものころから二人は親しく、今年になって結婚した。
「私たちも早く逃げなければ殺される」
サイモン夫妻は船による脱出を考えた。
二人で危険な首都・漢城を逃れ、その四〇キロほど西の港湾都市である仁川まで辿り着いた。
その折に、同じく半島を脱出しようとしていた日本人公使館一行に、幸運にも合流することができた。
「ジャンくん」
「公使」
ジャンのことを日本人公使は覚えてくれていた。朝鮮語に堪能な白人青年が在朝アメリカ公館設立の準備に携わっている。彼はユニークで目立つ存在であった。
若いサイモン夫妻にとって、まさしく神の助けのように思えた。
公使一行と共に仁川で府使みずからに公使休憩所に案内された。
その夜のうちに護衛としてつけられたはずの府兵たちの夜襲を受けてしまった。
公使一行は、府兵と暴徒たちを散開しながら迎え撃った。
多角的な銃撃と抜刀による突撃で暴徒を混乱させて巧みに足止めを図った。
その日本人たちの戦闘に、ジャンは、勇敢にも━━もしくは無思慮にも━━、若さにまかせて参戦してしまう。
ジャンは日本語がわからなかった。
それでも、彼は、自分の妻を戦闘に参加しない者たちのグループに残し、飛び出していった。
個々の兵士の判断で現場で連携できるという日本人の戦闘スタイルにつきあうためには日本語が重要であった。
現場で示し合わせてしまう日本人たちの最終的な集合場所に、ジャンは辿りつけなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
七月二十五日。
日本公使一行は、小舟で済物浦から月尾島に渡り、日本帰還のための大船を強雇することに成功した。
もはやジャンを待っている余裕はない。
日本人たちは別に悪くない。彼らにとっても彼らの生命がかかっている状況だった。死者は少なかったが負傷者は多く出ていた。
チャーリーは泣き叫んだ。
「私はジャンを待ちます」
「十分に待ちました。これ以上は無理です」
「この島に私を残してください」
「貴女を死なせるわけには行きません」
日本のハナブサ公使は、気が動転した若いアメリカ女を説得するべく最大限の努力をした。
チャーリー・サイモンは頑固に首を横に振り続けた。仕方ない。最終的には、腕ずくだ。無理やり抱きかかえれるようなかたちで、チャーリーは漁船の中に連れ込まれた。
その後、海上を漂流しているところを七月二十六日にイギリスの測量船フライングフィッシュ号に保護され、七月二十九日、長崎と呼ばれる日本の港に辿り着いた。
どうにかチャーリーは生き残った。
朝鮮半島に残された夫ジャン・サイモンの生死は不明のまま。
ルーシャス・ハーウッド・フット
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%88
古代・中近世史 総史(外務省資料)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf
近代朝鮮歴史゛
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1921016
明治開化期の日本と朝鮮(3)
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi014.html
明治開化期の日本と朝鮮(5)
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi016.html
明治開化期の日本と朝鮮(13)
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi024.html
明治開化期の日本と朝鮮(18)
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi029.html
明治開化期の日本と朝鮮(20)
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi031.html
明治開化期の日本と朝鮮(25)
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi036.html