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「結局、設定どおりですわね。」
ブランシェは人払いの済んだ自室で紅茶を飲みながら先ほど泣いてしまった気恥ずかしさから誤魔化すように独り言ちる。母は父も婚約解消に乗り出すだろうと言っていたが、恐らく解消は成立しないのだろうと思う。
だがもし、婚約が取り消されるのであれば、ブランシェはゲームの強制力はスチルだけに働くのだと確定することが出来る。
ゲームの中のフェリクスは完璧な婚約者に引け目を感じながらも万事をそつなくこなす、少し憂いを帯びたメインヒーローだったため昨日の姿とは少し違うように感じる。これから学院に入るまでの二年で彼自身が変わる可能性も大いにあり得るのだが。
「ヒロインと恋に落ちようが、婚約破棄をしようが構いませんけれど、グラニエ領を無駄な危険にさらしたくはありませんし。設定から外れるために勉強をしないという選択肢は…。公爵家を継ぐ以上、無責任なことはできませんわね。
あぁやだ、独り言が多くなってしまいますわ。唯一辞められるお勉強と言えば魔法くらいかしら。どうせ、大したことはできないのですし。」
ブランシェの魔力量の少なさから、魔法の訓練は小さな花壇に水やりをするような練習しかしていない。
教師からはイメージしている場所に想像通りの水量を出せているだけで同年代のなかでは断トツの制御技術だと言われているが、平民レベルに少ないブランシェの魔力量ではバケツ一杯分の水を出すことで精いっぱいだ。
そして、この世界の魔法でブランシェ程度の魔力で扱える魔法といえば入門レベルの水やりが限界だそうだ。しかも、出せる水量はごくわずか。それ以上の魔法は唱えても魔力が足りず、発動することすら出来ないのだそうだ。
だがもし、ブランシェが言葉通り天才なら、生成した水は自由自在に操ることが出来るのではないだろうか。思いついたらやらないという選択肢はブランシェにはない。
「水よ」
目を閉じ、想像したのは手のひらに水球を浮かべる様子。普段はここから、水の初級魔法の呪文を唱える、シャワー状に水を撒くのだが、今回はただの水球を動かすことが目的なのであえて呪文を唱えることはしない。目を開けるとそこには想像通り澄んだ水球が浮かんでいた。
「伊達に完璧な悪役令嬢ではないのですね。この世の魔法は魔力量のせいで唱えられないけれど、制御だけは思うがまま、というわけですか。これもゲームの強制力なのだとしたら馬鹿みたいですけれど。」
手のひらで思うがままに水の形をグルグルと変えながらゲームのご都合主義に笑ってしまう。
この様子だと学ばずとも万事が出来てしまうのだろう。これまでの努力は何だったのかと、つい思ってしまった。成果を出すために必死に過ごしてきた今までは何だったのかと。
恐らく統治に関する勉強をやめたとて、一度学んでしまえば最高の結果を出すにちがいない。今の自分の顔には自嘲気味な笑みが浮かんでいるのだろう。
そのとき扉の叩く音が聞こえた。すっと表情を消し、入室を許可する。
「お嬢様。リズです。」
「入りなさい。」
リズはブランシェの手のひらに浮かぶ水球を見て目を丸くした。
「お嬢様はもうそんなに魔法になれていらっしゃるのですか。流石、お嬢様は天才ですね」
リズは純粋に褒めてくれているだろうに先ほどまでの考えが自分を卑屈にさせてしまう。
「ねぇリズ。もし、わたくしが天才だとして、何でもできたら、それは凄いことなのかしら。なんでも知っているのなら、何の意味があるのかしら。」
リズはグラニエ家の侍女としてブランシェが生まれたときから見守ってきた。今では不釣り合いなほど大人びてしまった少女も、幼いころは年相応に我が儘なお姫様だった。
お姫様が周囲の大人の子供じみた嫉妬によって、お嬢様に変わっていく姿を見守ることしかできない自分に無力さをかみしめたこともあった。
いっそ、この小さなお姫様が正しく大人の悪意を理解できる聡明さを持っていなければと、考えてしまったことさえあった。
今のお嬢様は、そのときの姿にかぶって見えた。
当時の、全てをあきらめてしまいかけて、迷子になっていそうな姿が。
リズはブランシェの前に跪き、両手を包み込んで小さなお嬢様に微笑みかけた。
「お嬢様。リズはお嬢様を生まれたときから見守ってきました。確かにお嬢様は天才です。
講師の方々も自慢げに仰っていましたから、お嬢様が一度で多くを理解なさる方だということも存じております。そのうえでお嬢様ほど愛らしく、努力家な人を私は知りません。」
「でもきっと、練習しなくても上手くやれたと思うわ」
「そうかもしれません。それでも日々の努力を怠らなかったから、時に涙をこらえて練習していたから、お嬢様のカーテシーは美しいのです。
知っていますか?今のお嬢様のカーテシーはドレスの流行を作りうるのですよ。
いつもドレスをお願いする工房のデザイナーさんがおっしゃっていました。
お嬢様のカーテシーを見た際のドレスがとても素晴らしくで、ぜひうちの娘にも、と注文が増えるそうですよ。昔のお嬢様のカーテシーも完璧ではありましたが、今のお嬢様は身に纏うものの魅せ方さえも考えられているのです。
それは鏡に向かって何度も何度も繰り返し練習を続けた賜物だと、リズは思いますよ。」
「ほんと?」
「本当ですよ。完璧であることと魅力的であることは少し違うのです。
ほら、お嬢様が知らないこともあったでしょう?リズはお嬢様よりもお嬢様のことを知っていますよ。
旦那様の書斎に忍び込んでこっそり珈琲を飲んで顔をしかめたことも、バニラアイスの食べ過ぎでお腹を壊したこともありましたね。」
「い、いつのことを話しているのよ!」
「私たちグラニエ公爵家に仕える者にとっては完璧なお嬢様も昔のおてんばなお姫様も、どちらも愛してやまない大切なお嬢様ですよ」
にっこりと笑うリズから顔を背け、すっと立ち上がったブランシェはもう迷子ではなかった。
「わたくしはブランシェ・グラニエですもの。グラニエ公爵家の娘として完璧であることに不満なんてありませんわ。」
ゲームのためだと思うと少し癪だが、逆に利用してやるのだ。
「リズ。街に出る準備を。」