未だ目覚めぬ望郷の想い 4
東都のシステム司令室に、キャップとカリムの姿があった。二人は今、ラオとベスパが日本を出国してのち、インドネシア政府より送られたバハヤの調査進捗情報の共有を見ていた。もちろん、これは本来インドネシア国外へ出せる資料ではないはずだが、ハリの一存で送られたものである。今回の作戦で何かの役に立つようにと。
「これって……。どう思います、キャップ?」
「これが本当なら、ラオにとって今回の任務が最良の結果で終わるとは限らないわけだ。だが、この情報は二人に送っておこう。カリム、頼んだぞ」
「はい」
それだけを言ってキャップは司令室を出た。
「……ラオがかわいそうだけれど、連絡しないわけにはいかないしなぁ」
カリムはブツブツと言いながら、PCの画面を叩き、システムの国際連絡回線でベスパへ連絡を取るが、そのベスパからただならぬ状況が伺えた。
「先行だなんて、一体何を考えてるんだ……」
『自分一人の手で、決着を付けたいんだろ。だが、一度負けた相手だ。少なくても誰かのバックアップは必要だろ』
「もちろん、その通りだよ」
『で、一体何の用だ? それのための連絡だろ?』
「あ、うん。その事なんだけど……」
・・・
誰もいないインドネシアの密林。鬱蒼と茂る多くの木々は、物言わぬオブジェとなり、風の音だけが通り抜け、たまに葉をカサカサと鳴らした。そして時に、木々は大きく地鳴りに揺れた。遠くの木が一本、また一本と倒れる。
そこにはラオがいた。
「くそ……相変わらずだな。ブヨブヨしやがって…」
バハヤの体はラオの頭に残る忌々しい記憶どおりに軟体質を保ち、何度も打ち込む警棒を弾き返した。この軟体質の為に父も苦しめられ、疲れ切ったところに一撃を食らって母は死んだ。
肉塊から伸びる何本もの触手が空を彷徨い、敵を探しているような動きを見せる。
地面を蹴って間合いを詰め、そして空を切った触手を躱し、両手に持った警棒を打ち込む。しかし結果は同じだった。力をどれだけ込めて打ち込んでも、いや、むしろ力を込めれば込めるほどその反発力は増し、弾き返されたラオは少しずつ疲労が溜まっていく。このままでは、あの時の二の舞だった。
何度打ち込んでも何度打ち込んでも。バハヤには何の変化もなかった。ただいたずらに体力を消耗していくラオと、そんなラオを嘲り笑うようにじっと何もしないバハヤ。あれに顔は無い。無いが、きっと笑っている。
そんな精神的な追い込みでラオは肩で大きく呼吸し、インドネシアの暑い太陽光でジリジリと熱された熱湯のような汗がこめかみから顎まで伝っていくのが感じられた。
汗が顎を離れ、地面に着地するその瞬間、状況は刹那に動いた。
「ぐっ!」
大きくしなった触手が水平に放たれ、ラオの腹を強打した。一瞬目の前が暗くなり、物凄い勢いではるか後ろの木に打ち付けられ、木が震え、葉っぱが落ちた。
バハヤは、ラオが消耗しきるこの時を待っていたのかもしれない。最小限の力で、少し力を加えるだけで折れるように。事実、ラオはかなり消耗していた。怒りに任せ、力だけで突進し無駄な動きが多く、ここ最近の苛烈なトレーニングメニューを組んだため基礎体力が上がり、なんとか食らいついているだけだった。
「まだだ! まだ終わらない!」
体中にまとわりつく鈍痛を押しのけ、地面を蹴る。そして腰に付けられた短刀を引き抜く。
「打ち込めないなら、肉を割くまでだ!」
右手で逆手に刀を引き抜き、頭上から打ち込まれた触手を横に交わし、懐に飛び込んで横一線に斬りつける。至近距離から斬られ、内側のピンク色の肉を見せる。
「はぁ!」
その切れ目に向かってラオは警棒を打ち込んだ。先程の打ち込みとは違い、深くまで警棒は刺さり、グリップ付近まで打ち込まれた。バハヤは一瞬身じろいだ。痛みがあるのかもしれない。
斬撃は通じると判断したラオは、そのままの勢いで反対側まで走り抜け回り込むと、再び斬撃を加えその切れ目にまたもや警棒を打ち込んだ。
そして一気に間合いを取り、打ち込まれた警棒に身をよじるバハヤへ、ラオは経文を唱え始める。
「namaH samanta vajraaNaaM, caNDamahaaroSaNa
sphoTaya huuM traT haaM maaM!」
不動明王の真言を放つと、警棒が光り輝き、その場に爆発が起きた。地鳴りと爆風で木々が揺れる。ラオは腕を顔の前にかざして舞い上がる土煙を防いだ。
次第に土煙が収まると、そこには小さなクレーターが出来ていた。ラオは警戒しながら近づくと、まだ視界の悪いその穴から、一人の女が飛び出し、油断したラオの顔面に拳を叩き込んだ。
「──!」
地面を滑りながら後ろへ吹き飛ばされたラオは、左の頬骨に違和感を感じた。
「か……がは……」
不動明王を真言を放ったラオは、もはや立つ気力もなかった。飛び出した女は一糸まとわぬ姿でゆっくりと歩み寄り、腰までの髪を風に揺らせた。その顔は冷たく、感情はなかった。
ラオは死を覚悟した。
その瞬間、ラオの後方に現れた一台のジープが土煙を上げながら急ブレーキで停まり、ボディの側面を見せる。そして空いた窓からベスパが銃を構え、電撃を帯びた一撃を放った。
静電気の様な音を纏いながら、黄色とも白ともつかない明るい閃光弾がラオの目の前の女に打ち込まれた。女は避けたが右腕に銃弾を受け、肩から先が千切れ飛んだ。
