第二話
碧色の水を湛えた大きな湖に面するように、巨大な城郭都市が築かれている。白亜の城壁に、赤砂岩を使い何本も横縞の装飾が施された独特な城。
よく他国で見られるような円塔はなく、多角塔が周囲に巡らされているという点でも珍しい建築様式だった。
風の神フォン=ティエンを国神とする、セルト王国の王都クレスセルトだ。
賢王シルクスによって著しい発展を遂げ、ここ十数年で文化や技術など、すべてにおいて他国の水準をはるかに上回った。
先進国セルトの中心であるこの街には技術者や学者など多くの専門家が集い、たいそうな賑わいをみせている。
既に陽は落ちたというのに勤勉な専門家たちがあちこちで精力的に働き回り、それに負けじと、街の人々は精力的に遊んでいた。
「うわあ。すごいねえ。私の住んでるファーラント・ビューロも人は多いけど、ここって格別だよね。すっごく賑やかというか忙しそうというか」
フィアセルは街に入ると、きょろきょろと辺りを見回しながら感嘆の声を上げた。
ファーラント・ビューロは、どちらかといえばのんびりしている。大陸を代表する神殿を有しているので、参拝者や観光客は大勢訪れるが、そういう人種はいたって長閑だ。
だから、この街は活気がありすぎだと思うのも仕方が無い。
「げ、元気、です……ねえ……」
ぜはぜはと息を切らせ、ロンは恨めしそうに少女を見やる。
朝から夜までほとんど休み無く歩き続けたのだ。それも、フィアセルの歩く速度の速いこと。自分がついてこられたのが不思議なくらいだ。
「ふーん、本当に体力無いんだね。男のくせに、だらしないぞ」
「ぼ、僕は……体力なんかなくても、知識があるから……いいんですよ」
死病ではないかと心配してしまうくらい青褪めた顔で、ロンは反論をする。
だからといって、歩いたくらいでそんなにボロボロになるような体力では人としてどうなのだろうかと思いながら、フィアセルは肩をすくめた。そうして辺りを軽く見回してから、
「もう、お城の門が目の前だけど、そんなんで王様に復命したらマズイんじゃない? ちょっと休もっか」
まるで天使のように微笑んで、少女はロンに手を差し伸べた。
どんなに気が強くても、やはり司祭だけあって根は優しいのかもしれない。フィアセルに対する評価をロンがそう改めようと思った刹那、
「ただし、ロンのおごりね」
視線の先には食事処の立て看板。天使が一気に悪魔に堕ちた。
「手持ちが無くても、この町の人なんだもの。ツケができるでしょ?」
にこにこにこ。
「……は、ははは……」
何か言い返す気力も無く、渇いた笑いを発しながら、ロンは引きずられるまま食事処に入って行く。
二人が店の暖簾をくぐるとすぐに、紺色のワンピースに赤い前掛をした少女が、看板娘よろしくにっこりと微笑んで出迎えてくれた。
店はたいそう繁盛しているようで、ほぼ満席に近い。
「いらっしゃいませ。あ、ロン様。珍しいですね。女の方と一緒なんて。恋人さんですか?」
営業用のとびきりの笑顔をたやさずに、看板娘は二人を入口に近いまるいテーブルへと案内する。
「とんでもない、こんな……」
悪魔のような女と言おうとして、横から刺さるフィアセルの視線に口を閉じる。この先を口走ったら最後、何十倍にも増幅された皮肉が返ってくるに違いない。
が、その一瞬の悟りも、このフィアセルの前には遅かったらしい。
ちらりと冷たい視線をロンに流し、フィアセルは思いきり他人を小馬鹿にするように、つんと顎をあげた。
「まったく冗談じゃないわ。私が好きなのは麗しきティスリーヴ様なんだから。こんな体力無しのガキはごめんよ」
さも嫌そうに鼻に皺を寄せ、思いっきりロンに向かって悪態を突く。
「 ―― !?」
看板娘は面食らった。これでもロンは有名人である。
十七歳という若さで国王シルクスの厚い信任を受け、主任学者となった。そのうえ、調査や研究をするだけでなく国王の相談役になることさえあると噂されている。この年齢で賢王と呼ばれるシルクスに献策助言をするというのだ。
末は宰相とまで言われ、若いながら『出世街道ひた走り』のロンに想いを寄せる少女も少なくない。
麗しのティスリーヴ様とやらを、看板娘は見たことがなかったからどうにも比べようは無かったけれど、これでは国王お抱えの学者ロン・ツィムスも形無しというものだ。
「あ、えっと、ご注文は何にします?」
