『予兆(きざし)』
「こんなに星がいっぱいあったら、とてもうるさいわ」
天上から地上に降りそそいでくるような夜空一面に広がった美しい星たちに、少女は悪態を吐いた。
普通の少女ならば、おそらく幻想的だとかロマンチックだとか言って大喜びしそうな光景である。
それを「うるさい」呼ばわりした少女は大きな溜息をひとつ吐くと、軽く頭を振って木窓を閉じた。そうすると、月や星の光が完全に遮られ部屋の中は真闇になった。
「だいたいね、何でもいっぱいあればいいというものじゃないのよ。僅かだからこそ、その存在は際立つのだわ。分かるかしら? レジス」
少女は闇の中に声をかける。
真闇となった部屋の中でも、少女はどこに何があるのか正確にわかるのだろう。ちょうど彼女の視線先で、ふわりと空気が揺れた。
「やれやれ。本当に君は冷めた娘だね」
くすくすと笑い声が聞こえると、すべてを呑み込むような闇が壊れ、ぱあっと朱い光が部屋の中に生まれた。
レジスと呼ばれた青年が、燭台のろうそくに灯をともしたのだ。
「まあ、君自身がとても美しいから。だからまわりの美しいものたちが霞んで見えてしまうのだろうけどね」
青年は歯の浮くような台詞を、いとも自然に言ってのける。
確かに、炎の灯に浮かび上がる少女の姿は美しかった。
さらりと床まで伸びた、月光を湛えた深雪のような銀色の髪も、それに彩られた白珠の肌に輝く、透き通る湖水のような淡い水色の瞳も。薔薇色の口唇も。
そのすべてが見事なまでの調和で少女の美しさを際立たせた。
少女の名は、パルディア・ロンド・ナターシェスと言った。
水神アトゥイ・レジスを信仰する民が集まって興したレジス=クルセイド皇国の、シューダ法皇の孫娘だった。その生まれのせいか、全体から溢れる気品のようなものがある。
「またそんな事を言う。レジスは意地悪だわ」
ぷくっと頬を膨らませ、パルディアは青年を睨みつけた。
「私には姿形の美醜などわからないのに」
子供のように拗ねる少女に、レジスは再びくすくす笑った。
「そうだった。でも、君は目が見えないということをまるで感じさせないから。ついつい忘れてしまうんだよ」
「……視えなくても聞こえるもの。この世に存在するものはすべて呼吸をしているわ。おしゃべりもしてるの。だから星がたくさん出ている夜は、うるさいわ」
「星以外の声はうるさくない?」
「他の物たちは、聞こうと思わなければ聞こえないもの。星は否応無しに聞こえてくるわ。自己主張が激しいの。だからレジスの生命の音が聞こえないくらいよ」
パルディアは透き通る湖水のような瞳を青年へと向ける。
けれども、その瞳には何も映らない。だからこそ汚れの無い美しさがこの少女にはあるのかもしれなかった。
「それは困ったな。じゃあ、これならいいかな」
レジスは少女の髪を長い指で梳くように、自分の方へと優しく抱き寄せる。
青年の胸に包まれたパルディアは頬に感じる柔らかな鼓動に、にこりと微笑んだ。
「聞こえるわ」
応えながら、パルディアは今の自分というものを思い起こしてみる。
こんな光景を法皇である祖父に見られたら、何と言われるだろう? 孫娘が『殿方』と二人きりで部屋にいるというだけで、卒倒するかもしれない。
こうして二人でいても、何かするわけではないのに。
ただただ、こうして寄り添っていてくれる。こんな夜を過ごすようになって、もう三ヶ月になるだろうか。
幽閉されているわけではないけれど、戦を始める時、何かの神事を行う時。そんな時だけ<神の娘>として表に引き出される自分。
幼い頃、ふと聞こえた星の言葉……この国に起こる災厄を祖父に伝えたあの時から。ずっと自分はこうしてこの神殿の奥深くに暮らしてきた。
何も疑問を持たずに、そうして過ごしてきた。けれども三ヶ月前。この青年が来たのだ。
神殿の奥深く、パルディアの暮らす部屋から見下ろせる中庭に迷い込んで。
いつもと違う<音>が庭から聞こえたので誰何したパルディアに、困ったような声で「ここはどこだろう?」と、この青年は言ったのだ。
よく考えてみれば、ここは迷い込んで来られるような場所ではない。
パルディアの住む館と人々の訪れる神殿とを隔離するように巡らされた、淡い蒼の壁。二つを繋ぐたったひとつの門にはいつも見張りが立ち、出入りする人間をチェックしている。
その中庭に、どうやって迷い込むというのだろう?
