蠢く闇 3
高速を降りたカオルは、何かに追われていた。何かは分からないが、後ろの方から水気のある足音が間違いなく彼女を追跡していた。
事故の衝撃で、体中が悲鳴を上げていたが、このまま素直に捕まるわけにはいかない。スマートフォンが無事ならシステムへ救援要請したのだが、それも事故で破損していた。ひとまずカオルはシステム方面へ、ビルとビルの間を走り続けていた。
「このままだと、まずいな……」
独り言を呟く事で、カオルはなんとか自我を保っていた。右肩からは出血し、左足首をおそらく捻挫している。骨折まではしていないだろうが、ヒビくらいは入っているかもしれない。服も破れ、露出した素肌は寸分違わず擦り傷を見せていた。
呟くことが無くなると、カオルは不明瞭になりかける意識で、先程の事故を回想した。
何かが車の前を塞ぎ、それにノーブレーキで衝突した。とっさの判断で車から飛び出したが、100キロで走っていたのだ。この程度で済んでいること自体、奇跡と言わざるを得ない。危険ではあったが、車内にいれば、ほぼ確実に死んでいただろう。
その後、何者かに追われていることに気づき高速の非常口から下へ降り、今に至る。
・・・
しばらく高速を走っていたラディは、カリムからの連絡で近くのICから下道に降りていた。カリムの能力の一端であるサーチを使い、カオルのソウルシグナルをある程度追尾できたのだ。
ラディは近くまで来たことを判断すると、バイクを乗り捨て、徒歩での追跡を開始した。暗い路地だった。高速道路を走るトラックの音や遠くの国道を走る車の音しか聞こえない。そこはまるで深いビルの森に思えた。
しかし、ラディにとって暗闇はなんのハンディキャップにもならない。闇が深ければ深いほどに目は冴え、静かになればなるほど、耳は研ぎ澄まされた。そしてその耳は、走り続けるふたつの足音を捉えた。その場所に向かって、ラディは走り出した。
・・・
「くそ……。一体何なんだ……」
カオルは追跡者に捕まっていた。壁に追いやられ、そして首を押さえつけられ持ち上げられた。凄まじい力だった。事故で悲鳴を上げる体は更に軋み、あと少し力を入れたらバラバラになる寸前だった。目の前が暗くなっていき、そして周囲の音が自分を取り残して遠ざかっていくような気がする。
「先輩!」
駆けつけたラディは躊躇することなく、仲間を苦しめる敵に切りかかった。目の前の獲物に気を取られていた敵はラディに気が付かず、背中を切られ体制を崩した。カオルは敵の手から逃れたが、脳の酸欠で立つことができずにその場に崩れ落ちた。
切られた敵は後ずさりし、体勢を整える二人を注視している。
「ラディ…。ごめん、助かった。よく分かったね」
「カリムがね、サーチしてくれたんです」
「なるほど。またあいつ私のソウルシグナルを勝手にサーチしたのか……。帰ったらお仕置きだな」
「程々にしてあげてくださいね。おかげで私が来れたんですから」
そうだな、とカオルが言うと、二人はそこにいる敵を見た。暗くて顔はよく見えないが、体躯は若い成人男性のようだった。筋肉質で、スタイルがいい。だが、くぐもったうめき声と、ラディに切りつけられてさして苦しんでいないところを見ると、普通の人間ではなさそうだった。普通なら死にはしないものの、痛みで失神していてもいいはずなのだ。
「ヤミ、だそうです」
「ヤミ?」
「まだ我々にも公開されていなかった情報だそうですが、キャップ曰く、ここ最近、人や害獣の手では起き得ないような事件がいくつかあったそうです。それの監視カメラに写っていたのが、こいつ。ヤミです」
ヤミは蠢く、ゆらゆらと蜃気楼のように。ラディがカオルに肩を貸し、相手の出方を伺っていた、その瞬間。
「──ぐっ!」
ヤミは恐ろしい勢いで弾かれたように突進し、カオルを支えていたラディの腹部に右手を打ち込んだ。そしてその右手は液体のように形を変え、剣となりラディの腹に鋭く付き立てられていた。刃は腹から背中へ抜け、そのまま壁に打ち付けられる。ラディが血を吐くと同時に右手を引き抜き、ヤミが刃を横に振るとラディの首が裂け、大量の血飛沫が間欠泉のように拭き上げた。
首元を押さえつけ、ラディは自分で作った地溜まりの中にうつ伏せで倒れた。
「ラディ!」
カオルへ向き直ったヤミは同じように突進するが、その動きははベスパの放った弾丸によって妨げられた。足を撃ち抜かれたヤミはその場で転倒し、うめき声を上げながらもだえている。
「無事か!?」
ベスパは狙撃した高速道路の非常階段から黒い重厚的なケースと、通信デバイスを投げた。それはズシリとした音をたて、カオルの足元に正確に落下した。
「カオル! これを使え!」
「ちょっと、大事に扱ってよ!、私の大切な物なのに!」
「言ってる場合か! 早くシフトしろ!」