看板娘は気まずそうに愛想笑いを浮かべ、わざとらしく話題を変えた。
「そうねえ。木の実のカラメルソースがけのパンケーキと、とろとろに煮込んだかぼちゃのスープがいいな」
ひととおりメニューに目を通すと、今までの悪態は幻だったように、けろりと明るい笑顔でフィアセルは看板娘に注文をした。
「あとねえ……」
ぐるりと店内を見回して、他人が食べている物でメニューの確認をする。
ふと、店の奥の方で愛らしい幼女が大きな口を開け、おいしそうに食べているもの。黄白色っぽい食べ物が目に留まった。ぷるぷるとした山の頂上に、飴色のソースがとろりとかけられている。
「ねえねえ、あれいいっ! すっごくおいしそうよ。あれ何なの、ロン?」
きらきらと目を輝かせて、という表現が今の彼女にはいちばん合っているかもしれない。フィアセルはまるで童女のように、はしゃいでロンの袖を引いた。
ロンはちらりとその方向を見やり、不思議そうにフィアセルに視線を戻す。
「……プリンですか? なんだか『初めて遭遇した』ような口振りですね」
「そーだもん。あんなの初めて見たよ。ぷるぷるしてておいしそう」
完全に目がハート状態だ。
「へええ、君にも意外と可愛いところがあるんですねえ」
プリンを見てはしゃぐ彼女に、ロンはしみじみと呟く。
「なによお。ロン、あんたもしかして、私に喧嘩売ってる?」
フィアセルは不愉快げに眉を上げた。
「いいえ、僕は別にそんなつもりは無いですよ」
にっこりとロンは笑った。
「ああ、サラさん。注文は以上で……あ、僕は冷たいグリーンティーでいいです」
丁寧に看板娘に言うと、ロンはゆったりと大きな椅子の背もたれに寄りかかる。
そんな悠然としたロンの態度に反論し損ねたフィアセルは、ぷっくりと拗ねたように頬をふくらませた。
「なによー、お城の側に来たら急に泰然と構えちゃってさ」
「…………」
「いっつも、王様の前ではそんなふうに格好つけてるわけだ、ロンは」
さっきまで楽しく? 言い合いをしていたのに、これじゃあつまらない。フィアセルはだから、ロンを挑発するようにわざと憎まれ口をきく。
二人でいる時間の沈黙ほど嫌なものはない。フィアセルはそう思うのだ。
それでもロンは何も応えず、どこ吹く風で知らん顔を決め込んでいる。いや、相手をするほどの元気がない、というほうが正解だった。
―― ようやく休めた。
ロンはたまっていた疲れを吐き出すように、深く長い息をついた。
自分がくたくたになっていたということが座ってみるとよく分かる。体が泥のように重くだるい。このままもう動きたくない。許されるなら、ごろんと横になって眠ってしまいたかった。
半日も休まず歩き続けたのだから仕方がない。同じだけ歩いたくせに、あんなにも元気なフィアセルの方がおかしいのだ。
ロンは呆れたようによく喋る少女を目の端の捕らえ、もういちど大きな息を吐きだした。
そういえば、これからまだ国王にこの少女を引き合わせるという任務が自分には残っていたのだ。それが、どんなに気の進まないことであったにしても、だ。
「フィアセルさん、ひとつ約束してください。絶対シルクス陛下に失礼なことはしないって。僕は陛下に君を紹介することを思うと、心労で死んじゃいそうですよ」
「…………」
フィアセルは、むっと眉を吊り上げた。
この言い草、やっぱり喧嘩を売ってるとしか思えない。
「ふん、知らないわよ。それよりもロンこそ王様の前でぶっ倒れたりしないでよね。恥ずかしいから」
思いっきりあかんべーをしてから、フィアセルはそっぽを向いた。もっと楽しい会話がしたいのに、どうしてこうなってしまうのだろう? そう思いはするが、どうしようもない。
だからフィアセルは、針でつつけば破裂しそうなほど頬をふくらませ、店の天井の染みなどを意味もなく数えたりした。
「まったく、ああ言えばこう言う。だから最近の……」
若い者はと言おうとして、ロンは口を噤んだ。
それを言えばまたフィアセルに何のかんのと言われるに決まっている。体が疲れている上に、精神的にまで疲れるのは最悪だ。
ロンは軽く頭を振って、フィアセルとは反対の壁に顔を向けた。
冷たい沈黙の流れる中を、気まずそうに店員がおずおずと食事をテーブルに置いて行った。けれども、ロンもフィアセルも、なかなかそれに手をつける気にはなれなかった。