トワイライト・ウォーカー 2
──助けて
──助けて
ラディは闇の中にいた。
どこかは分からない。ぬるりとした闇に足を取られて、彼女は一歩たりともその場から動けなかった。進もうとするラディの耳には、絶え間なく誰かの声が聞こえてくる。
だが、その声はラディの記憶にあるいかなる人物とも適合しなかった。必死に何度も助けを求めるその声はいつしか遠ざかって、切れそうな糸のようになって、そして消え去った。始めからそこに声なんてものはなかったかのように。無音の空間にラディはひとり取り残される。ずっしりとしたコールタールのような闇の中で、ひとり。
・・・
ここまで汗をかいて目が覚めたのは、随分久しぶりだった。ラディは下着までびっしょりと汗に濡れ、肩で大きく息をしながら飛び起きた。声こそ出さなかったが、それは声無き声といった感じにも見える。
少しずつ落ち着いてきた呼吸を整えながら、ベッドから出て窓のブラインドを開けると、外は朝だというのにのっぺりとした灰色に包まれた雨模様だった。そこからいくつかのドローンが、プロペラで雨を弾きながら飛んでいくのが見え、はるか眼下には東都高速を走る車が小さく見えた。
高層階に住むラディの部屋から普段見えるはずの富士山は、今日は顔を見せてなかった。数キロ先にある旧都庁すらモヤがかかってた。
冷蔵庫から、どこに需要があるのかよくわからない480mlという中途半端なペットボトルの水を取り出し、一気に飲んだ。彼女は血は飲まない。トワイライト・ウォーカーとなってから、血を必要とはしなくなった。かつてのルーマニアの地下牢にいた頃は、やたらと侵入してくるネズミの血を飲んでいたが、今ではそんな必要もない。
服を脱いでバスルームへ入り、シャワーを浴びると、熱いお湯が頭から足までを無遠慮に流れていく。次第に覚醒していく頭によぎるのは、さっき見た不可解な夢。吸血鬼の特徴なのかどうかわからないが、不思議と人間が見るほどに彼女は夢を見ない。見たところで、散り散りになっていくつものパーツを失したパズルのように、思い出そうとして思い出せるような夢ではない。
だが、あの夢はしっかりと克明に覚えているし、コールタールのような深い闇の感触も思い出せる。闇はラディと切っても切り離せないような関係性だが、あの闇は別物だった。
考えていくうちにラディは気持ちが悪くなり、身体も拭かずにバスルームを飛び出し、隣のトイレでしたたか吐いた。
「はぁ……はぁ……。一体……、なんなのよ」
しばらく便器に持たれ荒れた呼吸を整えていたが、しばらくすると口元を拭い立ち上がって再びバスルームに入り、ラディは全身をくまなくいつも以上に洗った。
・・・
自宅マンションから三十分かけバイクを走らせてシステムへ到着すると、毎度のことながらカオルに絡む。
「先輩、おはようございます! 何してるんですか?」
「……仕事に決まってるでしょ」
「そりゃそうか! あはは」
この一連の流れを済ませ自分のデスクに座りいくつかのキーを叩いてからメール画面を立ち上げると、見覚えのないアドレスからのメールを受信していることに気がつく。
「んー? おかしいな。なんだろう」
本来、宛先不明のメールが届くということは、システムのセキュリティ上あり得ないのだ。送り主がわかっている場合は通常のセキュリティを通って各PCへメールは飛ばされるが、送り主不明の場合は必ずカリムの監視する親機に入り、何重ものウイルスチェックと送信者の照会が行われ、それから各部門へ送られる。なので、少なくともそれぞれの個々のPCに届くまでには、どこの誰なのかが分かっているはずなのだ。
「まーた、カリムがサボってるな? ちょっと文句言ってやろ」
内線でカリムへ連絡すると2コールと待たずに繋がる。
『はい。こちらカリムです』
「私だけど」
『なんだ、ラディか。どうしたの?』
「なんだ、じゃないわよ。あんた、ちゃんとメールチェックしてるの? 送信者の分からないメールが私に来てるんだけど」
『え? そんなわけないよ。あれからシステムを補強したんだ。今のシステムのセキュリティをくぐり抜けるなんて、普通じゃありえない』
「そうなの? そっちに転送しようか?」
『いや、まだ開けてないよね? そっちに直接行くから、なんにもしないで。下手に開けたり動かしたりすると何が起こるかわからないから』
了解、と言って内線を切った。
しばらくしてやってきたカリムは、まっすぐにラディのデスクに向かい、その件のメールを見た。
「ホントだ。送信者不明だね」
「原因は?」
「わからないけど、僕の親機を回避してメールを送るには、既に内部の者でないと不可能なんだ。例えば、カオルからラディに送ったりとかした場合、そもそも問題のない前提の相手だから、僕の親機を通してないんだ。そんなのまで通してたらセキュリティシステムがパンクするから、そこまではしてない」
「じゃあ内部の誰か?」
「そうであるとするなら、このシステムに登録されてる職員だから、必ず名前が表示されるよ。となると、可能性としては……」
そこまで言うと、カリム顎に手を当てて考え出した。
考え込んでいると、二人のコソコソ話を覗いていたカオルが、一言喋った。
「内部の誰かと誰かのネットワークの間に、割り込んだやつがいるんじゃない?」
「それだ!」
カリムが声を上げると、ラディは神妙な顔をした。