文句を言いながらケースを開け、中から一振りの刀を取り出す。愛刀を鞘から抜くと、薄暗い路地であるにも関わらず、鈍く刹那の刃を光らせた。
『カオル、シフトだ』
「了解、カリム」
通信デバイスに映るカリムは、カオルにシフトを告げる。目線を合わせると、カリムの意識はカオルに移行、つまりシフトした。その瞬間、カリムの身体は力が抜け脱力し、二人のほぼ同一のソウルシグナルはハウリングのように増長し、カオルの全身の細胞を振動させた。
骨のヒビや擦り傷や出血は止まり、体に蓄積した疲労まで回復していく。アセンショナーとなったカオルは立ち上がり体勢を整えるヤミを見据えた。そしてカオルが強く大地を蹴ると、今まで立っていた場所に小さいクレーターが出来、一瞬でヤミの背後へ回った。ヤミの尋常ではない反射神経を持ってしても、それ以上の速さで動くカオルは捉えることができない。危険を察ししてヤミも回し蹴りを放っが、もちろんその行動はカオルを捉えることは出来なかった。
アセンショナーとなりとてつもない速さで動くカオルにとって、ヤミの回し蹴りは宙を舞うティッシュ・ペーパーにも等しかった。ゆっくりと余裕で身体をひねり躱すと、その勢いで刃をヤミの横腹に叩き込んだ。腐肉に包丁を入れるように、じっくりと刃を沈め、そして反対側まで一気に割いた。
「ラディの仇よ。ありがたく受け取りなさい」
階段の上から戦いの様子を見ていたベスパにとっては、0コンマ以下の時間で全てが片付いた。一瞬でヤミの後ろに回り込み、目にも止まらぬ速さでカオルが回転したかと思うと、ヤミは回し蹴りが終わる前に横一文字に真っ二つとなった。
「ラディ!」
ファースト・エッジを鞘に戻したカオルはシフトを解き、血溜まりに沈むラディに駆け寄り、彼女を抱き起こした。ラディはうつろな目でカオルを見返す。
「ひどいですよ、先輩。何かが『ラディの仇』、ですか。私は死んでないですよ」
「分かってたけど、大切な後輩をここまでボコってくれたんだもの。怒りを込めた一撃にしたかったからね。……助けに来てくれてありがとう」
カオルが言い終わる頃にはラディの腹部と首の傷は完全に塞がっていた。
・・・
ラディはシステムの医務棟へ運ばれ、カオルは着替えを済ませたあと、キャップにミーティングルームへ呼ばれた。部屋の半分の明かりは消され、省エネが叫ばれる昨今の情勢を反映していた。
「大変だったな。大丈夫か?」
「はい。シフトしましたので、大抵の傷は治っています。あの、それよりラディは大丈夫ですか?」
「ラディは問題ない。ちょっと出血が多かったからな。今、輸血をしている。もうしばらくしたら目を覚ますだろう」
「それなら良かったです。いくらあの子があれくらいで死なないとはいえ、痛みはあるはずですから。目が覚めたら、なにか奢ってあげましょうかね」
キャップは一言、そうしてやれ、と言った。
「それはそうとあのヤミだが、見るに、お前をピンポイントで狙ったようにも思えるのだが、なにか心当たりはあるか?」
「いえ。……ですが、捕まったとき、ヤミの意識が流れ込んできました。彼らも恐らく私の性質に近いのかもしれません」
「シフトの能力の事か?」
「ええ。あのヤミは間違いなく私を狙ってきました。そして、どちらかというと、カリムのようなシフターより私のようなケースの能力者を狙っていたようです。ただ、それが何を意味するのか、そこまでは分かりませんでした」
キャップはしばらく考えたあと、カオルに帰って休むように伝えた。
カオルが部屋を出てもしばらくキャップはそこにいた。
これが始まりなのか?
キャップは一言、心の中でそう思った。
「キャップ、ごめんなさい。盗み聞きしてました」
「マスター」
キャップが振り返ると、そこには髪も服も、そして肌も真っ白な女性が立っていた。
マスターと呼ばれた彼女は先程までカオルが座っていた、キャップの真正面に座り、頬杖をつく。そしてゆっくりと口を開いた。
「その時が始まった。と、私は睨んでいるわ。カオルが襲われたのは偶然じゃない。世界に何人かいるシフト能力者のケースで、あれほど使いこなしてる存在はいない。ヤミは原則的に高位のシフターだから、高位のケースが必要なのね、きっと」
「おそらくそうでしょう。しかしこうなると、そろそろ他のメンバーにも秘密にはしておけません。もちろん秘密にしていたわけではないですが」
「そうよ、キャップ。言わなかっただけ。皆にもちゃんと説明するときが来た、という事よ」
しばらく話をしていた二人は、一晩そこで話し込んでいた。そして空が白くなってきた頃にミーティングルームを出て、これから起こるであろう事柄を憂慮した。
・・・
カオルは助けてくれたお礼にラディと共にデートをした。
もちろんベスパとカリムは抜きで。