彼がどうやってここに来て、そして帰って行くのか?
それは目の見えない自分にはいまだに分からない。けれども、そんな事はどうでもよかった。ただ彼と一緒に過ごしている時間が、何よりも楽しいのだから。
「……ねえレジス。あなたの本当の名前、なんていうの?」
少女は青年の胸に顔をそっと埋めたまま、ふと呟いた。
意識して言った言葉ではなかった。ただずっと心の奥で気になっていたこと。それが、彼の優しい生命の旋律を聴いているうちに安心しきってしまったのか、ぽっと、言葉となって出てしまった。
レジスとはこの国が崇める神の名だ。そして、国名にも冠しているものだ。それを個人が名として戴くことは不敬であると、この国……否、世界中で禁止されている。
だから、その名は明らかに偽名なのだ。
今まで一度もそれを問い質したりしなかった。偽名でも良いと思っていた。けれども、ひどく淋しかった。
本当の名前を告げてもらえないことが、だんだんと不安になった。
単なる自己満足かもしれないけれど、本当の名前を知ることで彼を自分ひとりだけのものに出来るような、すべてを理解できるようなそんな気がした。
もしかすると無意識なようでいて、しかし本当は、はっきりと意識して自分はこの問いを彼に投げかけたのかもしれない。
「…………」
レジスは、一瞬悲しそうに顔を歪めた。表情の変化は見えなくとも、パルディアにはそれがよく分かった。
しかし一度口をついて出た言葉は、望みは、もう止められそうにない。
「……レジス。それでは駄目なのか?」
「知りたいの。あなたの本当の名前が」
パルディアは見えない瞳で、じっと彼を見上げた。
その澄みきった湖水のような瞳は、あまりに真摯だ。冗談では済みそうに無い。
レジスはふうっと深い息をついた。そしてじっと、テーブルの上でゆらめく朱い灯を見やる。
ろうそくを見つめるその瞳が、炎よりも朱い。炎の色が映っているわけではない。紅蓮? 朱金だろうか。その瞳に沈痛な影を宿し、ろうそくの炎から少女に視線が戻る。
「……ごめん。教えられない」
そっと少女を自分の腕から解放し、青年はゆっくり頭を振った。
「いつか、教えてあげられるかもしれない。でも今は……」
ゆっくりと、しかし確実にレジスの気配が自分から遠ざかってゆく。
「レジス!? や、だ……待って!」
耳許で優しく鳴っていた青年の鼓動。それが、星たちのざわめきに消えてゆく。
「レジスっっっ!!」
パルディアは喉が破れるほどに叫んだ。
後悔した。名前など、どうでも良かったではないか。彼が自分の許から去ることになるくらいなら、偽名でも良かった!
きっと、あの人はもう来てはくれない。自分の前に現れてはくれない。優しく、寄り添っていてはくれない……。
とくんと一度だけ微かに聞こえた青年の生命の旋律。
けれど、それが永いさよならの……哀しい名残の旋律なのだと、パルディアは痛いほど分かった。
いつも彼が帰ったあとに残る、優しい匂いがしない。約束の言葉もない。たった独りきりで過ごしていた頃の、冷たい闇の匂いだけがここには在る。
「……いやあああああっ!」
生まれてから一度も出したことのないような、それは悲鳴。絶叫?
祖父の言い付けでパルディアの身の周りを世話する者達が、何事かと起きだしてくる。
かつかつと、石の階段を駆け上ってくる大勢の足音が聞こえた。
「レジス………」
少女は見えない瞳に大粒の涙を溢れさせ、崩れるように座り込んだ。
もう、レジスの鼓動はどこにも、微かにも聞き取ることが出来なかった。
それから三年後 ―― 。