ラディ
きらびやかな東都は一時の雨から開放され、まるで宝石箱からこぼれ落ちた真珠を思わせる。緩やかに流れる車のテールライトとヘッドライトは、血液や酸素を運ぶヘモグロビンを思わせ、この街が実は一つの巨大な生物なのではないかと錯覚する。もちろん東都はただの街なのだが、そこに多くの人々が住んでいるのなら、街そのものは生物と言っていいのではないかと思う。
さしずめ羽田空港は夜でも誘導灯が点滅し、魂の刻動を感じさせる。
ヨーロッパからの到着口を背に、束ねたピンク色の髪を揺らし、黒いジャケットを着た女がワインレッドのハイヒールを鳴らしながら歩いていた。それがラディだ。彼女は手荷物を受け取り外へ出るとタクシーを探した。道行く人々は彼女のその幼いようで妖艶さのある横顔に魅了され、誰もが振り返り彼女の美貌を記憶に閉じ込めようとする。
タクシーを捕まえ、トランクに荷物を放り込んで運転手に行き先を伝えると、彼女はスマートフォンを取り出しどこかへ電話をかけた。
「先輩、今帰ってきましたよ。早く先輩に会いたいですよ。本部に向かってるんですけど、そこにいます? ……よかった。やっぱり私と先輩は以心伝心なんですよね。知ってますよ」
彼女は嬉しそうに電話の相手と会話をしている。運転手は聞いていないふりをしても、その声はどうしても耳に入る。おそらく男の先輩と思っているだろうが、もちろんカオルの事だ。
ラディはカオルが好きなのだが、それは友達や同僚に対する好きではなく、恋人に対する『好き』である。今では明るく朗らかに見える彼女も、かつては多くの生き血を啜らされ、命を長らえさせられた悲しい女だ。
・・・
ラディはカオルより一年ほど後に組織にスカウトされ、ルーマニアから日本へ来た。ルーマニアのヴラド=ツェペシュ公の業績に魅了されたある科学者によって彼女は約200年前に生み出され、科学者の死後にもその偉業を継ごうとする秘密結社により、長く石牢に監禁されていた。彼女の美貌は、その体を流れるドラキュラの血により時間が止まっている。カオルも最初に彼女を見たとき、年の頃十代後半かと思ったのだ。そしてその美しさに感嘆の息を漏らした。
ラディを作った科学者と秘密結社の調査任務を、カオルが担当した。そして彼女を見つけたカオルは太陽の元へ引き出だそうとしたのだが、吸血鬼は太陽光に当たると火傷をしてしまう。調査を延長し、資料の中にあった太陽光への免疫をもたらすエリクサーのレシピを発見し生成したカオルは、それをラディに投与する。太陽光への免疫を獲得したラディは太陽の元で生きる事を選び、カオルを愛するようになった。先輩と呼びついて回るようになり、日本に帰るカオルに付いていこうとした。カオルは彼女の将来性に期待して、組織へ加入の手引をした。
ラディの最もたる特性は、その不死性だ。首と胴体が切り離されたところでくっついてしまうし、至近距離での銃の乱射も、たちまちに回復してしまう。さらには自らの血液を凝固させ、それを武器に接近戦から中距離までをカバーできるという、完全なる戦闘タイプだった。
ラディ本人もカオルの助けになりたいと願い出た。事実、彼女のバトルセンスは目を見張るものがあり、今回の任務も、加入一年ほどで一人で任される程であり、単純な戦闘力で言えば組織の中で最も破壊力のあるメンバーといえる。
・・・
タクシーが本部へ到着すると、彼女は会社支給のクレジットカードで支払いを済ませ、トランクを開け荷物を取ると、正面玄関から全速力で駆け抜けていく。受付も何もない。逆を言えばこんな行動で駆け抜けていくのはラディ以外ありえないことで、今行っている行動そのものが彼女であると証明をしてしまうのだ。
司令室まで駆け上がり、そこにいたキャップに挨拶をする。
「おつかれさまです本日付で組織へ帰還しました以上です失礼します」
矢継ぎ早にそう告げると、風の様にその場から立ち去り、もはやキャップは何も言わなかった。ラディの出ていった扉を見つめ、おそらくその仮面の下で、苦笑いをしているだろう。なぜならばこれがいつもの彼女だと知っているからだ。
廊下を駆け抜け、カオルの部屋の前に到着すると激しい運動後の心臓の様なノックをする。容赦なく二十一回叩き、二十ニ回目にカオルが顔を出した。
「先輩!」
ラディは素早くカオルに飛びかかるが、それを予想していたカオルはひらひらとした紙の様にかわし、ラディは床に腹から落下した。だがその落下の反動を両腕に伝え、勢いよくカオルの元へと再度飛びかかり、その動きを予想していなかったカオルは、壁に押しやられた。
「あんた、相変わらず元気ね」
「このために体力温存してたんですよ」
「仕事はちゃんとしたの?」
「まぁ、それなりに」
お互いの鼻先が触れそうになる位、お互いの吐息を感じながら、二人はいつもの会話をした。ラディはいつも、特に長期任務の後は禁断症状のようにカオルに襲いかかる。カリムが言っていた「襲いかかる」とはこの事だ。
「そろそろ離れて」
「いやです。一ヶ月も離れてたんですよ? 私はもう、先輩に会いたくて会いたくて、体の火照りが止まらなかっ──」
はいはい、と言いながらラディの腕の隙間から抜け出すと、カオルはソファに座った。それに付いてラディは隣に座った。
「相変わらずつれないですねぇ……。私はこんなにも先輩を愛してるっていうのに」
「はいはい。今日はベスパもラオも帰ってくるみたいだから、全員の到着を待って打ち上げの予定だけど、あんたはどうする?」
「私は先輩と二人がいいです」
「そんな事言わないの。隣に座ってあげるから」
「……ホントですか? いっつもそう言って逃げるじゃないですか」
「今日はホント」
「わかりました。信用しますよ」
ラディは二人きりの時間が過ごしたかったようだ。
ラディにとってカオルという存在は、今の自分を持つにあたって切っても切り離せない存在だ。カオルがいなければ、今でもあのルーマニアの石牢の中でいつ果てるともしれない時間を過ごし、苦しみしかない永劫を体験し続けていたことだろう。
カオルへの愛は第三者的に見て、カリムより遥かに強い。おそらくカオルの為であれば、ラディは自分の命など使用済みのティッシュペーパーよりも軽くに扱うだろう。
それはカオルも知っている。
夜は更けていく。
あと少しお付き合いいただきたい。この物語必要なあと二人を、紹介しなければならないだろう。