8月4日に出会った彼女 8
中学二年のとき、ブルース・リーの好きな飲み物を教えてくれたのは、小さな我が田舎町の冴えない先輩だ。背が低くて小太りだった一学年上の先輩は、彼らの学年に於いていわゆる「パシリ」という存在で有名だった。同級生からの扱われ方、接し方などあらゆることが本当は嫌だったろうけれど、自ら「率先する」こともあったようで、それはもちろん彼なりの回避術に他ならない。テスト中に全裸で校内を駆け抜けたり、AVビデヲをCDへ焼き直したそれを持って放送室に立てこもり延々校内放送で流し続けた件などは、当時の在校生のみならず教員や事務員の誰もが忘れられない出来事だ。でももっともっと沢山の、時には陰湿だったり暴力的だったたりがあったのだと思う。そういうことを彼は最後に清算することになるのだが、いずれにしろその先輩は、ぼくら後輩にちょいちょい威張ることがあり、当然ぼくらは大概ムカついたものだ。しかしあのころのぼくらは、彼らの学年とは違いかなり平和で、ともすればヒヨってもいたから反抗できる者は一人もいなかった。
彼はあるとき、親の財布からくすねてきた小銭でぼくら後輩におごってくれたことがある。体育祭の振替休日だったと思うけれど、それは確かではない。とにかく季節は初夏で学校が休みの日だった。大人になり都会に出るまでそこら中に漂う緑の匂いが実は貴重なものだとは思いもしなかったぼくらは仲のいい四人で、いつもダラダラしている河原の正方形をした広いベンチにいた。乾いた空気と新緑の風が気持ちいい昼過ぎのことだった。そこに彼は現れたのだった。偶然の振りをしていたけれど、ぼくらがいることを予想し、また期待していたような気がしたのでぼくらは歪めた顔を互いに見あった。
ぼくらをベンチから立たせて一人で座り、町の中心地となるバスターミナルにある、古い酒屋で「親から頼まれた」と嘘をついて缶ビールを買って来いと命令した。もうとっくに酒類の販売に関し「未成年者へはうんぬんかんぬん」とされ始めた時代だったが、老夫婦の二人が商うそこは「自分で飲んじゃだめだよ」と言うだけで、お酒も煙草も売ってくれることで有名だった。我が田舎町の未成年者は向かいに出来た大手コンビニで万引きなどせず、緊張感すら持つことなく簡単に手に入れられた。
ぼくらはジャンケンをして、負けた一人が買い出しに行き、350mlの缶ビールを五本買ってまたベンチに戻ってきた。先輩が音頭を取りみんなで「乾杯」しプルリングを押し開けたときはさすがに高揚した。正月や家族の誕生日以外で、しかも親のいないところで初めてビールを飲んだ。しかしこれまで何度か口にしていたときよりも遥かに不味く、高揚感はすぐに薄れていきその場にいた全員も同じようだった。半分ほどは飲んだが、普段よりも気が大きくなっていた(5%のアルコールによったのだろう)ぼくは思い切って「もう捨てていいですか?」と切り出してみた。意外にも先輩は、そうだな、クソ不味いし親の金だしな、と笑いぼくらは驚いたものだ。
残りのビールを川に流し、ついでに空き缶も緩やかな流れの中に投げ捨てた。先輩は、煙草をうまそうに吸いぼくらにも勧めた。今度は違う友人が断った。友人も普段より気が大きくなっていたのだ。先輩はニヤッと笑い、それだけだった。
いつの間にかぼくらはもう立ってはいなく五人でベンチに座っていた。今思えば結構たのしい時間だったような気もする。
その日の最後に先輩は再び、親からくすねてきたお金でジュースをおごってやる、と言い出し、午後の五時に解放されることを驚いた。きっとその日は何かがあったのだろう、と後になるとよく分かる。
一番近い自動販売機でジュースを選ぶとき、一人が7UPのボタンを押した。なぜだか今日は恩赦続きの先輩は言ったのだ。
「お前のそれ、ブルース・リーが好きな飲み物なんだよな」
ぼくらは適当に返事をしたのだったが、ぼくはブルース・リーの好きな飲み物が7UPソーダであるという、その語感的なモノがちょっと気に入ったことを覚えている・・・・・・というか今夜久しぶりにそう思ったことを思い出した。
ベンチの傍に倒していた自転車に乗るとき、これまで脱いでいたパーカーを着直して小便を少し我慢しながらぼくはアクエリアスのボタンを押した。そしてお釣りを先輩に返した。そのとき・・・・・・そうだ、ぼくは迷ったのだ。確かにぼくは迷った。
「なんかいつか思い出すような気がします」
でも口にはしなかった。おごってもらった今日そのものだと思われるのは違うし、違うと言えば怒られる気がした一方で、ブルース・リー云々だと言えば、同級生から不思議に思われるかもしれなく、むしろそんなことまでいちいち、こんな先輩に「よいしょ」なんかするなよ、と思われてしまう気がしたからだ。とにかくあの場面で一番大事なことはこのまま、せめて今日だけでもいいから何事もなく解放してもらうことだった。
二学期の期末テスト中に全裸で校内を駆け抜けた先輩は、母子の出自と母親の足の不自由を黒板に書き出すほどのレベルで揶揄し始めていた同級生のグループと、桁違いのモメごとを起こす決意をどこかの時点で決めてしまい、実際に決行したのだった。
・・・・・・寒い曇り空の下、無駄に広い校庭には小さな田舎町を煽るように喚いて駆けつけた救急車が一台と複数のパトカーが裏門から乗りつけた。
学年の違ったぼくは、冬はいつだってガス・ストーブで過剰に暖まる教室に出来た、新鮮な血溜まりこそ見ることはなかったけれど、騒然とする廊下を駆けてきた情報通の友達の誘いを断り、どうしてか彼の姿を待っていたかった。
一台だけ正門に横づけされているパトカーへ、小太りの背を丸めて乗り込む彼の姿を、廊下の窓から見ることが出来た。もちろん声など掛けることはなかったのだけれど。
校庭に出ていた友達は、顔全体が蒙古斑のようになりストレッチャーへ横たわる、救急車で運ばれた側の先輩の話にしばらく興奮していたものだ。
校舎の非常ベルが鳴った五時限目の出来事は今もはっきりとよく覚えている。その一方で、7UPとブルース・リーの関係はすっかり忘れていた。とは言え、あの時、口にしなかった「予感」はやはり正しかったのだろう。すっかり忘れていた語感を、ダイソーのトートバックに思い出したのだから・・・・・・