未だ目覚めぬ望郷の想い 2
密林が鼓動するように揺らいだ。木々がしなり、土が捲り起こされ、土煙と、そして母の血飛沫が上がった。母は眼前の脅威によって胸を切り裂かれ、ゆっくり質の悪いVHSテープのスローモーションの様に後ろへ倒れていき、その母越しに見えるそれと目が合った気がした。
その驚異はまるで肉の塊のように見えた。手も足もないが、数本の触手がまるで手足のように移動や攻撃をしていた。ブヨブヨの見た目に反して、それはとても乾いていた。カサカサの暗い茶色の肌には土やゴミが付着し、醜悪な見た目と相まって更に汚く、そして母の返り血を浴びたその姿はまさに地獄の獣に見えた。
「母さん!」
ラオが叫んで近寄るが、既に母は呼吸が途切れていた。母が足止めし、父が攻撃を加え、ラオがトドメを指すといういつもの手順の最初にして最も重要な部分を失った為に、ラオは動転した。こんな仕事の依頼なんて受けなければよかった。と、ラオはこの先、ずっと後悔することになる。
父は一人猛攻をかけるが肉塊に取り込まれ、吐き出された頃には全身の骨は砕かれ、当初は父の顔の造形すら変わっていた。
敵の戦意喪失を感じ取ったそれは、動きをにわかに止め、じっくりとした足取りで密林の奥深くに戻っていった。
その後、それの撃退を依頼したインドネシア政府はラオ一家への依頼を引き下げた。これまで特殊部隊や軍を投入して効果が表れず、藁にもすがる思いで依頼した一家が壊滅した以上、もはや対抗策はないと踏んだのだ。しかし幸か不幸か、これ以上の被害は出ず、あの化物は活動を停止したと思われていた。
そして当時まだ十才だったラオは一人、死を覚悟するほどの修行に入る。目を覚まさない父の面倒は、インドネシア政府が見た。それに安心したラオはインドネシアを出国し、東南アジア圏の寺院を巡り各地で修行を行った。八年間の放浪の末に日本へ到着し、寺社仏閣を巡っていた際に彼女はシステムへスカウトされたのだ。
・・・
「ラオ、コーヒー飲む?」
「え、あぁ。ありがとう」
カオルがコーヒーをデスクに置くまで、その存在に気が付かないほどに、ラオは物思いにふけっていた。死んだ母と目を覚まさない父。死んだ母は生き返りはしないが、父は必ず目を覚まさせてみせる。いつも夜勤の時にはこうやって自身を振り返っていた。
「今日も、お父さんのところへ?」
「あぁ」
「変わりない?」
「ずっと寝てるよ。娘が心配してるのにな」
「やっぱり寝てるだけなの?」
「どこも悪くないし、健康そのものさ。ただ、眠り続けてる、延々とな」
カオルの淹れた、熱すぎるコーヒーを一口飲むと、少し忍び寄っていた眠気は飛んで、目がチクチクと覚めていくのがわかった。
「前に言ってた、『呪術的拘束』についてはなにかわかった?」
「いや。……でも」
椅子に浅く腰掛けていたラオはおもむろに座り直し、デスクに肘をつき、意味もなくPCの画面を見た。画面の明る過ぎるブルーライトが、ラオの顔を白く照らしている。
「多分だけど、またやつに会えればなにかわかる気がするんだ。だが、私一人でなにかできるかと言われると不安だし、それにどこにいるのかさっぱり分からない。とりあえずはやつも動いていないから、しばらくは安心してはいる」
「そう……」
沈黙が二人の間に流れる。しかし、ラオはその沈黙が、何もない偶然に生まれたものというより、カオルが何かを言いかけて止まっている沈黙に感じていた。
ラオはじっと、目だけを向けてカオルを見た。それに気がついたカオルはすっと目を逸らす。
「なんだ? なにかあるのか?」
「いや、なんでもないよ」
カオルはそのまま自分のデスクに戻った。
・・・
時間はその後何もなくシステムを通り過ぎていった。ヤミも出ないし、軽犯罪も起きない。全く持って平和そのものだった。
「おはよう」
司令室にキャップが挨拶をしながら入ってくると、迷うことなくラオのもとにやってきて、一部の資料をデスクに置いた。
【インドネシア政府極秘依頼要項】
この資料をひと目見たとき、ラオはカオルの様子がおかしかったことを思い出した。
あぁ、こういうことか。と、ラオは思った。
「ラオ。インドネシア政府からの極秘依頼だ。……お前が適任かと思ってな」
「なんとなくわかります。この事を私以外にも話しましたか?」
「ああ、カオルにはな。この依頼がきてからすぐにお前に話すべきかどうか悩んでな。なにせ、依頼内容を見ればわかるが、ラオをご指名なんだ」
ラオはページをめくり、内容を見ていく。
「分かりました。私が行きます」
インドネシア行きの日程を組み、そしてこの出張にベスパが付き添うことが決定した。
・・・
「にしても、なぜお前なんだ? 志願したか?」
「あぁ、そうだ」
ジャカルタへ向かう飛行機の中で、アイマスクをして隣に座るベスパへ話しかけた。
「お前が心配だって言ったろ?」
「勝手に言ってなさいよ」
「なんでだよ? 俺たち仲間だろ」
「仲間、ね。でもね、この件は私の問題よ。私が自分でカタを付けなきゃいけないの」
「そうかもしれないけど、お前だけの問題でもないぜ。なにせ、これはシステムの任務だからな」
「…………」
「お前も、そこは勘違いするなよ? 一人で突っ走って任務放棄とか、笑えないからな」
分かってるよ。と、ラオはボソリと呟いた。
窓から下を見ると、厚い雲で覆われていた。