「でも先輩。それって割とまずい話じゃないですか? だって、ネットワークのセキュリティ突破どころか、この建物に物理的に入り込んだって事じゃないですか?」
そう言うと、カリムは青くなり、すぐさまキャップのもとへ向かった。
暫くして調査をすると、巧妙に、誰にも気づかれずに屋上から侵入した形跡があった。屋上入り口の監視カメラには何も写っていなかったが、通気口から黒い煙のようなものが侵入している映像が残されていた。
屋上を通過した煙はサーバーフロアに入り、そして人の形となる。それはロングコートを着込んだ男の姿だった。男はサーバーに何やらデバイスを接続し、少し操作をすると、すぐさま撤収した。
来た道を戻り、再び煙となり通気口から姿を消した。
その映像を見たキャップ、カオル、カリム、ラディは、呆然とした。
「キャップ、これはヤミ、でしょうか?」
沈黙のあとのカリムの問いかけに、キャップは答えを出しあぐねていた。
「少なくとも、我々が定めるヤミの定義を外れているから、少なくとも今の段階ではこれをヤミとは判断できん。新種の可能性もあるがな。あのメールはこのサーバーから来てるか?」
「はい、痕跡を追ったら、間違いなくあのサーバーです」
キャップは再び黙り込んだ。
「ラディのPCへ送ったのは偶然か否か。どうしたものか……」
「もう、開けてみるしかないんじゃないですか? 私宛かどうかわからないですけど。カリム、ワクチンとか私のPCに入れといて、それから開ければリスクは減らせるんじゃない?」
「そう、だね。やってみるよ」
ラディの提案に乗って、カリムはいくつかの予防に特化したワクチンプログラムをラディのPCへ送り込んだ。
開けたとき何が起こるかわからない。情報漏えい、システムクラッシュ、様々な状況に対応できるように。
インストール完了後に、そのメールはようやく開かれ、そこにはルーマニア語で文字が書かれており、翻訳をかけずとも、ラディだけはそのまま読むことができた。
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──親愛なる妹。ラディ。
この手紙を読んでくれて嬉しいよ。僕はリュギ。君の兄だ。ルーマニアから妹、つまり君の姉と共に日本まで君に会いに来た。直接会ってもいいのだが、いきなり会っても混乱するだろうと思ったし、ちょっとした挑戦として厳重な物理セキュリティを突破して見た次第だ。セキュリティ担当者を罰したりはしないでくれよ。僕は君と同じく、普通の存在じゃないから。
さて、本題に入ろう。単刀直入だが、明後日の夜だ。東都の旧臨海副都心のお台場廃墟に来てくれないか? 不安なら仲間を連れてきてくれてもいいが、必ず来てほしい。重大な事を伝えなくてはならない。我々が兄弟であり、そして我々の身に危険が迫ってる事を。
頼む。必ず来てくれ。来てくれれば分かる。ロングコートのハンサムな男だから。
では、親愛なる妹よ。
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ラディがスラスラと読んでいくのを、全員が聞いていた。そして読み終わったあと、司令室は静まり返り、室内にある計器類の小さな信号音だけが申し訳程度に聞こえていた。
「これ、何なんですかね。いたずらにしては手が込み過ぎだし、そもそも私に兄弟なんていないじゃないですか。あの地下牢に何百年もいて、先輩が来るまで誰も来なかったんですよ。そんな、こと、あるわけないじゃないですか。ねぇ、先輩?」
「あるんだよ。それが。」
「え?」
「キャップ、伝えましょう」
「あぁ、そうだな」
「ちょ、ちょっと。どういう──」
「あんたには、」
カオルがラディに向き直り、そしてゆっくりと語りだした。
「あんたには兄弟がいるんだ。研究資料を解析した結果、あんたより先に作られた吸血鬼が、あと三体いることがわかったんだ。後続隊が調べに入ったんだが、何も無かった。無かったが、その代わりに一人用の部屋があんたを含めて四つ、あるのを見つけたんだ。行方は分からないが、確かに存在したようだった」
「私の知らないところに……。なんで教えてくれなかったんですか?」
その問いにカオルが黙っていると、キャップが代わりに口を開いた。
「言う必要がなかったのと、お前も知る必要がないと判断したからだ。それに資料にはお前以外は失敗作とサインと印が押してあったから、死んだ可能性があった。だから、言わなかった。言う必要も知る必要も無いという意味がわかるか?」
ラディはないも言わなかった。その表情に、特に何かを思いつめているようではない。
「先輩。一緒に来てもらえませんか?」
「え?」
「会ってみます。このリュギって人に。もし本当なら、会うべきのような気もしますし。自分のことですし、知れることがあるなら知っておきたいです」
「……わかった。一緒に行こう。いいですよね、キャップ」
「あぁ。だがカオルだけじゃなく、ラオとベスパも連れていけ。今日の夕方にはインドネシアから戻るだろう。二人には明日を休暇にして、明後日、同行してもらおう」
「わかりました。ありがとうございます」
なにかの罠なのか。それとも、もっと深い何かがあるのか。それはまだわからない。でも、自分の出生の殆どを知らないラディにとって、これはある意味、好機なのかもしれない。




