あのクソ野郎の顔面に熱々のお茶をぶっかけたい!
「あのクソ野郎の顔面に、熱々のお茶をぶっかけてやれば良かったぜ」
俺は500mlの缶ビールを一気に半分ほど飲むと、甘ったるい息と一緒にそう吐き捨てた。
「いや、それだけじゃ生ぬるいな。茶碗を口の中に押し込んで、顎に膝蹴りを食らわせてやったらどうだろうな? あの野郎、血を吐きながらのたうち回るんじゃねーか?」
更にもう一口流し込む。続けて唐揚げを口の中に放り込み、カリカリの衣を噛み締めると、熱々の肉汁が溢れ出る。
時刻は22時、残業を終えて帰宅した俺は、妻が揚げてくれた唐揚げを頬張りながら、ビールを流し込み、白飯をかっ込む。
6歳になる息子は既に夢の中。
教育上良くないであろう口汚い罵りの言葉だろうが、アルコールを含んだ甘ったるい息だろうが、何を吐き出したところで咎められる筋合いはない。
「仕事で、何かあったの?」
カウンターキッチンで味噌汁を温め直しながら、妻が尋ねる。
「いや、取引先にほんとクソみたいな輩がいてな。ほんと頭に来たんだよ。こっちが金を払ってるからって、自分の方が偉いって思ってやがる。俺たち業者をバカにしてるんだよ」
俺は橋の先を唐揚げに突き刺し、そのまま口に放り込む。カリッと揚がった鶏皮がジューシーだ。生姜とニンニクの香りが鼻腔を抜ける。
「大変だったのね」
「ほんとにな」俺は大口を開けて笑う。口の端から衣の破片が飛んで、御盆の上に転がった「あの野郎、上司には逆らえないもんだから、そのストレスを俺たち取引先にぶつけてきやがるんだよ。それって八つ当たりだろ。情けないもんだ」
「そうね」
妻は食器を洗い始める。
「こっちの都合も考えず、強引に無理難題を押し付けてきやがる。こっちはあいつらの我儘に付き合うほど暇じゃねーんだよ。相手の状況ってのを全く考えちゃいねえんだ」
「ほんと、ひどい人ね」
食器を洗い終えると、妻は息子の幼稚園の準備を始める。ハンカチやティッシュを確認し、運動服や食事セットをカバンにしまう。
「それに発言がいちいち重箱の隅を突いてくるんだよ。どーでもいいような事を指摘して、それに対してペコペコ頭を下げてる様子を見ながら悦んでるんだ。最悪のサディストだね」
唐揚げを食い終え、満腹な俺は少しだけ溜飲が下がる。アルコールもいい感じに回ってきて、なんか全てがどうでも良くなってくる。
とてもいい気分だ。
息子の水筒に麦茶を注ぐ妻の後ろ姿を見ていると、体の中心に火照りのような感覚が芽生える。若い頃から慣れ親しんだ、あの感覚だ。
子供はもう熟睡しているだろう。おあつらえ向きではないか。
「今夜、久しぶりにどう?」
妻の下半身を眺めながら言う。
妻は困った顔で笑うと「ごめん、今日は疲れてて」と返した。
「疲れてて、って‥‥俺の方が疲れてるよ」
気のない返事に、俺は苛立ちを覚える。
仕事で嫌な相手に頭を下げて、ストレスを溜めながら仕事しているってのに、それを理解していないのだろうか。俺がこの家の大黒柱だろうが。
「ごめんね。今日は幼稚園の行事で」
「幼稚園の行事なんて知らねーよ。どうせ他のママさんと駄弁ってるだけだろ?」
「そんなことーー」
「専業主婦同士の会話なんて、何の生産性もないじゃないか」
妻は何も言わず、俺の食器を片付け、台所で電気ケトルに水を入れてスイッチを入れた。さっきまで魅力的に映っていた妻の肢体も、興が削がれた今となってはただの不恰好な肉の塊だ。
「それに、今日の唐揚げ、ちょっと衣が足りなくねーか? 俺は衣がもっとガリガリのやつが好きだって、前に言ってただろ?」
「ごめん」
妻はそう一言呟いた。
ただその口の端が妙に吊り上がっているように見えたのは、照明による陰影の仕業だろうか。
しばらくすると、カチッと言う音がしてお湯が沸いた。
何をするのかと見ていると、妻は茶碗にティーバッグを入れ、熱々の湯をそれに注いだ。
お詫びのつもりでお茶でも入れてくれたのだろうか? 少しは、気が利くじゃないか。
案の定、妻はその茶碗を俺の前に置く。
今日の打ち合わせで、俺の前に出されたのと同じ、熱々の緑茶だ。
自分のストレスを無関係の誰かに八つ当たりして、相手の事情を推し量る想像力もなく、重箱の隅を突くような嫌味ばかりを言う、最低のクソ野郎の顔面にぶっかけ損ねた、あの熱々の緑茶だ。
「ふん」
鼻息を鳴らして、俺は緑茶に手を伸ばす。
しかし、それより早く、妻の手がその緑茶を奪いーー
熱々の緑茶が宙を舞った。
一瞬だけ見えた妻の顔は、満面の笑みだった。
なかなか人格に難がある取引先の担当者を相手に悪戦苦闘しているのは本当の話。でもそんなふうに悪態をついてる自分だって、側から見るともしかしたら‥‥? そんな教訓を込めて、仕事終わりの夜に勢いで書きました。