ケルベロス・システム 3
「ぐっ!」
「ラディ!」
弾き飛ばされたラディの肩を支えて立たすと、カオルはシフトが使えない自分の状況に下唇を噛んだ。
現場に到着したのは今から十分程前。帰宅ラッシュ時の地下鉄構内に出現したヤミのせいで、何人もの人が死んだ。到着した二人は、散乱した臓物と手足と、人体の一部を欠損した被害者、まだ温かい血とその臭いを体感した。こんな凄惨な状況を、海外の内戦地以外で見たことなどない。それだって軍隊同士の衝突で起こるものだが、眼前で起こっている状況は、たった一体のヤミによって起こされたものだ。そう考えると単純に、一体で軍隊並みの戦闘力を持っているということになる。
全身に返り血を浴びた女性型のヤミは、かつて白かったと思われる真っ赤に染まった破れた無地のTシャツを来ており、一種の妖艶さを醸し出している。下半身はスキニージーンズの上からでもわかるほどに、バネのいい靭やかな筋肉が伺えた。
「システムにも連絡つかないし、シフトもできないし、後方支援も来ないし。ぶっちゃけこれは、ヤバいですね」
「でも、私達しかいないんだ。なんとかするしかない!」
カオルがファースト・エッジを構えて飛び出す。鞘から一気に居合で刃を一振り振り抜くが、ヤミはあっさりと横へ躱し、回し蹴りを背中へ放った。辛うじて身をよじり交わしたが、体制を崩したカオルを見逃すはずもなく、返した身でそのままの右の拳をカオルの顔面に叩き込んだ。
「──!」
「先輩!」
言葉を発する間もなく、カオルの体は空中にへ回転しながら跳ね上げられ、落下してきたところで視覚できない速さの蹴りを打ち込まれる。
弾き飛ばされたカオルはホームの上りエスカレーターの壁に叩きつけられた。
「かっ──がはっ!」
カオル左頬に大きなアザと鼻血を出し、口からも血を吐いた。そして蹴りを打ち込まれた右脇腹に鈍痛を感じる。おそらく肋骨が折れている。呼吸ができているところ、肺を圧迫しているわけではなさそうだが、このままだとどのみち危篤な状態になりかねない。
ヤミは動けないカオルに歩みを進めた。
「離れろ!」
自らの血液を凝固させた刃を出したラディが、後ろからヤミに斬りかかる。一瞬の気の遅れでヤミは肩口に切り傷を負ったが、それも大したダメージにはなっていなさそうだった。ラディは猛進で斬りきかかり、カオルに詰め寄ったヤミを引き離していく。
このままだと勝てない。想像を超えた一撃の重さ、動体視力を超えた動き。普通の人間では対処できないというのがよくわかる。一体目は自分が倒したとは言っても、それはシフトをした状態のカオルであって、カオル単体ではない。
カオルを庇って遠くまでヤミを追いやったラディも、敵の攻撃を受け流すので精一杯であり、カウンター攻撃を出せるほどの余裕はない。それよりも流しきれなかった小さな攻撃を受け、服が少しずつ破れていき、その下の白い肌が血を滲ませていた。
ラディは確かに不死だが、このままでは結局ヤミを倒すことはできない。二人は追い詰められていた。
「ラディ! 離れて!」
どこからか聞こえたカリムの声に、ラディは一気にヤミとの間合いを取った。その瞬間、地上からの階段の上から猛スピードで走ってきたバイクにヤミは跳ね飛ばされ、その衝撃でホームの下へ転落した。
「カ、カオル、お待たせ」
「カリム!? あんたなんでここに……。あ、マスター!?」
カオルが駆け寄って目を回すカリムを抱きかかえてバイクから下ろすと、ヘルメットを外し白い髪を整えるマスターに気がついた。さらりと首の周りを髪が舞い、ほのかに優しい匂いがした。
そして遠くでその状況を見ていたラディは、どちらかといえばカリムがヘルメットを被るべきなのでは? と思っていた。
「カオル。随分やられたみたいですね。早くシフトをしなさい」
「はい、ありがとうございます」
カリムは抱きかかえられたままカオルと視線を合わせる。カリムが体の力を抜きぐったりすると、マスターが幼子を抱くように引き受けた。
カオルが目を瞑り動かない隙きに、ホームを上がったヤミが走りかける。それに気が付いたラディは同時に駆け出す。目標物であるカオルまで、ヤミは約三十メートル、ラディは約十五メートル。その距離はヤミが倍だが、身体能力差を考えればちょうどいい距離だった。
カオルの腹に穴を開けようと猛進するヤミと、それを防ごうとするラディの駆け出すタイミングはほぼ同時だった。ラディにはこれほどまでにスローモーションに見える動きは初めてだった。
ヤミの強靱な筋力は、身体能力を強化された吸血鬼の速度を上回っていた。
このままでは先輩がやられる。ラディの汗が顎の先から飛び散る刹那にそう脳裏をよぎった。
「ラディ、もう大丈夫」
ラディの耳にはっきりとカオルの声が聞こえた瞬間、ヤミの拳を避けカウンターの一撃を顔面に叩き込んだカオルの姿が眼前にあった。ヤミの突進スピードとカオルの拳の威力の相対性により、ヤミの顔面からは骨が砕ける鈍い音がした。
「はぁっ!」
そのまま拳を振り抜き、ヤミを押し返す。後退ったヤミはすぐさま体制を整え、砕かれ歪んだ顔をズレなくカオルへ向けた。しかしそこにはカオルの姿は既に無い。ヤミの右の視界に僅かに入ったカオルの姿を見据え、辛うじて斬撃を避ける。ヤミの短い髪が、ハラリ、と切れた。うつ伏せに避けたヤミはその反動で低い蹴りを放ちカオルの腹部に打ち込んだが、それを予測して僅かに後退したカオルは、その威力を打ち消した。蹴りで押し出された空気の層がカオルの前髪を、ブワリ、と揺らした。真綿を蹴ったような感覚にヤミは体勢を崩し、その隙きを見て、カオルはヤミの首へ刃を下ろした。
水気の含んだ斬撃音の後、ヤミはその場に崩れ落ち、切り離された首が転がった。
「……」
カオルは肩で息をし、ラディはその場に座り込んでいた。
・・・
地下鉄駅入り口の階段は封鎖され、事後処理班によってホームがざわつく中、四人は集まっていた。
「カオル……。大丈夫かい?」
「大丈夫だよ。あんたが来てくれてシフト出来たから、傷は一つもないよ」
「ほんと、先輩は便利ですよね。まぁ、私も自己回復できますけどね」
そう言うラディの体には、既に傷一つなかった。
「ラディもありがとう。あんたにも助けられっぱなしだね」
「いいんですよ、そんな事」
ラディはまんざらでもないように照れながら笑った。
「それにしてもよくバイクに乗れたわね。マスターに乗せてもらったの?」
それを聞いてカリムはバイクに寄りかかりニコニコと微笑見ながら腕を組むマスターを見て、思い出したように青ざめた。
「そうだ、聞いてよカオル! 僕、マスターに殺され──」
「さぁ、そろそろ戻りましょう。車椅子が無いからカリムはまた私と帰りましょうね」
マスターに抱きかかえられバイクのタンデムシートに乗せられたカリムは、泣きそうな顔でカオルを見た。そしてタンデムベルトで固定されると、そのままの地下鉄の入り口階段をバイクで登っていった。
「何、泣きそうな顔してんのよ、あのこは」
「……いやいや、先輩。それよりあそこを登りますかね、普通」
二人はガタガタと登っていくバイクを見て、安堵したようにため息をついた。




