未だ目覚めぬ望郷の想い 1
システムの地下鍛錬施設のトラックコースで、ラオは走り込みをしていた。どれくらい走り込んでいるのか、着ているプラクティス・スーツは汗が滲んで色が濃くなり、額からは止めどなく汗が流れ、他に誰もいないコースには走る靴音と息遣いだけが聞こえている。
無心で走っていた。先日ベスパの倒したヤミに、ラオは及ばなかった。あの時ベスパが現れていなければ、恐らく死んでいたのはラオだっただろう。こんなことでは、両親の仇討ちなどいつまで経っても成就できない。そんな焦りから、ラオはここ最近、無茶なトレーニングメニューを組んでいた。
「おい、ラオ!」
何周目かの走り込みをし、スタートラインに戻って来たとき、ベスパが呼び止めた。ラオはその姿をちらりと見たが、そのまま走り抜けてしまった。
こうなると本人が納得するまで止まらないのを知っているベスパはそれ以上呼び止めず、近くにあった椅子を引いてきて、自分を追い込んで走っているラオを見学することにした。
それから五周したあと、ラオは走り込みをやめ、首にかけていたタオルで汗を拭きながら居眠りをしているベスパの元へ向かった。止まった途端に吹き出す汗を拭きながら、肩で息をし、ペスパを見る。ラオはしばらくベスパが起きるのを待ったがその気配がないのに気がつくと、横を通り抜けて帰ろうとした。
「おい! 起こさないのかよ」
「なんだ、起きてるじゃないか。つしょうもないことをするな」
「ちょっとした冗談だろ。素通りとはひどいな」
ラオは椅子を持ってきてベスパの隣に座った。
「で、なんの用だ?」
「無茶してんじゃないかって心配になってな。ここんところ追い詰め過ぎじゃないか?」
「私の勝手だ」
「勝手だって言われても、俺とお前はペアで動くことが多いだろ。いざってときにクタクタになってもらっても困るんだよ」
「安心しろ。そんなヘマはしない」
「でも、人間いつなんどきミスするかわからないだろ。体を休めるのも大事じゃないのか?」
「休養もちゃんと取ってるよ。御前が心配するほど、私は疲れてなんていないし、こんなことでは疲れてるようでは、そもそもこのシステムでは役に立たない」
「まぁ、確かにそうだな」
「だから、私のことは放っておいてもらって問題ない。お前はお前の為に時間を使え」
そう言うとラオは立ち上がってトラックを出ていった。
ベスパはその姿を見送り、空虚になった椅子を見てラオの事を心配していた。
──そんなに邪険にするなよ。
ペスパはちょっと頭の隅でそういった考えを巡らせたが、そんな気遣いなどに気がつくほどラオは敏感ではないだろうし、むしろ自分から壁を作って他との調和をあえて取らず、だからといって他の調和を乱さず、「私は私だ」と言わんばかりだ。その壁の高さをみるに、まだベルリンの壁のほうに謙虚さを感じる。
ベスパは大きくため息を一つ吐いた。
・・・
夕方の東都にラオは繰り出していた。別に何かあって出たというわけではないが、急ぎの仕事がないときはこうやって外を歩き、街並みをチェックしながら食事を摂り、時々、時間が許すときは地下鉄に乗って東都大学付属病院へ足を運ぶ。ここには、未だ目を覚まさないラオの父が入院している。
大きな石碑かなにかのように東都の郊外にそびえ立つ、のっぺりとした白いコンクリートの建物は、東都以外の都道府県からも多くの患者が救いを求めてやってくる、日本でも最先端の医療機関だ。大学附属病院である以上多分に漏れず、その多くは危篤だったり、末期だったり、はたまた(ごく少数ではあるが)不可思議な病気だったりするのだが、ラオの父はまさしく、その不可思議カテゴリーに属していた。
元々はラオの生まれであるインドネシアの大学附属病院にいたのだが、システムに加入するにあたってマスターと長官の計らいで、ここへ移されたのだ。「この方が集中できるだろう」と。「確かにそうだ」とラオは遠い故郷に父を残して来なくてよかったと、ここへ来るたびに思っている。最先端の医術に、システムの息のかかった医療施設、そして自分の手が届くところに父がいる。
実のところ父は既に健康そのものだった。人工呼吸器などの生命維持装置は一切付いていないのだ。繋がっているのはカテーテルと栄養剤を投与するための点滴だけであり、ラオはいつ来ても父が実は寝ているだけにしか見えないのだった。実際に医者は、「確かに寝ているだけで、心拍も心電図も血圧も何も問題ない。これはもっと別の外的要因である」と言った。そして、「おそらくですが、これは呪術的拘束が掛かっているかもしれません」という、よもや医者が言うはずもない事を言ったのだ。
そのセリフ自体は、システムの息がかかった医療機関であるとすればそこまで違和感がないのだが、問題はその呪術的拘束だった。かつて戦ったあの呪物に、そんな事ができたのだろうか。ラオはその審議を今でも追っていた。
・・・
父のために特別に用意された個室は、もはやホテルと言ってもいいくらいの待遇だった。病室は夕方のオレンジ色の斜陽が差し込み、ほのかに暖かい。最上階であるために街の喧騒は全く聞こえず静かで、廊下を歩くナース達の話し声が時々聞こえはしたが、大体にこのフロアに入院しているのは特別な待遇を受けるべくして受けている人物ばかりだったので、そもそも人が少ない。死んだように、静か部屋だった。
「父さん」
大きく響いたラオの声に、父は反応しない。安らかに寝息を立てている。肩を揺すって目を擦りながら起きるのではと思うほどに、自然な状態だった。
ラオはそれ以上、父に何も話しかけなかった。椅子を引っ張りベッドの側で腰掛けると、布団の上に頭を置いて物思いにふけり、そして考えるのをやめた。暖かな布団だった。
・・・
「ラオさん」
「……ん」
目を覚ますと、外は真っ暗だった。いつの間にか眠っていたラオは、病室のカーテンを閉めに来たナースに起こされ、一瞬自分がどこにいるのか思案した。
「大丈夫ですか? もうこんな時間ですよ」
「あぁ、すいません。もう帰りますので」
時間は夕方をとうに過ぎ、二十時前となっていた。
「父さん、また来るね。……すいません、父をよろしくお願いします」
分かりました。というナースに挨拶を交して病室を出て、気味の悪いくらい静かなエレベーターで一回まで降りると、病院のメインホールにはほとんど人がいなかった。救急外来の患者の付添のものが数名、喫煙コーナーでタバコを吸ったりコーヒーを飲んだりしている。救急で運び込まれた割にはなんとも気の抜けた光景のように、ラオの目に写った。外では未だ救急車が赤色灯を回し、救急搬送があったことを知らせていた。
地下鉄に乗ってラオがシステムに戻ったのはそれから大体四十分後だった。司令室は静かなものだった。
「申し訳ない、ギリギリになった。代わろう」
「はいはーい」
交代の時間になって、夜勤のラディは欠伸をしながら背を伸ばし、指令質を後にした。ラオの他には数名の職員と、自分のデスクでコーヒーを飲むカオルだけだった。
椅子に深く腰掛け、後ろ手を組み、デスクに映し出される東都を眺めていた。