ベスパは閃光弾を撃ちながらラオの横まで移動した。
「大丈夫か!?」
「な、なんでここがわかった?」
「さっきなんか爆発させただろ? あれで分かったよ」
女はいくつかの閃光弾を受け、その場で動きを止めていた。ベスパがマガジンを引き抜き、弾丸を装填し直している間にも、襲っては来なかった。
「あれは、私も見たことがない。一体何なんだ……」
「さっきカリムからインドネシア政府の調査報告が来たって連絡があった。ポンティアナック、だそうだ」
「……あれが」
「知ってるのか?」
「あぁ、知ってる。見たのは初めてだが。インドネシアに伝わる、日本で言うところの幽霊や妖怪の類だ。まさかあれが正体だったとはな」
「だが、インドネシア政府の見解は違うらしい」
「違う?」
「ヒンドゥー教だかの密教の類で作られた、生体兵器の一つらしい。肉塊が卵で、あれが成体だ。便宜上、そう名付けたようだ」
「なんだって……?」
「逃げ出したとか意図的に放ったとか、そこら辺はよくわからないが、とにかくそうらしい。で、あれは、もう……寿命だ」
ベスパがそう言うと、ポンティアナックと呼ばれたその女は、寂しげな目で二人を見ると、そのままのその場へ膝から崩れ落ちた。そして皮膚が次第に溶け、ゆっくり時間をかけて大地に消化されているかのようにジワリと滲み、いつの間にかそこは何もなかったかのように静まり返った。
「ど、どういう……こと?」
「まだあれは実験段階だったようだ。ラオが昔あれと遭遇した頃から計算して、そろそろ孵化の時期だった。そしてお前から衝撃が与えられて生体になったが、成体になるとその活動時間、つまり寿命は約十分」
「じゃああれは、勝手に死んだってことなのか……?」
「そう、なるな」
ベスパがそう一言言うと、ラオは口をつぐんだ。どんな気持ちなのか、ベスパはなにも察することが出来なかった。思い出したように吹いた風が木々に葉を揺らした。それを合図に時間が動き出したような気がした。
しばらくしてラオは嗚咽を漏らし、その頬を濡らした。地面を叩き、そして拳から血が出るまで叩き続けた。
「おい、やめろ! 血が出てるだろ!」
「私は! 私は何の為にここまで来たんだ! やつをこの手で殺して、父さんと母さんの仇討ちを成すために来たんだ! なのになんで、勝手に死ぬんだよ! 私はこれからどうしたらいいんだ!」
ラオは自分を抱きしめるベスパの腕の中で泣いた。そして、泣きつかれた子供のが眠るように彼女が気を失うまで、ベスパは強く抱きしめ続けた。
・・・
翌日、ジャカルタのホテルにおいてベスパ一人でハリと面会し、依頼の終了を報告した。依頼の是非より、彼はラオの状態を心配した。
実際にそこまで怪我はひどくなかった。少し骨にビビは入っていたが、自分で食事も取れるし、顔の腫れもほとんどなかった。それよりも、泣き腫らした目の方がよほど重症だったため、ベスパはハリに嘘を付き、しばらく安静にして、そしてそのまま日本へ帰国すると伝えた。
「彼は帰ったよ」
部屋に戻ったベスパは後ろ手にドアを閉めながら、ラオに言った。
「……すまない、気を使わせたな」
「気にするな。それより、帰ったら連絡してやりな。それで彼も安心するだろう」
分かった、と言ってラオはホテルのベッドのベッドボードへ持たれながら、窓から見える海を見た。
「私は……。一体何だったんだろうな」
「何だ、とは?」
ラオは左頬にガーゼを貼った顔をベスパに向け、ベスパはソファに座った。
「復讐とか敵討ちとか、そういった感情であの頃から生きてきたんだ。でも、結局、奴は放っておいてもいつか勝手に死んだだろうし、実際私のやった攻撃は殆ど効かなかった挙げ句、目の前で勝手に死んだ。私がこの手で、仕留めてやろうと思ったのにな。これから──どうやって生きていったらいいか分からないよ」
そこまで言い終わると、再びラオは外を見た。静かな部屋にはエア・コンディショナーの静かな送風音だけが聞こえ、波の音も、人の声も聞こえなかった。
「……? どうした?」
ベスパはおもむろに立ってラオの側までやってくると、別途に腰掛けた。そして、そのまま彼女を抱きしめた。
「お、おい……!」
「じっとしてろ」
静かな一言に、ラオはそれ以上何も言わず、言われたとおりに、微動だにしなかった。
「これからはお前自身の為に生きるんだ。お前の好きなように、思うように。他のことは考えなくていい。じっくりとゆっくりと時間をかけるんだ」
「でも私は……」
「俺が側にいるよ」
ラオは少し体を固くした。でもすぐに緊張を解いて、抱きしめるベスパを抱きしめ返した。温かかった。その温かさに、ラオは涙を一筋流した。
「ありがとう。……ベスパ」
・・・
帰国の日の朝、システムのキャップから、ラオの父親が目覚めたと連絡が入った。本当に朝起きるように目を覚ましたという。
ポンティアナックは、恐らく父親に何かしらの呪術を仕掛けたようだった。死んだことにより、その呪術が解け、目を覚ました。
・・・
空の上で、ラオは眠りこけた。まだ顔には大きなガーゼが貼ってあったが、その寝顔はとてもリラックスして微笑みを浮かべ、そして隣に座るベスパの肩に頭を置いた。
ベスパは、まんざらでもなかった。




